第18話 決意を固めた瞬間
私は、伯母の言葉を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。
「証拠……?」
「ええ。王宮財務局の不正を暴くためのものでもあるし、あなた自身の出生を証明するためのものでもあるわ」
「私の……出生を?」
その言葉だけが、妙に耳へ残った。
領地の不正についてなら、まだ理解できる。けれど、なぜそこに私の出生が関係してくるのだろう。私はアーレンス公爵家の娘として生まれ、そう教えられて育ってきた。少なくとも、五年前まではそれを疑ったことすらなかった。
伯母はそんな私の疑問を見透かしたように、屋敷の奥へと視線を向けた。
「........地下室よ。あなたのお母様は、そこに最後の証拠を残した」
「……地下室」
その言葉を聞いた途端、古い記憶が一つ蘇った。
母が亡くなってから五年間、一度も足を踏み入れたことのない場所。
幼い頃、好奇心から地下室へ向かおうとした私を、父が珍しく強い口調で叱ったことがある。
『あそこには何もない.......だから、絶対に近づくな』
当時の私は、ただの古い物置なのだと思っていた。けれど今になって考えれば、おかしい。本当に何もないのなら、わざわざ娘に近づくなと念を押す必要などない。
「……行きましょうか」
私がそう言った瞬間、隣から大きな手が伸びてきて、腕を掴まれた。
「.....待て」
「……ヴァイス様?」
「危険だ.......そんな未開の地は、愛している人を連れて行くのにはあまりにも危険すぎる」
振り返ると、ヴァイスは珍しく冗談の一つも言わず、真剣な顔で私を見つめていた。
「君はここ最近だけで十分すぎるほど危ない目に遭っている。父親には刃物を向けられ、王宮財務局まで敵に回し、そのうえ今度は正体の分からない証拠を探しに地下室へ行くんだぞ。俺としては、せめて今日くらい大人しく部屋で温かい茶でも飲んでいてほしい」
「それは魅力的なお誘いですけれど、残念ながらお断りします」
「......即答か」
「ええ。五年間、私は何も知らされないまま生きてきましたから」
私は地下室へ続く扉を見つめた。
「母がなぜ亡くなったのか、父がなぜ私を遠ざけたのか、ヴィオラ様がなぜ私を徹底的に監視していたのか。そして、私が何者なのか――何も知らないまま、ずっと誰かの都合で人生を決められてきたのです」
指先を扉へ伸ばしながら、私は静かに続けた。
「もう嫌なのです。知らないことを恐れるのも、誰かに隠されるのも」
「……リーシェ」
「真実が私を傷つけるのなら、それも受け入れます。ですが、知らないまま守られるくらいなら、自分で知って、自分で決めたい」
ヴァイスは何も言わなかった。ただ、しばらく私を見つめたあと、ふっと表情を和らげる。
「……分かった。君の好きなようにするといい」
「あら、意外と物分かりがよろしいのですね」
「ただし......条件がある」
「......なんでしょう?」
「俺も一緒に行かせてもらいたい」
「それは条件ではなく同行宣言では?」
「.......細かいことはあまり気にするな」
「騎士団長ともあろうお方が、契約条件の定義を曖昧にするのはいかがなものかと思いますが」
「君が一人で行くよりは、俺が一緒に行く方が安全だろう?」
「……まあ、それは認めますがね」
「それに.......」
ヴァイスが、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「君が一人で危険な場所へ行くのを、俺が黙って見ていられるほど器用な男ではない」
「……」
「だから、諦めて俺を連れていけ」
「それではまるで、私がヴァイス様を荷物のように扱っているみたいではありませんか」
「そこらへんのお荷物よりは役に立つつもりだ」
「では、地下室に期待しておきますわね」
「……せめて人として期待してくれ」
思わず笑みが零れた。
こんな状況でも、彼と話していると不思議と呼吸がしやすくなる。
五年間、私の隣には誰もいなかった。
今は違う。
私が前へ進もうとすれば、当たり前のように隣を歩いてくれる人がいる。
「では、参りましょうか」
私は古びた鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
――カチリ。
長い年月閉ざされていた扉が、重い音を立てて開く。地下から流れてきた冷たい空気が、頬を撫でた。
「……思ったよりは、普通ですね」
地下室には古い机や棚が並び、壁際には使われなくなった家具や書類箱が積まれている。
「もっとこう……秘密の地下牢とか、巨大な魔導装置とかを想像していました」
「君は地下室に何を期待しているんだ......?」
「公爵家ですもの。何か一つくらい曰く付きのものがあってもいいでしょう?」
「そんなことを俺に聞かれても困るぞ......」
そんな会話を交わしながら奥へ進んだ、その時だった。
ヴァイスの足が止まる。
「……リーシェ」
「ええ。私も気づきました」
地下室の中央。
埃だらけの床や棚とは明らかに違い、そこだけ妙に綺麗な場所があった。
そして、その中央には――明らかに小綺麗な一つの箱が置かれている。
「……誰かが最近、ここへ来ています」
ヴァイスが低く呟いた。
私も頷く。
「ええ。少なくとも、何年も放置されていたものではありません」
近づいてみると、箱の蓋には一つの文字が記されていた。
――『リーシェへ』
母の筆跡だった。
「……お母様」
指先が震えた。
五年間、どれほど会いたいと思っても、もう二度と会えない人。
その人が、今こうして私のために何かを残していた。
私はゆっくりと蓋を開ける。
中には古びた日記帳と、何枚もの書類が綺麗に束ねられている。そして、その一番下に、一枚の肖像画が収められていた。
「……これは?」
私が取り出した瞬間、息が止まった。
そこに描かれていた男の顔を、私は知っている。
王宮へ行けば、誰だって何度もその方の肖像画を目にする。
歴代国王の中でも特に国民から慕われ、若くして亡くなったと言われている――先代国王。
「……どうして、お母様と一緒に?」
肖像画には、若き日の母が描かれていた。しかも、ただ隣に立っているだけではない。二人の距離は、家臣と国王などという関係では到底説明できないほど近かった。
私は震える指で肖像画を裏返す。
そこには、母の筆跡で短い文章が残されていた。
――『この子の父親は、彼です』
「…………」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
「リーシェ?」
ヴァイスの声が遠く聞こえる。私は何度も文字を読み返した。
この子......それは、きっと私のことだ。
父親。
それは――。
「……まさか」
唇から、かすかな声が漏れた。私はゆっくりと顔を上げる。
「私の……本当の父親が?」
その先を言葉にできなかった。代わりに答えたのは、背後に立つ伯母。
「......ええ、これが“真実”です」
静かな声だった。
「あなたのお母様が愛した人。そして、あなたが本当の父親として生まれた相手は――先代国王よ」
「…………」
世界から音が消えたような気がした。
前国王。
すでに亡くなっている、この国の王。
その人が、私の父親。
つまり私は――。
ただのアーレンス公爵令嬢ではない。
この国の王家の血を、直接受け継いでいる。
私が言葉を失っている横で、ヴァイスもまた肖像画を見つめていた。
「……なるほどな」
「ヴァイス様?」
「だから、君の母君は何も話さなかったのか」
「どういう意味です?」
「もし君の出生が公になれば、君はただの公爵令嬢では済まない。王位継承権に関わる話になる可能性がある」
その言葉に、伯母が静かに頷いた。
「だからこそ、お母様はあなたを守るために、すべてを隠したの」
私は肖像画を胸に抱える。五年間、私は自分が捨てられたのだと思っていた。
母にも、父にも、家族にも......
けれど違ったのだ。母は私を捨てたのではない。私が生き残るために......危険目に会うのを防ぐために.......真実そのものを捨てたのだ。
「……お母様」
目の奥が熱くなる。
けれど、涙は流さなかった。
今さら泣いてしまえば、母が残したものまで涙で滲んでしまいそうだったから。
その時、地下室の外から、慌ただしい足音が響いた。
「ヴァイス様.......!」
騎士の叫び声が聞こえる。
「王宮から緊急の使者が来ています!」
ヴァイスが眉を寄せる。
「こんな時に?」
「それが……」
扉の向こうから、騎士が息を切らしながら告げた。
「王宮で、第二王子殿下が拘束されたとのことです!」
「……何?」
私の手から、肖像画が滑り落ちた。床に落ちた衝撃で、裏側の板が僅かに外れる。その隙間から、一枚の小さな紙が落ちた。
私はそれを拾い上げる。
ーーー母の筆跡だった。
そこには、先ほどとは違う言葉が一つだけ記されていて.......
――『リーシェ。あなたの父親を知るだけでは、まだ何も終わらない』
私は息を止めた。
その下には、さらに一行。
――『あなたの出生を最も恐れている人物は、今も王宮にいる』
地下室の空気が、一気に冷たくなった。
私は紙を握り締める。
母が命を懸けて隠した秘密。
その秘密を、誰かが今も恐れている。
そして――その誰かが、とうとう動き始めた。
「……ヴァイス様」
「ああ」
彼もまた、同じものを見ていた。
「行きましょうか」
私は顔を上げた。
「ーー王宮へ」
今度は、真実に追いつくためではない。
真実を奪おうとしている誰かから――母が命を懸けて残してくれたものを守るために。
五年間、私は誰かに守られることなどなかった。
だからこそ、もう一度だけ思う。
今度は私が――私自身の未来を守る番なのだ。
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