21話 蠕動
暗闇の中、たゆたう体は水の中かそれとも宙を浮いているのか。
ルシアは仰向けに寝た姿勢で目を閉じ、流れに身を任せている。
『相変わらず、私欲がないね』
どこからか響いてくる優しい声に、ルシアは素直に返事する。
「師匠。私欲は良くないものです」
『そうでもないよ』
幾度となく行ってきた師匠との問答に、懐かしさを感じた。
「私利私欲で術を行っては、人に害が及びます」
『ならば祓う、とはそもそもなんだろうね』
「心身の厄や罪、穢れをなくし清浄な状態にすることです」
過去の問答では、ここから具体的な修行の話になったのを覚えている。ところが今は違った。
『清浄というのは、人が人であることだろう。欲なくして人、となり得るのかな』
「騎士を洗脳したり悪魔召喚したりは、害をもたらす欲なのでは。このままでは、王国が滅んでしまいます」
『政治も軍事も腐っているのなら、滅びた方がいいんじゃないか?』
ルシアは、その言葉に衝撃を受ける。確かに、防衛の要である騎士団は総崩れになったと言っても過言ではない。
悪魔召喚の事実は、魔法が失われたというこれまでの根底を覆すもの。しばらくは王国内を混乱が襲うだろう。
今他国に攻め入られたら、到底太刀打ちできない。
「そんな……どんな人命も、尊ばれるべきです」
『それは、君の欲じゃないのかい?』
「っ!」
ルシアは、ゆっくりと目を開く。一筋の光明が、自身のすぐ側を走っているのを見ながら、そっと身を起こす。足を地につけるイメージで、立ち上がる。一歩、踏み出してみる。――歩けた。
「わたくしの力が。修行が足りないのだと思っていた……」
『ミツ。ルシア。どちらも、光だ。未来を照らす力がある』
光明の向こう、光る扉が現れた。
「ありがとうございます、師匠」
『私は、師匠なんかじゃない。君が積み重ねてきた、君自身だ。自分を信じて』
「っ、ええ!」
ルシアは、力強く歩く。
これは、修羅の道だ。一筋の光以外は真っ暗闇だが、なぜか自分が髑髏を踏みしめていると分かっている。シャリシャリと耳障りのする音を響かせつつ、信じる道を行く。並大抵の覚悟ではできない。
光の扉の向こうで、紅色の目をした相棒が待っているのが見えて、思わず笑みがこぼれた。再会したら、きっと「無茶をするな」と呆れられるに違いない。
――左肩に矢傷を負ったルシアが、王宮の客室で目覚めたのは、演習から五日経った日の朝だった。
○●
ベッドに上体だけ起こしたルシアを、ジョスランが見舞う。目の下の真っ黒な隈、顎に生えた無精髭。憔悴した様子で、逆に心配になった。
シーツの上では、猫の姿のヒスイが丸くなっている。
「ご心配をおかけしました」
「無事なら、良い。まだ痛むだろう、無理をするな」
傷口には、包帯がぐるぐると巻かれ固定されている。動かすと痛いが、安静にしていればそれほどでもない。だがジョスラン曰く、最初の二、三日は高熱が出たらしい。
ジョスランはベッド脇の椅子に腰掛け、ルシアを覗き込むようにして顔色を窺う。紅色の目が、窓から差す日差しを受けていて、鮮やかだ。
目を合わせるのが気まずいので宙を見ていると、ようやくジョスランは元の姿勢に戻った。
「顔色も良くなったな。医者が言うには、傷は塞がっているが、最低でもあと七日はじっとしていろ、だそうだ」
「分かりました。ジョー、ありがとう」
「いや……起きたばかりですまないが」
「何か、ありましたか」
言い渋ったジョスランに、ルシアは軽い調子で言い放つ。
「もしかして。悪魔を召喚したのはお見舞い係だ、とか?」
「なんだ。気を失っていても、会話は聞こえていたのか」
「いいえ。ただの予想です。辺境伯は、強欲で矮小な人物。武功だけでは足りず、悪魔召喚の罪からも逃れる担保が欲しいはず」
「当たりだ。陛下にお見舞い係の仕業だと直訴して、素直な陛下はそのまま受け取った。騎士団長は現場の収拾に忙しく、報告を後回しにしたのが良くなかった」
「動揺と恐怖で、甘言を刷り込まれたのね」
「その通り。お見舞い係の無実を晴らすには、真犯人を挙げるしかなさそうだ」
少し考えてから、ルシアは口を開く。
「真犯人と言いますが。魔法の知識が豊富な人間を探すしかないでしょう」
「だがそんな人間、そう簡単に見つかるか」
「クロヴィスならどうですか」
「……何?」
ジョスランの紅色の目が大きく見開かれた。
「わたくしが魔法陣の文字を判読しようとしていた時、『召喚に似ている』と言っていました」
「それは、本当か」
「ええ」
黙りこくったジョスランに、ルシアは首を傾げる。
「どうかしましたか」
「……辺境伯は、死んだ」
「えっ」
ルシアが驚きで息を呑むと、ジョスランは険しい顔をして腕を組む。
「今朝、タウンハウスのバルコニーで倒れていたのを発見された。酒を浴びるほど飲んでいたから、酔い醒ましに外へ出たのではないかとメイドが証言している。不審な点は見当たらないから、病死になりそうだ」
「……口封じ」
「俺もそう思う」
ジョスランは眉根を寄せたまま目を閉じると、自分の考えを吐露し始めた。
「てっきり騎士の失踪事件から始まった悪魔召喚は、辺境伯の武功が目的だと思っていたが」
「わたくしも、同じ考えでした」
「辺境伯が殺されたとすると、敵の目的を考え直さなければならない」
ルシアは、目覚める前に自問自答した事柄を胸の中で反芻しながら、ジョスランの声に耳を傾ける。
「俺には、この国を滅ぼしたがっているとしか思えん」
(言っていることは不吉でしかないのに。同じ考えなのが……こんなにも嬉しいだなんて)
ルシアはじわじわと熱くなる胸に、思わず手を当てる。その仕草を見たジョスランは、傷が痛んだと勘違いしたようだ。
「まだ痛むのか。横になれ」
「はい……わたくしも、同じ考えです」
ジョスランはルシアの背中に手を添えて横になるのを助けた後で、椅子に腰掛け直す。
「はー。この王国を滅ぼしたとて、一体何になるんだろうな」
「滅ぼして、何になる……言われてみれば。わざわざ騎士団を瓦解させ、魔法の存在を顕示するようなやり方で……」
考えこんだ二人だったが、答えは出なかった。
翌日の、夕暮れ時。
再びルシアを見舞ったジョスランは、髭を剃り湯浴みを済ませ、精悍な姿に戻っていた。
ルシアはホッとした一方で、やけにきちんとした身なりであると気づく。
「何かあったの?」
「陛下と会ってきた」
「え! どういった名目で?」
「甥として」
その一言だけでルシアは、情で訴えてきたであろうことを悟る。
「それは……嫌だったのでは」
「嫌だけどな。辺境伯は死んだ。あれは私的な会話であり、正式な報告ではなかった。それが一番良いだろう」
多くは語らずとも、国王との私的な謁見が功を奏したことは、伝わってくる。
それからジョスランは「頼みがある」と切り出した。
「なんでしょう?」
「今回の件は、エディット嬢の後ろ盾があった。ルシアからお礼の手紙を出してくれないか」
「まあ! そうだったのね。わかったわ」
聡明なエディット公爵令嬢のことだ。ルシアとの交友関係だけでなく、辺境伯の噂や人となりを冷静に判断した上でのことに違いない。快復したら一番にお茶をせねばなるまい、と心に留めた。
ジョスランが気疲れした様子でベッド脇の椅子に腰掛けたので、ルシアは違う話題を振る。
「ところで。傷の痛みはなくなってきたんだけど、まだ指先に違和感があるの」
「そうか。無理しない範囲で、適度に肩を動かすといい」
「さすが詳しいのね。騎士って、本当に大変な職業って実感したわ。矢で射られても平気で走るんでしょう?」
「はは。戦いに夢中なだけだ」
――コンコン。
そんな久しぶりの穏やかな会話は、突然のノック音で遮られてしまった。
部屋付きメイドが扉を開けると、クロヴィスが焦った様子で入ってきてすぐに、人払いを命じる。
「クロ?」
「どうした」
バタン、と扉が閉じられたのを確認してから、クロヴィスは重たい口を開いた。
「ゴタイと呼ばれていた男が――牢から姿を消しました」
○●
ゴタイが牢獄から姿を消した日の夜は、新月だった。
静まり返った王都の街中を、殺気立った騎士たちが松明を片手に巡回している。
脱獄した男を、血眼で探しているのだ。
民たちは無用なトラブルを避けるため、いつもより早く家に入っている。そのせいか、騎士以外の人影は全く見当たらない。空気を読まない酔っ払いが一人、千鳥足でふらふらと歩いているだけだ。
通りがかりの騎士が「大丈夫か?」と声をかけると、酔っ払いは「う〜い、らいじょーぶですょお〜へへへ」と手を振る。騎士は首を横に振ると、すぐにその場を去っていった。
王都を取り囲む城壁には、東西南北それぞれの門があり、その上部には、見張りのための物見塔が作られていた。
今夜は、そこへ常駐する見張りまでもが、ゴタイ探しに駆り出されていて不在だった。
月明かりがなく闇が深いせいで、隣を歩く人間のシルエットすら満足に分からない。人探しには、全く適していない日だろう。
先ほどの千鳥足の酔っ払いが、城壁を見上げたかと思うと――一瞬でコノハズクに姿を変え、闇夜に羽ばたいた。
小さな猛禽類はあっという間に城壁の最上部まで到達し、物見塔の中へ入るなり人の姿に戻る。
その塔の中には、別の人物がいた。マントのフードを目深にかぶっているのだけ、かろうじて分かる。
コノハズクから人の姿になった酔っ払いは、見える見えないに関わらず、左手を腹に右手を腰に当て深々と頭を下げた。マントの人物は、満足そうに軽く顎を引いて声を掛ける。
「思ったより、早かったな」
真っ暗闇の中では、肉声だけが、そこに人がいるという証拠だ。
「ご無沙汰しております、マイロード」
「新たな肉体はどうだ。ゾランダー」
「問題ありません。孤児院の中でも、最も丈夫で健康なのを選びましたから。若い体は、馴染むのも早い」
「そうか。わざわざ手の込んだことをして、下級悪魔を贄にしてやったのだ。魔力は全て戻ったんだろうな?」
「は。恙無く」
ゴタイ――ゾランダーは、見えないのを良いことにいやらしく口角を上げる。
「あのようなことをせずとも、貴方様ならば悪魔召喚ぐらい、容易くできたのではないですか」
「だから楽しいんじゃないか」
ククと喉が鳴る音がした後、呆れたような声がする。
「良い暇潰しになった」
ゾランダーは、大げさに肩を竦めた。
「お見舞い係とやらが、これからどう出るか楽しみでございますね」
「ああそうか、貴様は奴らに恨みがあるのだったな。ブリアック侯爵に、コルトー伯爵。次は誰だ」
「うおっほん。恨んでなど……財務大臣、ドナ・アギヨン伯爵でございます」
ゆらり、と空気が揺らぐ。
「楽しみにしている」
「心得まして」
ゾランダーが顔を上げる前に、相手は消えていた。
それからすぐに、城壁の下を忙しなく行き交う騎士たちの姿が目立つようになった。
「火事だ!」
「もっと応援を呼べっ」
ゾランダーが顔を上げると、南の夜空が少し赤く染まっている。
「後始末……いや、開戦の狼煙か」
ゾランダーは再びコノハズクに身を変え、夜空に飛び立った。
○●
王都内の建物は、ほとんどが煉瓦造りだ。火事が起こっても延焼の可能性は低い。小川などからバケツリレーの要領で、桶での水汲み消火活動をすれば、大抵は鎮火する。
孤児院を襲った火事も周囲への被害は少なく、騎士団の尽力により明け方までに消火された。
孤児院長が涙を流しながら、子どもたちが犠牲になったと訴えたが――生き残った子どもたちは「火事のせいじゃない。もっと前に、悪魔が食べた」と言い張った。
それを聞いた騎士たちは、恐怖で混乱したための妄言として取り合わず、消火を終えるや屯所に戻っていく。
「悪魔が食べた、とはね」
宰相補佐官室で、黒革表紙の分厚い書物をパラパラとめくっていたクロヴィスは、とあるページで手を止めた。
「子どもの内臓を五つ。猛禽類の爪。……仕上げが、三十人分の生き血。なるほど」
パタンと書物を閉じ本棚に戻すと、クロヴィスはジャケットの襟を正し、宰相室へと向かう。
機敏な動作で入室したクロヴィスが机の前で礼をすると、渋い表情をした宰相のフラビオは、早速口を開く。
「陛下からのご命令だ。お見舞い係への疑惑は不問に付すが、悪魔召喚の調査をせよ、だそうだ」
「は。騎士洗脳の件は?」
「トビアの息子が王都に着き次第、ギルメット領主の任命を行う」
つまりはなかったことにする、と察したクロヴィスは、思わずフッと鼻息を漏らす。
少なくともあの場にいた騎士や貴族たちは、噂することだろう。その噂で西の辺境が不穏になれば、隣国との関係も危ぶまれる。無策は得策ではない。
「……ルシア様は、辺境騎士たちを大変に心配されていました」
「どういうことだ、クロヴィス」
「お見舞い係による、辺境騎士たちへの『お見舞い』。手筈を整えますが、よろしいでしょうか」
「っ! 分かった、許可しよう」
それから数日後。王宮内を、とある噂が駆け巡った。
――辺境騎士たちを『お見舞い係』が見舞った。
すると不思議と、また王都に留まりたいと申し出る者が続出した。団長は彼らに『悪魔討伐の褒賞』を取るか『王国騎士団への転属』を褒賞とするかを選ばせ、ほとんどが転属したらしい。
騎士団予算をめぐっての財務大臣と団長との軋轢は、さらに深まっただろう、と。




