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ホテルのフロントスタッフ異世界転生_顧客履歴(ヒストリー) ──三十歳フロントクラーク世界の客台帳を綴る──  作者: もしものべりすと


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第九章 ヒストリーの真実

深夜二時。


 月は雲に隠れていた。


 白川颯は黒い侍従の服を身に纏い、銀の盆に紅茶のポットと茶器を載せて、北塔の階段を上り始めていた。


 彼は侍従だった。誰も振り向かない、ただの夜回りの紅茶の運び手だった。



 彼は階段の一段一段を、銀座のホテルの階段を上るのと同じ静かな足取りで上った。


 業務人の足取り。誰にも気付かれない、しかし揺るぎない足取り。


 階段の途中で、彼はふと、自分の母の若い頃の歩き方を思い出していた。母は最後の入院の朝、玄関の段差を一段ずつ確かめながら、家を出た。それが彼女が最後に踏んだ家の段差だった。


 彼は母の歩き方を真似ている。


 知らないうちに、彼の身体は、母の最後の歩き方を覚えていた。


 彼は深く息を吐き、一段一段を確実に踏み上げた。


 北塔の階段下には、二人の警備兵が松明の下で立っていた。


 颯は深く頭を下げ、淡々と告げた。


「夜分恐れ入ります。最上階のお客様より、紅茶をご所望でございます」


 警備兵は彼の侍従服を一瞥し、訛りの無い帝国訛りを聞き、頷いて通した。


 彼の発音は二日かけて訓練されていた。商業ギルドの女性連絡員が、夜通し帝国訛りの稽古を付けてくれていた。


 颯は階段を上った。


 螺旋階段の踊り場は六層。最上階の踊り場の前で、廊下警備の兵が一人、欠伸をしていた。


「紅茶でございます」


 兵は無言で頷き、颯は最上階の廊下に入った。


 廊下の突き当たり。鉄の扉。扉の前に、二名の上位警備兵が立っていた。彼らは侍従の盆を一瞬鋭く見たが、紅茶の香りを嗅ぎ取ると小さく頷いた。彼らもまた、ラフィエル風の浅い焙煎を運ぶ侍従を、過去数日間見慣れていた。


 扉が開いた。


 部屋の中は薄暗く、奥の窓辺の寝台に、レイアナが座っていた。


 彼女は痩せていた。一月前と比べて。けれども背筋はまっすぐで、瞳の紫は曇っていなかった。


「紅茶をお持ち申し上げました」


 颯は床に膝を突き、銀の盆を寝台のそばの低机に置いた。


 その動作の最後に、彼はわずかにフードを上げた。


 顔が見えた。


 レイアナの瞳が見開かれた。


 彼女の口が震えた。けれども声は出さなかった。彼女もまた、王女として、声を出してはならない場面の作法を心得ていた。


「お迎えに上がりました」


 颯の小声に、彼女は深く頷いた。


 彼女は素早く寝台から立ち上がり、窓辺に置かれていた厚手のショールを羽織った。


 レイアナは颯の腕に一瞬だけ触れた。彼女の指が、彼の袖の生地を握りしめた。


「白川様」


「は」


「ご無事で何より、と申し上げる立場ではないことは存じ上げております。けれども、ご無事で何より、でございます」


「お役目でございますので」


「あなたのその一言が、私を支えました」


 彼女は短く言って、深く頷いた。


「窓辺へ参りましょう」


 二人の言葉は短かった。けれども、その短い会話の中に、一月分の信頼と、生死を共にする決意が、確かに編み込まれていた。


 彼女の指が、低机の上の何かを取った。


 古い書付。彼女が拘束されてから書き溜めた、帝国の動向に関する備忘録。


「お持ちください」


「は」


 颯はそれを胸ポケットに収めた。


 レイアナは既に行動の準備が整っていた。彼女は一月の囚われの間、いつかこの瞬間が来ることを信じて、自分のできる業務を積み上げていた。


「窓から下りる縄ばしごを、この方が用意しております」


 颯は窓辺の影に立っていた、もう一人の人物を見た。


 商業ギルドの女性連絡員だった。彼女は壁の影に潜み、外壁の上を伝って既に最上階の窓に到達していた。


 縄ばしごは既に降ろされていた。


「窓から出ます」


「畏まりました」


 颯はレイアナを支えて、窓辺に導いた。彼女は身軽だった。長らく剣術を習っていた身体は、この日のために衰えを許さなかった。


 縄ばしごは三層下まで伸びていた。三層下の窓辺で、別の連絡員が縄ばしごを支えていた。


 レイアナが先に下りた。颯はそれに続いた。


 彼が窓枠に足をかけた瞬間、扉が開いた。


 部屋の入口に、カンディオ・ヴィエルクが立っていた。


「やっぱり、お前か」


 彼の声は静かだった。


「レイアナがチェックアウトする前に、間に合った」


 彼の手には細身の剣。彼の目には殺意。


 颯は窓枠に立ったまま、深く頭を下げた。


「夜分恐れ入ります」


「お得意の業務人ぶりかよ」


「お役目でございますので」


「お前、一発で殺してやる」


 カンディオが踏み込んだ。剣が振られた。


 颯は窓枠を蹴って、踏み込みの内側に滑り込んだ。


 彼は剣を持っていなかった。代わりに、銀の盆を盾代わりに構えた。


 地球で苦情処理の客が刃物を抜いた時、彼は銀の盆で身を守った。八年で一度だけ。けれどもその一度の動きは、身体に焼き付いていた。


 盆が剣を弾いた。鈍い音。


 颯はカンディオの剣を持つ手の手首を掴み、相手の重心を崩した。


 地球で覚えた基本の護身術。フロントスタッフの研修で習った。誰も真面目に覚えなかった項目。彼だけが、八年間ずっと予習復習を欠かさなかった項目。


 カンディオの身体が傾き、剣が手から離れた。颯は剣を蹴り飛ばし、カンディオの顎を盆の縁で軽く叩いた。


 元同僚の身体が、ふらりと崩れた。


「す、すまん、白川……」


 彼が床に倒れる前に、颯は彼の身体を支えた。


 倒した相手を傷付けないのも、業務の作法だった。


「お休みなさいませ」


 彼は静かに言った。


 カンディオは床に横たえられ、意識を失った。


 颯はすぐに窓に戻り、縄ばしごを下った。


 北塔の下、城壁の脇の通路で、レイアナと連絡員が彼を待っていた。


「白川様、お早くお戻りで」


「無事に下りられました」


 三人は通路を駆けた。


 城門の手前まで来た時、空気が変わった。


 月が雲を抜けた。


 城門前の広場の真ん中に、一人の人物が立っていた。


 長身の老人。フードを目深に被り、皺の刻まれた顔の中で、眼だけが青白く光っていた。


 破却者ヴェルガ。


 颯は息を呑んだ。


「業務人よ」


 老人の声は枯れた風のようだった。


「お前の仕事は見事だ。けれども、ここまでだ」


 彼が手を上げた。彼の指先から青白い光が溢れ、広場全体に満ちた。


 光は颯の足元を縛り、彼の手帳を引き寄せようとした。


 颯は胸ポケットを押さえた。


「我は元、神々の歴史係。世界の魂の流れを綴った者じゃ。けれども神々はわしを廃した。我が代わりに新たな歴史係を立てるという。納得いかぬ。それゆえ、わしは自ら世界のヒストリーを書き換え、新たなる神となる」


 ヴェルガが歩み寄った。広場の石畳が、彼の足跡の通りに青く焼けていった。


「お前の手帳を渡せ。あれは、わしの計画の最後の阻害要因じゃ」


「お渡しいたしかねます」


 颯の声は震えていなかった。


「あの手帳は、業務記録でございます。お客様お一人お一人のお名前と、お顔と、お部屋でございます。私の業務でございます」


「そんな小さな業務記録が、世界の何になる」


「神々が、世界に意味を与えた最初の業務でございます」


 ヴェルガの目が一瞬揺れた。


 颯は胸ポケットから手帳を取り出した。


 そして、開いた。


 最初の頁。地球で八年前、新人時代の彼が、最初に記録したお客様のお名前。


「桜井和夫様 七階一二〇五号室 出張のお客様 二日連泊 朝食和食ご希望」


 彼は声に出して読んだ。


 手帳の頁が、青白い光ではなく、温かな金色の光を放ち始めた。


「鈴木洋子様 一階レストラン横の部屋 ご結婚記念のお泊まり 薔薇のお花をご手配」


 次の頁。


 光が広がっていく。


「山下八重子様 七階南東角部屋 ご主人様の追悼の旅 鏡台のお写真の側に余白を残す」


 二百三十六名。


 彼は地球で記録した全てのお客様のお名前を、深夜の帝国の城門前で、一人ずつ読み上げた。


 それは祈りに似た呼び声だった。けれども祈りではなく、業務の記録だった。


 名前の一つ一つに、お部屋がある。お部屋の中に、人生がある。人生の数だけ、世界の魂は意味を持っていた。


 ヴェルガの青白い光が、徐々に弱まっていった。


「やめろ……それは、わしの……仕事の根幹を……」


「お役目を、心して全うさせていただきます」


 颯は更に名前を読み続けた。


「梶田信夫様 八階一八二二号室 御命日にお越し ご夫人様の写真とお花を」


「相沢澄子様 三階小宴会場 お子様の七五三のお祝い お赤飯ご手配」


「林宏志様 六階一五一二号室 出張ご常連 朝刊は経済欄から」


 颯は名前を読み続けた。


 声は穏やかだった。けれども、一つ一つの名前に、八年分の業務の重みがあった。


 ヴェルガの足元の青白い光が、温かな金色に塗り替えられていった。


 地球で誰にも知られなかった二百三十六名のお名前が、別の世界の城門前の広場で、世界の魂の流れを修復していた。


 彼の手帳の中の小さな文字が、空の写本の大きな文字に重なっていく。


 二つは、同じ筆致だった。


 地球で彼が手帳に書いた一文字一文字は、神々の写本の予備の写しだった。


 神々は、何百年も前から、彼を業務人として準備していた。


 彼の八年は、その準備の最後の段階だった。


 帝国の城門前の広場が、温かな金色の光に包まれた。


 空に浮かぶ「世界のヒストリー」の写本の頁が、深い青の闇の中に、突然金色の文字で復元され始めた。一行ずつ、欠損が埋まっていった。


 颯のお客様の名前が、神々の帳簿の欠落を、補修していた。


 地球で誰にも評価されなかった八年が、世界の魂の流れを修復していた。


「我は……神々の歴史係……」


 ヴェルガが膝を突いた。


「我が業務は……お前の業務に……敗れた……」


「お役目を、お引き継ぎいたします」


 颯は静かに言った。


「あなた様のお仕事は、お客様お一人お一人を、お忘れなく覚え続けることでございました。お忘れになった瞬間、あなた様は、業務人ではなくなりました」


 ヴェルガの身体が、青白い光と共に薄くなっていった。


 最後に彼は、一つだけ、笑った。


「業務人よ……良い夜を……」


 光が消えた。


 城門前の広場には、月の光だけが残った。


 颯は深く頭を下げた。


 彼の手の中で、地球で書き続けた手帳が、静かに金色の光を収めていった。


 世界のヒストリーは、彼の業務によって、守られていた。


 遠くから、王都の鐘が四つ鳴った。


 夜明け前の鐘だった。


 レイアナが颯の隣に立った。彼女の頰を一筋の涙が伝った。


「白川様、お帰りいただけますか」


「は」


「私の祈りを、最後まで全うしてくださいまして、ありがとうございました」


「お役目でございますので」


 彼女は微笑んだ。深く優しく。


 城門の向こうで、商業ギルドの隊商が、王女を運ぶ馬車を準備していた。


 彼らは、夜明け前にラフィエルの王都へ向けて出発する手筈になっていた。


 颯はレイアナを馬車に乗せ、自分も乗り込んだ。


 馬車の窓越しに、帝国の王都の灯りが遠ざかっていく。彼の地球の銀座と、もはやどちらが現実かわからなくなっていた。


 彼は手帳を胸ポケットに戻し、深く目を閉じた。


 ようやく、業務が一段落した、と感じた。


 夕刻、馬車はラフィエル王国の王都イルファレンに到着した。


 城門の前には騎士団長と宰相、そして王女レイアナの父王自らが立っていた。父王は娘を抱きしめ、長らく言葉を発しなかった。


 颯はその光景を一歩離れた場所で深く礼をしたまま見ていた。


 彼の業務は、お客様が無事にお部屋にお戻りいただくところまでだった。


 それ以上の感動の場面は、ご家族のもの。彼の入る場所ではなかった。


 その夜、王宮の大広間で簡素な祝宴が開かれた。颯は末席に座らせられたが、宰相が直々に彼の前まで来て杯を捧げた。


「貴殿は、我が国の最大の恩人である」


「もったいないお言葉でございます」


「お礼の言葉が見つからぬ」


「業務でございましたので」


 宰相は深く笑い、それから真顔に戻った。


「貴殿に、ご相談申し上げたきことがある。今宵、王宮にもう一夜お泊まりいただけまいか。明朝までには、いくつかご対応いただきたい儀がある」


「畏まりました」


 祝宴を中座した颯は、王宮の地下三階へ降りた。


 灯りを持たずに螺旋階段を降りるのは、もう慣れていた。彼は一人で、ハロルドの墓所を訪れた。


 墓所は書庫の隣の小さな石室だった。ハロルドの遺骸は、彼の意志に従い、王宮の本でも納骨室でもなく、自身が五十年仕えた書庫の隣に、簡素に葬られていた。


 颯は石碑の前に立ち、深く一礼した。


 胸ポケットから手帳を取り出し、最後の頁を開いた。


「ハロルド・テナリス様。本日付で、王女様のご救出と、写本の修復を完了いたしました。お預かりしておりましたお役目を、ここにお返し申し上げます」


 声は震えなかった。


 彼の業務報告は、地球での退社時の引き継ぎと、同じ作法だった。


「お教えいただきましたヒストリーの作法、しかと胸に刻んでおります。私が地球へ戻りました後も、私の業務手帳には、お名前を記し続けます」


 風が無いはずの石室で、燭台の炎が一度だけ揺れた。


 颯はそれを返事と受け取った。


 深く頭を下げ、彼は石室を出た。


 地上へ戻る階段の途中で、ディトが彼を待っていた。


 少年は新調された迎賓棟の制服を着ていた。サイズが少しだけ大きかった。


「白川様」


「ディト」


「お話があると、ハロルド様が亡くなられた夜から、ずっと、お待ち申し上げておりました」


 彼の声は震えていた。


「私は、白川様のお留守を、お守り申し上げました。一月の間、迎賓棟のロビーは、誰一人、お客様を粗略にいたしませんでした」


「お見事でございます」


 颯は深く頭を下げた。


 地球で誰にも教えられなかった作法を、彼は十一歳の少年に伝授した。その少年が、王宮の留守番という重責を立派に果たしていた。


「ディト、お一つお願いがございます」


「は、はい」


「私は、明朝、地球へ戻ります」


 少年の頰が一瞬、こわばった。


「お別れ、でございますか」


「お役目が、終わりましたので」


 ディトは唇を強く噛んだ。それから、ホテルマンの作法通り、深く礼をした。


「お見送り、申し上げます」


 声は震えていた。けれども、礼の角度は完璧だった。


「ディト、迎賓棟のロビーを、あなたにお任せいたします」


「は」


「あなたの業務に、私の業務が、続きます」


「畏まりました」


 颯は手帳から一頁を破り、少年の手に渡した。


 その頁には、地球で書き続けた業務作法の要点が、彼の細かい筆跡で記されていた。


「これは、お持ちなさい。お困りの時、開いてください」


「白川様の、業務手帳の」


「写しでございます」


 少年は両手で頁を受け取り、深く一礼した。


「お役目を、心して全うさせていただきます」


 颯の口癖が、少年の口から出ていた。


 業務人の系譜は、世代を超えて、確かに繋がっていた。


 王宮の正門前で、商業ギルド長のクレメンス・ヴォーゲルが颯を待っていた。


 白髪交じりの五十代の商人は、夜分にも関わらず、馬車を一台連れて立っていた。


「白川殿、お見送りに参った」


「お手数をおかけいたしました」


「貴殿の隊商手配、見事であった。我がギルドの誇りである」


「皆様のお力添えでございます」


 ギルド長は懐から小さな箱を取り出し、颯に差し出した。


「これは、貴殿への餞別である。我が母の村のお茶じゃ。地球とやらにお持ち帰りいただきたい」


 颯は両手で箱を受け取り、深く頭を下げた。


「お預かりいたします」


「またのご来訪を、ギルドはいつでもお待ちしておるぞ」


「もったいないお言葉でございます」


 最後にレイアナの私室を訪れたのは、夜の鐘が二つ鳴った後だった。


 彼女は寝衣ではなく、紫紺のドレスを着て、書見台の前で待っていた。


 卓の上に二つの杯と紅茶のポット。


 彼女は自ら紅茶を淹れた。颯の所作を思い出しながら、ゆっくりと、丁寧に。


「白川様、最後の一杯を、お受け取りいただけますか」


「は」


「私が淹れた紅茶でございます」


 颯は両手で杯を受け取り、深く一口含んだ。


 ラフィエル風の浅い焙煎。けれども、地球の銀座のラウンジで彼が淹れていた紅茶と、不思議なほど似た香りがした。


「お見事でございます」


「あなた様の、お見立て通りに淹れました」


 二人はしばらく何も言わずに、紅茶を飲んだ。


 窓の外で、王宮の中庭の薔薇が、月光に照らされていた。


「白川様」


「は」


「私は、生まれて初めて、自分の祈りが届いたと感じました」


「お役目でございましたので」


「いつもそう仰る」


 彼女は微笑んだ。それから真顔になった。


「あなた様が、おられなくなった後の王宮のことを、私は今、考えておりません」


「は」


「考えると、足が止まってしまいそうですから」


 颯は深く頭を下げた。


「お一つ、お約束いたします」


「は」


「私はいつか、あなた様の世界の白鶴館を、お訪ねいたします」


 颯は息を呑んだ。


「最上階のスイート、一八〇一号室でございます」


「は」


「予約のお名前は、レイアナ・フォン・ラフィエル」


「畏まりました」


「お部屋を、あなた様のお手で、お選びくださいませ」


「お役目を、心して全うさせていただきます」


 彼女は深く頷いた。


 颯は手帳を取り出し、最後の頁に新しい一行を書き加えた。


「レイアナ様 一八〇一号室 ご来館予定 紅茶ストレート」


 書きながら、彼の指は震えていた。地球の業務記録に、異界のお客様のご予約を加える行為が、彼の人生で初めての種類の喜びを伴っていた。


「白川様、もう一つ、お願いがございます」


「は」


「あなた様のお手帳に、私が一行だけ、書き加えてもよろしいでしょうか」


「畏まりました」


 颯は手帳を彼女に差し出した。


 彼女は羽根ペンを取り、最後の頁の余白に、ラフィエル王家の文字で短く記した。


「あなたを、覚えております」


 颯は手帳を受け取り、深く頭を下げた。


 彼の目尻から、抑え切れない一滴が落ちた。八年地球で堪え続けたものが、ここで初めて、礼の姿勢を崩した。


 彼女は何も言わなかった。ただ、卓の向こうから、静かに彼を見ていた。


 夜が明ける前に、颯は王宮の正門を出た。


 馬車には、レイアナが付き添うことを希望した。彼女は颯を国境の前まで見送ると言った。父王はそれを許した。


 道中、レイアナは静かに眠った。ほとんど眠れていなかった一月分の疲労が、ようやく彼女の身体に降りていた。


 颯は窓の外を流れる夜明けの空を見ていた。


 地球の夜明けと、何かが似ていた。何かが大きく違っていた。


 たぶん、似ているのは静けさで、違っているのは、業務人として誰かを連れて帰る時の、深い満ち足りた感覚だった。


 彼は手帳を開かなかった。


 今夜だけは、業務記録ではなく、ただ景色を見ていたかった。


 空が薄い青に染まり始めていた。


 彼は深く頭を下げ、誰にも聞こえない声で呟いた。


「お役目を、心して全うさせていただきました」


 地球で何百回口にした言葉だった。


 今夜は、それが、初めて、過去形になった。


 馬車は北の街道を、王都イルファレンへ向けてゆっくりと走り続けた。


 夜が、明けた。


 遠くで雀の声がした。


 朝陽が馬車の窓から差し込んだ瞬間、颯は胸ポケットの中に微かな熱を感じた。


 ヒストリーノートだった。手帳が温かく脈打っていた。


 昨夜の城門前でヴェルガを退けた時の光が、まだ残っているのだろうか。


 彼は手帳を取り出した。革の表紙が、淡い金色の光を放っていた。


 その光を見たレイアナが、ゆっくり目を覚ました。


「白川様」


 彼女の声は静かだった。けれども何かを察した声でもあった。


「お手帳が、光っております」


「は」


「神々が、あなた様をお呼びなのでございますね」


 颯は息を呑んだ。


 手帳の光が次第に強くなっていく。けれども熱くはない。母の手のひらに似た、優しい温かさだった。


「白川様」


「は」


「お役目は、全うされました。あとは、あなた様のお戻りでございます」


 彼女の紫の瞳が朝陽の中で深く澄んでいた。


「お別れでございますか」


「左様でございます。けれども、お約束は昨夜、いただいておりますので」


「は」


「お部屋のご準備、どうぞ末永くお頼み申し上げます」


「お役目でございますので」


 颯は深く頭を下げた。


 地球で何百回繰り返した、お見送りの礼だった。今度は彼が見送られる側だった。


「お役目を、心して全うさせていただきました」


 彼は声に出して言った。


 言い切った瞬間、手帳の光が一気に広がり、馬車の中が金色に満ちた。


 颯の視界がゆっくり白くなっていった。


 最後に見えたのは、レイアナの微笑みだった。


 彼女は涙を浮かべながらも、確かに微笑んでいた。


 業務人を見送る、最後の客の表情だった。


 颯の意識が遠のいた。


 馬車の振動が徐々に別の振動に変わった。地下鉄の振動。彼が八年通った通勤路の振動だった。


 光の中で、彼は深く目を閉じた。

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