第十章 最後のチェックインに
五時半。アラームが鳴る前に白川颯は目を開けた。
八年続いた習慣が、まだ続いていた。
しかし今朝、彼の胸の奥には、八年では収まりきらない何かが、確かに息づいていた。
窓の外は薄青い闇に沈んでいる。一月の都心は冷えがきつい。古いアパートの壁を伝う水道管の音が低くうなる。彼は布団から這い出してまずカレンダーを見た。
日付は変わっていなかった。
いや、一日だけ進んでいた。
昨夜の暴風雪の翌朝。彼が異界の王宮で過ごしたはずの一月余の歳月は、こちらの世界では一夜にも満たない時間だった。
仏壇の前に正座をして線香を一本立てた。母の遺影が薄く笑っている。
「行ってきます」
声に出して言った。
遺影に向かって深く頭を下げた。
彼の頭の中で、銀座のロビーの匂いと、王宮の石室の埃の匂いが、奇妙に重なっていた。
午前六時十五分。革靴を履いて部屋を出る。木造アパートの階段がきしむ音は何度聞いても胸を冷やす。けれども今朝は、その冷たさにもどこか懐かしさがあった。
駅までの道。歩道に踏み固められた雪の上を、彼は静かに歩いた。
一晩で世界が裏返り、また裏に戻った気がした。
いや、戻ったのではなかった。
彼自身が、変わって戻ってきていた。
従業員通用口で社員証をかざすと無機質な電子音が鳴る。地下のロッカー室で黒のスーツに着替え、ネクタイを整える。鏡の中の顔は昨日と同じ三十歳の顔だった。けれども目尻の角度が、ほんの少しだけ違う気がした。
ロッカーの扉の裏に貼ってある母の白黒写真を、彼は長く見つめた。
神様は、あなたを見ています。
手紙の最後の一行が、頭の中でもう一度響いた。
「お母さん、行ってきます」
二度目の挨拶を、誰にも聞こえない声で告げた。
六時五十分。フロントカウンターに立つ。
夜勤明けの先輩から引き継ぎを受けた。先輩は両目の下に深いくまを作っていた。
「白川さん、昨夜本当にお疲れさまでした。ロビー、すごかったですね」
「申し訳ございません。お先に上がらせていただきました」
「いえ、最後まで指揮取ってくださって。皆助かりました」
先輩は深く頭を下げた。颯も深く礼を返した。
昨夜の嵐の中、彼が指揮した三十名のお客様の差配は、ロビー全員の記憶に焼き付いていた。彼が消えた後の業務は、若手スタッフが彼の遺した手順書だけで何とか乗り切ったらしい。
「あの、白川さん、消えたって聞いてたんですけど」
「は」
「ロビーから一瞬で姿が見えなくなったって、皆驚いてたんですよ」
颯は曖昧に微笑んだ。
「お客様のお見送りで、裏口に回っておりました」
「あ、そういうことか。よかった」
先輩は笑って奥へ消えた。
誰にも、本当のことを言うつもりはなかった。
彼の業務の本当の意味を知っているのは、彼一人で十分だった。
九時十五分。
いつも九時二十分にバックヤードへ消える宮地翔の姿は、その日、フロントには現れなかった。
代わりに人事部長が直接フロアに降りてきた。
「白川さん、ちょっと」
彼は応接室に呼び出された。
昨日と同じ部屋。けれども宮地の席は空いていた。
「宮地さんは、本日付で関連会社へ異動となりました」
「異動、でございますか」
「ええ。詳しい話は本社マターなのですが、複数のお客様からの長期にわたる苦情と、社内での部下への対応について、昨夜緊急で人事委員会が開かれまして」
颯は無言で頷いた。
胸の中に、特別な感情は湧かなかった。
異界の塔で剣を突きつけ合った相手と、こちらの世界で部屋一つ隔てて勤めていた相手は、結局のところ同じ一人の人間だった。彼の不在は、昨夜の塔の幽閉と、奇妙に重なって見えた。
人事部長が書類を差し出した。
「これは辞令です」
「は」
「白川颯。本日付でフロント支配人代理を拝命します。承諾のサインをお願いします」
颯の手が止まった。
書類の文字を、彼は何度か目で追った。
「昨夜のロビーの差配を、宿泊いただいていた本社役員の一人がご覧になっていまして」
「役員様が」
「閉鎖タイミングの判断、トリアージの正確さ、苦情対応の品位。八年現場で見てきた人間の動きだとお褒めいただきました。役員から直接、人事委員会に推薦が入りました」
颯は深く頭を下げた。
「もったいないお言葉でございます」
「サインを」
彼は万年筆を取り、書類に名前を書いた。
白川颯。
地球で三十年使ってきた名前と、異界の王宮で「迎賓記録係」として呼ばれた名前は、同じ一つの名前だった。
筆を置きながら、彼は気付いた。
自分の手が、震えていなかった。
「アサインだけ」と言われた応接室で、昨日彼の指が冷たくなった。
今日の彼の指は、温かかった。
応接室を出て、フロアに戻る途中、ロビーの掲示板の前で彼は立ち止まった。
業務連絡の貼り紙の中に、新しい一枚が加わっていた。
「人事異動のお知らせ
フロント支配人代理 白川颯」
淡々とした事務的な文字だった。
彼はその文字を、長く見つめた。
涙は出なかった。
代わりに、深く息を吸って吐いた。
この昇進は、彼が八年待ち続けたものだった。
そして、彼が異界で一月かけて学んだことが、彼自身に許可を出した結果でもあった。
自分の価値を、自分で認める。
レイアナが彼に告げた言葉が、今日の彼を支えていた。
午前十時、最初のチェックインが現れた。
三十歳ほどの女性。髪を一つに束ね、紺のコートを羽織り、小さなトランクを引いている。受付に向かう足取りには、わずかな迷いがあった。
颯はカウンターの真ん中から、深く礼をして出迎えた。
「ようこそお越しくださいました」
「あ、はい。チェックインを、お願いします」
「ご予約のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「山下、です。山下美也子」
颯の指が、キーボードの上で一瞬止まった。
顔を上げて、女性の顔をもう一度見た。
目元が、似ていた。
半年前から月に一度、ここに泊まり続けた老婦人の、若い頃の写真にあった目元と。
「失礼ですが、山下八重子様の」
「はい、母です」
女性の頬が、わずかに緩んだ。
「ご存じでいらっしゃるのですね」
「お母様には、長らくご贔屓いただきました」
「母から、聞いておりました。最後にチェックアウトの時、若いフロントの方に大変お世話になったと」
「もったいないお言葉でございます」
颯は深く頭を下げた。
「お母様は、お元気でいらっしゃいますか」
「先日、亡くなりました」
女性の声が、少し震えた。
「あ……」
颯の指先が冷たくなった。けれどもすぐに、深く頭を下げた。
「ご愁傷様でございます」
「いえ、安らかに眠るように、でしたから」
女性は微笑んだ。微笑みの奥に、母を看取った娘の疲労が薄く沈んでいた。
「実は、本日伺いましたのは、母の遺言でして」
「遺言、でございますか」
「私が三十歳になったら、こちらに泊まりに来なさい、と」
女性はトランクの上から、小さな封筒を取り出した。
「母から、フロントの方に渡してほしいと」
颯は両手で封筒を受け取った。
封筒には筆ペンで書かれた一行があった。
「白鶴館 フロント 白川様へ」
女性の頬が一瞬、戸惑いに揺れた。
「あの、すみません。お名前まではちょっと、私はわからなかったのですが」
「白川は、私でございます」
女性が大きく目を見開いた。
「あ、あなたが」
「お預かりいたします」
彼は封筒を胸ポケットに収めた。中身を読むのは業務の後と決めた。
女性のチェックインを、彼はゆっくりと進めた。
予約は二泊。スタンダードのシングル。けれどもこの日、彼の権限で、ある変更を加えた。
「山下様、本日はお部屋を、こちらでご用意させていただきました」
「あ、お部屋が」
「七階の南東角部屋でございます。お母様が、お父様とご結婚直後にお泊まりになったお部屋です」
女性の手が、口元に上がった。
「母が、父と」
「左様でございます。お母様は半年前から、月に一度、その階のお部屋にお泊まりでいらっしゃいました。お父様の追悼の旅でいらっしゃいました」
「父も、もう十年以上前に……」
「ご存じでございました。お母様のお気持ちを、お部屋の調えに反映させていただいておりました」
女性の頬を、涙が一筋伝った。
颯はハンカチを差し出した。胸ポケットに常備している白い清潔なハンカチ。
「失礼いたします」
女性はハンカチを受け取り、目元を拭った。
「ありがとうございます」
「ごゆっくりお過ごしくださいませ」
彼はカードキーを両手で差し出した。
女性の指がキーに触れた瞬間、ロビーの照明が、ほんのわずかだけ揺れた気がした。
颯は窓の外に視線を投げた。
都心の街並みの、ずっと向こう。
雲の隙間に、一瞬だけ、見覚えのない尖塔の影が見えた気がした。
錯覚だった。
たぶん、錯覚だった。
たぶん。
その「たぶん」を、彼は愛しく感じた。
昼下がり、休憩時間に、彼は屋上で封筒を開けた。
山下八重子の便箋。震えた筆跡。
「白川様
先日、最後のチェックアウトを、あなたにしていただきました
あの朝の、あなたの腕の感触を、私は忘れませんでした
夫を見送った日の朝と、同じ温かさでした
娘が三十になりましたら、こちらにお伺いさせます
どうか、あの子の最初のお部屋を、あなたの手で、お選びくださいませ
私は、もう、お部屋には参りません
けれども、あなたの選んでくださるお部屋には、私の心が、確かにございます
長らく、ありがとうございました
山下八重子」
颯は便箋を二度読み返した。
それから、丁寧に折り畳み、胸の内ポケットに収めた。
屋上の手すりに肘を置き、彼は冬の空を見上げた。
雲は薄く、青空が透けていた。
彼は深く頭を下げた。
誰もいない屋上に向かって、いつもの作法通りに。
「お見送り、申し上げます」
声は静かだった。風がそれを連れて行った。
午後、フロントに戻った彼を、同期の高橋が呼び止めた。
「白川さん、今朝、辞令の話聞きましたよ。おめでとうございます」
「お騒がせしました」
「やっと、ですね」
「は」
「あなたが昇進しなかったら、私、来年あたり辞めようと思ってたんですよ」
高橋は冗談めかして笑った。
「今日からは、ちゃんと白川さんの下で働けます」
「お互い、お役目でございます」
「相変わらずですね」
二人は静かに笑った。
午後のロビーは穏やかだった。
空調の音、観葉植物の葉ずれ、エレベーターの到着音、客の靴音、紙のページをめくる音。
彼が八年聞き続けた音の中に、ほんのわずか、新しい音が混じっていた。
遠くの尖塔の鐘の音、のような気がした。
たぶん、空調の振動だった。
たぶん。
夕方、新しい予約が一件入った。
ウェブからの予約ではなく、電話での予約だった。担当した若手のスタッフが、不思議そうな顔で颯にメモを差し出した。
「白川支配人代理、ご予約お一つ、宛名を確認していただけますか」
「は」
「外国名でして、綴りが、私には読めなくて」
メモには、ローマ字でこう書かれていた。
「LEIANA VON RAFIEL」
チェックイン日は、今日から一月先。
最上階のスイート、一八〇一号室の指定。
備考欄には、若手スタッフがメモした一行があった。
「お客様より『白川様にご担当いただきたい』とのご指名」
颯の指が、メモの上で止まった。
胸の奥が、熱くなった。
顔は変えなかった。それが彼の八年の訓練だった。
「お受けいたします。お部屋のご準備を、私の責任で進めさせていただきます」
若手は頷いて持ち場に戻った。
彼はメモを胸の内ポケットに収めた。
山下八重子の便箋と、レイアナの予約メモが、同じポケットの中で重なった。
二つの紙片の重みを、彼は深く感じた。
彼が地球で覚え続けた二百三十六名と、異界で覚えた王女の紫の瞳と、その全てが、彼の胸の同じ場所にあった。
二十二時の終業。
通用口を出ると、都心の夜風が首筋をなで上げた。
彼は手帳を開いた。
最後の頁に、見慣れない文字が一行だけ残っていた。
異界の宮廷で、彼女が彼の手帳の余白に書き加えた一文。
ラフィエル王家の文字。颯にはその意味だけが、なぜか分かった。
あなたを、覚えております。
彼はその一行を指の腹でそっと撫で、深く頭を下げた。
誰もいない通用口の前で、いつもの作法通りに。
それから手帳を捲り、今日のページに、新しい一行を書き加えた。
「フロント支配人代理 拝命
山下美也子様 七階南東角部屋へお通し済
ラフィエル様 一月後ご来館予定 一八〇一号室」
書き終えて、彼は手帳を閉じた。
顔を上げると、冬の夜空に、星が一つだけ、見覚えのある角度で瞬いていた。
地球の星座の中に、異界の星が紛れ込んでいるような気がした。
たぶん、ただの錯覚だった。
たぶん。
その「たぶん」が、これから先の彼の毎朝に、新しい意味を添え続けるのだろう。
彼は深く礼をして、夜の街を歩き出した。
明日も、五時半に起きる。
たぶん八年後も、そうだろう。
ただし今度の八年は、昨日までの八年とは、確かに違う色をしていた。
彼の業務は、まだ終わっていなかった。
いや、彼の業務は、本当の意味で、ようやく始まったところだった。
了




