第八章 闇夜の決意
国境を越える前夜、白川颯は商隊と共に古い宿に泊まった。
雨の降る山間の宿の二階。彼は窓辺に座り、手帳を膝の上に広げて、長い間、何も書けないでいた。
彼は怖かった。
明日、敵国の王都に入る。表向きは商隊の同行者として。けれども、カンディオは彼の顔を知っている。一目見れば即座に正体が露見する。
露見した瞬間、レイアナの命は失われ、彼の命も失われる。
彼の手は震えていた。
地球で苦情処理は何度も行ってきた。けれども苦情の客は最後には帰る客だった。今度の客は彼の命を取りにくる客だった。
彼は地球の八年を思い返した。
ロビーで黙って怒鳴られた日々。手柄を取られて笑われた日々。昇進を見送られた応接室。母の若い頃の遺影。ホテルマンになった日の自分の写真。
あの日々は、何のためだったのか。
誰の評価も得られなかった八年は、本当に意味があったのか。
彼は窓の外を見た。
雨が森を叩き、遠くで雷鳴が鳴っていた。
ふと、彼は手帳の中ほどの頁を開いた。
古い書付が挟まれていた。
地球で母が彼に渡した、就職祝いの手紙だった。八年前の紙はもう黄ばんでいた。
彼は文字を追った。
「颯。母にできることは、もう少なくなってしまったね。あなたが選んだ仕事を、母は心から誇りに思います」
涙が一滴、紙の上に落ちた。
彼は紙を慌てて拭った。
「あなたは小さい頃から、お友達のお弁当の中身まで覚えていた子でした。誰かのために何かを覚えるという仕事は、世界で一番大切な仕事です」
彼は紙を抱きしめた。
「あなたが誰にも評価されなくても、母はあなたを誇ります。あなたが誰の目にも留まらなくても、神様はあなたを見ています」
最後の一行が、彼の目に焼き付いた。
神様は、あなたを見ています。
雨の音が彼の耳の中で大きくなった。
地球で書かれた母の手紙の言葉が、異界の宿の窓辺で、新しい意味を帯びていた。
神様は、彼を見ていた。
神様の業務帳の上に、彼の名前は確かに記されていた。
彼の八年は、無駄ではなかった。
彼が一介の記録係として磨き続けた業務は、神々が「再ヒストリー」のために必要とした技術そのものだった。
彼は手帳を閉じた。
立ち上がり、窓の外の雨に向かって深く一礼をした。
誰もいない夜の山に向かって、彼は声に出して言った。
「お役目を、心して全うさせていただきます」
それは銀座のロビーで何百回口にした言葉だった。
今夜は、別の意味を持っていた。
窓の外で雷が一つ大きく鳴った。颯は手帳を閉じ、ゆっくり立ち上がって寝台の隅に置いた。
商隊の老隊長が二階に上がってきて扉を叩いた。
「白川様、明朝の出発は六時でございます」
「畏まりました」
「お休みになれますか」
「業務の前夜には、いつもこんなものでございます」
老隊長は深く頷いて去った。彼の背中には、長年商業の現場で身に付けた、職人特有の静けさがあった。
颯は寝台に身を横たえた。けれども目はなかなか閉じなかった。
頭の中で、明日からの動線を何度も組み立て直した。
国境の検問所で確認される身分証の要件。商隊の隊列の中での自分の位置。荷の積み方。検問官との会話の長さと、視線の合わせ方。
全てを業務の手順に落とし込めば、恐怖は薄まった。
彼は地球で何度もそうしてきた。
大きな団体客のお出迎え。突発的な事故。クレームの収まらないお客様。すべての場面で、彼は自分の不安を「業務の手順」に翻訳して、行動に移してきた。
今夜も、同じだった。
ようやく目を閉じた時、外の雨は小降りになっていた。
翌朝、颯は商隊と共にオルタリア帝国の国境を越えた。
帝国の検問所では、商業ギルド長の隊商として通行が認められた。彼は「会計係の見習い」として登録されていた。
国境の検問所は、雪の積もる山道の中腹にあった。木造の小さな関所と、その周囲を取り囲む丸太の柵。柵の向こうに、帝国の旗を立てた監視塔が立っていた。
商隊が関所の前で停まると、検問官が三名、馬車一両ずつに近寄って中身を確認した。颯は荷馬車の御者台に腰かけ、商業ギルドの会計係らしく分厚い帳簿を膝に広げた。
検問官の一人が彼の前に立った。
「商隊の同行者か」
「は、会計を担当しております。マルクと申します」
「身分証」
颯は商業ギルドの発行した木札を差し出した。表面に焼き印で印が押されている。検問官はそれを一瞥し、すぐに返した。
「通過許可」
馬車の列が動き出した。颯はわずかに息を吐いた。
帳簿を膝の上で開き直す。中の数字は出鱈目だった。けれども検問官にはその区別は付かなかった。
業務上の偽装は、見た目の精度ではなく、姿勢の自然さで決まる。地球で苦情処理の窓口に立った時、彼は何度も「想定問答」を作り、その想定通りに振る舞った。
今、彼は同じ手順を、別の世界で行っていた。
馬車は山道を下り、帝国側の最初の街に入った。屋根の色が違い、鐘の音色が違った。けれども生活している人々の動きは、ラフィエルの王都と少しも違わなかった。
商人が荷を運び、子供が走り、犬が吠え、洗濯物が干されている。
どんな国の都も、根は同じだった。
その根の上で、王侯貴族と帝国主義者が、勝手な国境線を引いて戦争をする。
颯は地球の歴史でも、何度も読んだ話だった。
国境を越えてからの二日間は、淡々とした旅だった。
風景は王都イルファレンと違っていた。建物の屋根は黒く、街道沿いの森は針葉樹が多く、空気が冷たかった。
オルタリアの王都は北の岩盤の上に築かれた要塞都市だった。城壁は二重で、街は灰色一色。商隊が城門を抜ける時、颯は深くフードを被った。
帝国の宮廷は街の中央にあった。
商隊は宮廷の業者用の搬入口に荷を運んだ。颯はその搬入口で、隊商と別れた。
彼は別の人物に化けていた。
迎賓棟の侍従の制服。長袖の黒いコートに金の縁取り。胸に偽造された紋章。商業ギルドが用意した、帝国の宮廷で見慣れた装い。
彼は迎賓の使者を装って、宮廷の通用口から入った。
「ラフィエル王国より、王女様の婚姻に関する内意の確認のために参りました」
ハスキーな声で、宮廷の作法に則った口上を述べた。声色は八年で訓練されていた。
受付の侍従は書類を一瞥し、頷いて中へ通した。
帝国の宮廷の廊下は、ラフィエルのそれよりも冷たかった。
壁の絨毯は深い緋色ではなく、灰色がかった青。肖像画は無く、代わりに歴代皇帝の戦勝記念碑が飾られていた。空気の中に、香木ではなく金属の匂いが微かに漂っていた。
建物全体が、儀礼の場ではなく、軍事の場として作られていた。
颯は廊下を進みながら、その違いを瞬時に分析した。
ラフィエル王宮では、廊下の侍従たちが客の方を向いて頭を下げる。けれどもこの宮廷の侍従たちは、客の方を見ない。彼らは壁に向かって直立し、客が通過するのをただ無言でやり過ごした。
もてなしの作法ではなく、警戒の作法だった。
颯は深く頷いた。
この宮廷では、客は「もてなされる対象」ではなく「監視される対象」だった。
つまり、レイアナも、丁重なお客様としてではなく、監視下の囚人として遇されている。
帝国の宮廷の廊下を、彼は静かに歩いた。
胸の奥で、心臓が静かに跳ねていた。
彼は一つの一つの扉の前で、瞬きしながら、王宮の構造を頭の中に描いていた。
彼にとって、それは新しい客室の階層図だった。
彼の目はホテルマンの目だった。
どんな宮殿も、彼にとっては一つのホテルに過ぎなかった。
レイアナという最重要のお客様が、いまどこかの「客室」に拘束されている。
彼の業務は、彼女のチェックアウトを実行することだった。
レイアナがいる場所の特定には、半日もかからなかった。
帝国の宮廷の侍女たちは、ラフィエルの侍女と同じ仕事をしていた。同じ仕事をする者は、同じ匂いをさせ、同じ廊下を通り、同じ時間に同じ茶器を運ぶ。
颯は彼女たちの動線を観察するだけで、レイアナの居所を見抜いた。
北塔の最上階。
午後三時、若い侍女が紅茶の盆を持って北塔の階段を上がった。彼女が運んだ紅茶は、ラフィエル風の浅い焙煎だった。帝国の宮廷では本来出ない焙煎。
オルタリアの王都に到着して最初の朝、颯は商業ギルドが用意してくれた商人宿の二階の隅部屋に身を潜めていた。
窓の外に灰色の屋根が連なる。風の冷たさは王都イルファレンとほとんど変わらない。けれども空気の中に微かな硝煙の匂いがあった。帝国の王都には、軍隊の駐屯地が街の北側に隣接している。風向きによって硝煙の匂いが街中に流れ込む。
颯はその匂いを嗅ぎながら、自分の心拍を整えた。
地球の銀座の街にも、似たような匂いがあった日があった。新年の花火大会の翌朝。誰も気付かない、火薬の残り香。彼が早朝のロビーで一人で深呼吸をしていた時の匂い。
異界の王都の朝の匂いと、地球の銀座の朝の匂いが、彼の中で重なった。
彼は深く一礼した。誰もいない部屋に向かって。
その日の昼、商業ギルドの連絡員が彼の部屋を訪れた。連絡員は背の低い四十代の女性だった。
「白川様、北塔の図面を入手いたしました」
「お疲れさまでございます」
彼女は分厚い羊皮紙の図面を広げた。北塔は六層構造で、最上階の部屋は一つだけ。窓の数は二つ、廊下の入口は一つ。階段は螺旋階段が一系統。警備は階段下に二名、扉前に二名、廊下の中ほどに一名、計五名。
「警備の交代時刻は」
「四時間ごとでございます。深夜二時の交代の直前が、最も警備が緩みます」
「畏まりました」
颯は図面を頭の中に焼き付けた。
地球で大きな宴会場の動線を覚える時と同じ手順だった。
「では、深夜二時に決行いたします」
「お一人で、北塔へ」
「は」
「危険でございます」
「業務人は、お一人でお客様のお部屋にお伺いするのが作法でございます」
女性は一瞬沈黙し、それから深く頷いた。
「ご無事のお戻りを、お祈り申し上げます」
颯は微笑んだ。
誰かが、レイアナに故郷の味を運んでいた。
ハロルドの遺した、迎賓の作法だった。
あの白髪の老司書が亡くなる前に書いた手紙が、ある侍女に届いていた。
彼の業務の魂は、生きていた。
颯は息を整えた。明日の作戦は、深夜だった。
その夜、颯は宿の二階の窓辺で、もう一度母の手紙を読んだ。
地球で書かれた紙の文字は、もう何度も読みすぎて、彼は暗唱できるほどになっていた。
けれども暗唱と、紙の上で読むのは違う。紙の上の母の文字は、母の手の動きの記録だった。母の手の動きが、息子の人生の節目で、ずっと彼を支えていた。
彼は手紙を畳み、胸ポケットに大切に戻した。
そして、彼の業務手帳を開いた。
頁の最後に新しい一行を加えた。
「深夜二時、北塔最上階のお客様をお迎えに参ります」
書きながら、彼の指は震えなかった。
業務として書き付けた言葉に、彼の覚悟が静かに宿った。
窓の外の月は、雲に半分隠れていた。
彼は灯りを消し、寝台に身を横たえた。
二時間だけ、目を閉じる予定だった。
眠りが訪れる前に、彼は一つだけ、地球の方角に向かって心の中で挨拶した。
「お母さん、行ってまいります」
遺影の母は、八年間ずっと、同じ笑みを浮かべている。
今夜もたぶん、変わらない笑みでいる。
颯はその笑みに見守られながら、束の間の眠りに落ちた。
彼の業務人としての一夜が、ここから始まろうとしていた。




