第七章 真夜中の点検と裏切り
その夜、王宮には三度の鐘が鳴り終わったあと、奇妙な静けさが訪れていた。
風がやみ、犬の鳴き声もなく、夜警の足音すら聞こえない。世界が一度だけ息を止めたような静けさだった。
白川颯はその静けさで目を覚ました。
長椅子の上で身を起こす。執務室の窓の外で、雲が流れず止まっていた。
彼は反射的に立ち上がり、ヒストリーノートを胸ポケットに収め、廊下に飛び出した。
書庫からの方角に、何か微かな揺らぎを感じた。空気が、音ではなく密度で警告を放っていた。
彼は走った。
地下三階への螺旋階段を、灯りを持たずに駆け降りた。階段の途中で、灯りが要らない理由に気付いた。下から、青白い光が漏れていた。
炎ではない光。
誰かが、再ヒストリーの術を発動させていた。
階段の下、書庫の入口の前で、ハロルドが石壁にもたれて倒れていた。
胸元に深い刺し傷。血が石畳を黒く染めていた。書庫の扉は半開きで、中の写本が読書台ごと、淡く青白く光っていた。
「ハロルド様!」
颯は彼を抱き起こした。
老司書はまだ息があった。薄く目を開け、颯の顔を見た。
「ソウ様……お見事に駆けつけてくださいました……」
「お話しになってはなりません。今すぐお医者を」
「いえ……お聞きください……」
ハロルドの声は風のようだった。
「写本に……手をかけた者がおります……」
「誰でございますか」
「ヴェルガ……卿……」
颯の背筋が凍った。
「破却者……ヴェルガ……奴は元、神々の歴史係であった存在……腐敗し、魂を喰らう存在となり……」
ハロルドは咳き込み、口の端から血を流した。颯は震える指で老司書のハンカチを取り、その口元を拭った。
「ヴェルガはカンディオを使い……写本を書き換え……自身が……世界の歴史係に成り代わろうと……」
「お分かりいたしました」
「ソウ様……あなたの……手帳が……鍵に……」
彼の指が震えながら颯の胸ポケットを指さした。
「八年分の……魂の記録が……あなたの……唯一の武器……」
「畏まりました」
颯は深く頭を下げた。涙は出なかった。今は泣く時間ではなかった。
「もう一つ……」
ハロルドの声が消え入りそうだった。
「王女様を……お守り……」
最後の言葉と共に、ハロルドの目から光が消えた。
白髪の老司書は、五十年仕えた王宮の地下で、最後まで誰かを守ろうとしながら息を引き取った。
颯は両手で老司書の目を閉じ、深く一礼した。
目の奥が熱かった。けれども泣いている時間は無かった。
彼は立ち上がり、書庫の中を覗いた。写本は読書台の上で、青白い光に包まれている。けれども鎖は無事で、写本は奪われてはいなかった。
ヴェルガの目的は、写本を奪うことではなかった。
書庫を媒介として、王宮内のもっと別の場所に、術を発動させることだった。
颯は走り出した。
レイアナの私室は、迎賓棟の最上階にあった。
颯が階段を駆け上がった時、最上階の廊下には騎士団員が三名、倒れていた。怪我ではなく、ただ眠っているだけのように見えた。これも術の影響だった。
彼はレイアナの部屋の扉に手をかけた。
扉は開いていた。
部屋の中。寝台のシーツが乱れ、窓のカーテンが裂けていた。
寝台の上、王女の枕元に、一通の書簡が置かれていた。
封蝋にオルタリア帝国の紋章。
颯はそれを開いた。
古い王宮の言葉で、こう記されていた。
「王女様は当方にて丁重にお預かりしております。三日後の日没までに、当家の婚姻書類にご署名いただくため、王の使者を国境までお送りください。なお、貴宮より追手が出された場合、王女様のお命の保証は致しかねる旨、添えて」
差出人は無記名。けれども颯にはわかった。
カンディオ・ヴィエルク。
宮地翔。
彼の手の届く範囲で、彼が八年見続けてきた男が、世界一の宝物を盾に取った。
夜が明ける前に、王宮の閣議が招集された。
長卓を囲む宰相、各省大臣、騎士団長、聖職者代表。誰もが青ざめていた。
颯は末席に控えていた。彼は警護の任に当たりながら、王女を守れなかった。閣議の場に呼ばれたのは、彼が直前まで王女のお部屋の警備を兼任していた立場上、状況の説明者として必要だったからだった。
宰相が口を開いた。
「直ちに帝国へ追討の使節を出すべきだ。我が王女のお命を盾に取られる屈辱は、国家の存亡に関わる」
「軽率に動けば王女様のお命に危険が及びます」
騎士団長が反論した。
「ならば婚姻書類に署名するのか。我が国を帝国の属国とするか」
「両国の戦が再び始まれば犠牲は我が方が大きい」
議論は紛糾した。
颯は長らく沈黙していた。
彼の目の前で各派閥の意見が爵位と利害の言葉で飛び交っていた。誰一人、王女レイアナその人の安否を、最初の議題に置いていなかった。
彼は静かに立ち上がった。
「畏れながら、発言をお許しいただけますでしょうか」
全員の視線が彼に集まった。爵位なき記録係の発言は、本来この場で許される行為ではなかった。
宰相は眉をひそめたが、王の代理である宮内大臣がわずかに頷いた。
「申してみよ」
颯は深く一礼した。
「皆様のご議論を伺っておりました。お一つだけ、確認させていただきとう存じます」
彼は卓の上の書簡に視線を落とした。
「この書簡の差出人は、書類への署名を求めております。王女様のお命を盾に、婚姻を強要しております。けれども本当の目的は、婚姻ではなく、王女様の身柄その物にあると考えております」
「と、申すと」
「王女様は神々の祈りに通じるお方でございます。彼らが本当に欲しているのは、王女様のお命でも、政治的取引でもなく、王女様が触れたあるものでございます」
彼は卓の中央を見渡した。
「古文書庫の写本でございます。『創世のヒストリー』」
閣議の卓が一斉にざわついた。
「写本の存在を知る者が、敵方にいる。彼らはヒストリーすなわち世界の魂の配分を、己の意のままに行う術を求めております。王女様の御身は、その術を解く鍵としてお預かりされたのです」
宮内大臣の顔が引き締まった。
「貴殿は、王宮の禁書を読んだのか」
「は」
「権限なき者が」
「お叱りはいかようにも。けれども今は、お叱りの議論をなさっておられる時間がございません」
彼の声は淡々としていた。
「私の提案を、お聞きいただけますでしょうか」
宮内大臣がわずかに頷いた。
「申せ」
「王宮から正規の使節を送るのは、彼らの罠でございます。私は別の方法で王女様をお救いに参ります」
「別の、方法」
「私は、迎賓記録係でございます」
彼は一礼した。
「敵国の宮廷を、お客様として訪れます」
颯は更に話を続けた。
「皆様、私が一夜の業務でお伺いした各国貴賓のご事情の中に、すでに王女様のお命を支える材料がございます」
「と、申すと」
「先月、東方の大公殿下から賜ったお礼の書簡の中に、『恩のあるラフィエル王宮への協力は何時にても惜しまぬ』との一文がございました。あの方の私兵は精強でございます」
「貴殿は、貴族間の私的書簡まで覚えておるのか」
「全てのお客様の書簡をヒストリーとして整理しておりました」
卓の周囲で再び沈黙が広がった。
颯は手元の小さな手帳を開いた。八年分とは別の、新しい王宮用のヒストリーノートだった。
「西方の大司教様からは、聖職者の祈りの輪を巡り業務上のご恩がございます。彼らの巡礼路は北の国境を越え、オルタリア帝国の領内へ深く伸びております。情報網としてご活用いただけます」
「ふむ」
「商業ギルド長様からも先日、銘板のお礼にて、ご協力のお申し出をいただいております」
「貴殿は」
宰相がついに苦笑した。
「貴殿は、この一月で、王宮の半分を味方に付けておったのか」
「お役目でございましたので」
宰相は深く頷いた。
「貴殿の作戦に乗ろう。詳細は別室で詰めるとする」
閣議は新しい局面に入った。
閣議の沈黙の後、最初に動いたのは騎士団長だった。
白髪の長身の男は長らく颯を冷ややかに見ていた。けれどもこの瞬間、彼は深く頷いた。
「迎賓のお役目を、実戦の戦場にお持ちになると」
「左様でございます」
「我が騎士団から、影の者を数名お貸しする。表向きは、特使の侍従と従者として」
「お願い致します」
次に動いたのは商業ギルド長だった。
彼は前月、颯がヒストリーカルテで「商業ギルド貴賓室」を整えた相手だった。彼はすぐに使いを返した。
「我がギルドの隊商が明後日に国境を越えてオルタリアの王都へ向かう。その隊商の中に特使を紛れさせよ」
平民の記録係が、貴族と聖職者と騎士と商人を、たった一晩で動かしていた。
ヒストリーが、人を動かしていた。
彼が一月かけて積み上げた一人一人の人間関係が、王女救出という最大の業務のために、一斉に並び始めた。
ディトが寝台から飛び起きてやってきた時、王宮の正門には既に旅装の颯が立っていた。
「白川様!」
「ディト、お役目を一つお願いいたします」
「は、はい」
「私の留守の間、迎賓棟のロビーをお守りください。お客様を、誰一人粗略にしてはなりません」
「私が、ロビーの責任者を」
「あなたは、私の見込んだベル係主任見習いです」
少年の頰に涙が流れた。
「お留守を、お守り申し上げます!」
深い礼。
颯は静かに頷いた。
馬車に乗り込み、北の国境へ向けて、王都を出発した。
馬車の中で、彼は一冊の小さな手帳を開いた。
地球で八年使い続けた、彼の業務手帳。
手帳の最後の頁に、彼は新しい一行を書き加えた。
「全ての業務人は、いつかお客様の命を預かる夜が来る」
国境までの道は寒かった。
馬車の窓越しに、山々の輪郭が灰色の空に低く伸びていた。木々の枝に薄く雪が残り、風がその雪を時折舞い上げた。
颯は馬車の中で、何度も同じ手帳の頁を開いた。
地球で八年書き続けた二百三十六名のお客様のお名前。それぞれの顔。それぞれのお部屋。それぞれの小さな思い出。
その記録が、いま彼の唯一の武器だった。
彼は誰一人、忘れていなかった。
山下八重子。鏡台のお写真。鈴塚様。北側の十三〇五号室。藤崎様。深夜到着の喧嘩腰のお客様。あの方の奥様が病気で別室に泊まっておられたこと。一見柔和に見えた老紳士が、実は前夜お子様を亡くしておられたこと。私の覚えている記憶は、私の業務だった。
彼の指は震えなかった。
馬車の御者が小声で告げた。
「白川様、国境まであと半日でございます」
「お疲れさまでございます」
「お休みになられても、構いませんが」
「業務の最中でございますので」
颯は窓の外の風景に目をやった。雪と木々と、風の音だけの世界。
地球の冬と、何かが似ていた。何かが大きく違っていた。
たぶん、似ているのは静けさで、違っているのは重さだった。




