第五章 帝国からの新しい客人
春が始まろうとしていた。
異界に来てから一月。王宮の中庭の薔薇は新しい蕾を膨らませ、噴水の音が朝の冷気に溶けていく季節だった。
白川颯の名は、いつしか王宮の隅々にまで知られていた。
書類の山だった執務室は綺麗に整理され、各棟の侍従たちは颯の小さな付箋システムを共有して使うようになった。客人の苦情件数は半分以下に減り、何より侍従や下働きの者たちまでもが、自分の仕事に誇りを持ち始めていた。
少年ディトは正式に「迎賓棟の使い走り見習い」から「ベル係主任見習い」へ昇格していた。十一歳の少年に主任の名を冠するのは前代未聞のことだったが、誰一人異論を出さなかった。彼は颯の指導の下で、地球のホテルマンの基礎作法を一つずつ身に付けていた。
ある日の午後、颯は王宮の中庭でレイアナと並んで歩いていた。
春の陽が暖かく、薔薇園の蕾がほころび始めていた。
「白川様、あなたが来てから王宮の空気が変わりました」
「皆様のご努力でございます」
「あなたはいつもそう仰る」
レイアナが微笑んだ。
「あなたは、自分の手柄を一切受け取らない」
「は」
「それは美徳ですが、欠点でもあるのですよ」
颯は少し驚いて顔を上げた。
彼女の紫の瞳が、薔薇の蕾越しに彼を見ていた。
「自分の価値を自分で認められない人は、いつか他の誰かに価値を奪われます」
その言葉に、彼は息を呑んだ。
地球での八年が、頭の中を一瞬で流れた。
評価表に書かれた「アサインの精度が高い」だけの一行。山下夫人のご家族から届いた礼を宮地が掠め取ろうとした電話。何度も流された昇進。
「私は」
「あなたは、もう十分に価値ある仕事を成しています。けれども、その価値を、ご自身で認めていただかないと、私はあなたを大切にする方法を失ってしまうのです」
彼は深く頭を下げた。
「畏まりました。心して、心がけます」
レイアナが小さく笑った。
「畏まらないでください。あなたは私の友人なのです」
友人。
その言葉を、颯はゆっくり噛みしめた。
地球で八年、彼に「友人」と言ってくれた人はほとんどいなかった。
目の奥が一瞬熱くなった。彼は深い礼を以てそれを隠した。
二人は中庭の小道をゆっくり歩いた。レイアナは時折足を止めて、小さな白い花を指さした。
「白川様、これはルーンの花、と申します。春の最初に咲く花。私の母が好きだったと、乳母から聞いております」
「美しい花でございますね」
「お母様の話ばかりして、ごめんなさい」
「いえ」
「私はずっと、母を覚えていない自分が、寂しゅうございました。けれども最近、覚えていなくても、母は私の中におられる、と気づき始めております」
「左様でございますか」
「白川様、あなたのお話を聞いて、そう思えるようになりました」
颯は深く頷いた。
地球で母が彼に書いた手紙の言葉が、頭の中をよぎった。
「神様は、あなたを見ています」
その言葉が、別の世界の少女の心の奥にも、確かに届いていた。
夕方、執務室にディトがやってきた。少年は最近、毎日決まった時間に「お礼の作法」を教えてもらいに来るのが習慣になっていた。
「白川様、今日のお仕事はいかがでしたか」
「平穏でございました」
「ご無事で何よりです」
ディトの言葉遣いは、一月前と比べて格段に整っていた。彼はあらゆる作法を、まるで宝石のように集めて磨く子供だった。
「ディト、今日はお詫びの作法をお教えいたしましょう」
「お詫び、ですか」
「お客様にご不便をおかけしてしまった時、どうお詫びを申し上げるか。これも業務でございます」
「お願いいたします」
颯は彼に見本を見せた。
肩の力を抜き、両手を腰の前で軽く組み、目を伏せ、深く頭を下げる。十秒。それからゆっくり顔を上げる。
「お詫びの言葉は、短く一言だけ。『誠に申し訳ございません』。これだけです。長い言い訳は不要です。お客様が求めておられるのは、こちらの誠意でございますので」
「畏まりました」
ディトは何度も練習した。少年の細い肩が、徐々にホテルマンの線を帯びていった。
翌週、王宮には商業ギルド長クレメンス・ヴォーゲルが来訪した。
白髪交じりの五十代の商人で、王都の物流の半分を握る男だった。彼は王女との謁見の前に、迎賓棟の貴賓室で休息を取りたいと希望していた。
颯は彼の応対を一手に引き受けた。
ギルド長は当初、無愛想に椅子に腰かけていた。けれども颯が彼の出身地である南方の薬草茶を出した瞬間、表情が緩んだ。
「お前は、わしの母の村のお茶の作り方を、なぜ知っておる」
「商業ギルドの過去の取引記録を、参考にさせていただきました」
「そんな小さな記録まで」
「業務でございますので」
ギルド長は深く笑った。
「白川と申したか。何かわしの世話になることがあれば、いつでも遠慮なく言うが良い。ギルドはお前の味方じゃ」
「もったいないお言葉でございます」
颯は深く一礼した。
その日、商業ギルドの銘板に、新しい紋章が刻まれた。「白鶴の翼」と称される印。颯の名は、王都の商業の中枢にも、静かに記録された。
その日の夕刻、ディトが息を切らせて執務室に駆け込んできた。
「白川様、ハロルド様がお呼びでございます」
「はい」
「地下の図書館のご案内、と」
颯は筆を置き、少年に頷いた。
ディトは廊下の角を曲がる前に振り返り、小さく頭を下げた。少年の礼の角度は、地球の新人時代の颯のそれと、いつの間にかほとんど同じになっていた。
地下の書庫で、ハロルドは一人で写本を開いていた。
彼の手元の灯りは小さく、そのため彼の表情は深く影に落ちていた。
「ソウ様、お呼び立て致しまして恐縮にございます」
「いえ」
「ご覧ください」
彼が指したのは、写本の中盤の頁だった。
かつて見たときには、欠損は一頁の一部に留まっていた。
今、欠損は三頁にまたがり、内容のほとんどが薄れてしまっていた。
「広がっているのですね」
「左様でございます。この三日で大きく広がりました」
颯は息を呑んだ。
「カンディオ殿が王都に到着されてから、加速しているのでございますか」
「断じて申し上げにくいところでございますが、時系列的には合致いたします」
ハロルドは頁を捲った。
欠損の周りに、青い細かな粒のようなものが滲んでいた。
「これは、再ヒストリーの術が発動されている兆候でございます。誰かがこの世界の魂の流れを、密かに書き換えています」
「具体的に、何が書き換えられているのでしょうか」
「分かりませぬ。ただ、断片的に読み取れる箇所から推測しますと、近く、王宮内で、誰かの『再ヒストリー』が実行されようとしている、と」
「再ヒストリー」
「世界から消し、別の世界に飛ばす術でございます。標的となった魂は、この世界の記録から永久に削除されます」
颯の背筋に寒気が走った。
「標的は、どなたなのですか」
「分かりませぬ。けれども」
ハロルドは深く息を吐いた。
「私の老いた直感では、王女様の御身が標的とされる可能性が高うございます」
颯は深く頷いた。
「対策は」
「写本に、ある節がございます」
ハロルドが別の頁を開いた。
「『再ヒストリーは、真にふさわしき業務人の手によってのみ阻止される』」
「業務人」
「あなた様でございます、ソウ様」
その夜、颯は執務室で長く座っていた。
手元には自分のヒストリーノート。表紙の擦り切れた革の質感を、彼は指先でなぞった。
地球で八年、彼が積み上げてきた業務の記録。誰にも読まれず、誰にも評価されなかった八年の手帳。
それが、今や世界を救う鍵だと言われている。
信じ難い話だった。
けれども、写本の青い粒は確かに広がっている。彼の眼で見たのだから、否定はできない。
「私如きが」
彼は声に出して呟いた。
長年の口癖だった。
けれども、その口癖の後に、新しい一文が続いた。
「私如きが、お引き受けいたします」
業務人として。
地球で八年、彼が培ってきた業務の作法は、一つだけだった。
お客様お一人お一人を、覚え続けること。
それだけが、再ヒストリーの嵐に抗う唯一の方法に思えた。
夜半、颯はレイアナの私室の前まで足を運んだ。
扉の前で、小さなランプを持った彼女の侍女と出会った。
「白川様、こんな時間に」
「失礼いたします。王女様にお目通りを願えませんでしょうか」
「畏まりました。少々お待ちくださいませ」
ほどなくしてレイアナが扉を開いた。寝衣の上にショールを羽織った姿だった。
「白川様、何か」
「畏れながら、明日より私に、王女様のお部屋の警護に関する権限を与えていただけませんでしょうか」
「警護」
「ハロルド様より、写本の状況をお伺いいたしました。王女様の御身を、業務人として、お守りしたく」
彼女はしばらく考え、それから深く頷いた。
「分かりました。明日の朝、父王様にお話しいたします。あなたに警護の権限を与えるよう、私から願い出ます」
「ありがとうございます」
「白川様、もう一つお願いがございます」
「は」
「何があっても、あなただけは、私を見ていてくださいませ」
彼女の声に微かに震えがあった。
颯は深く頭を下げた。
「お役目を、心して全うさせていただきます」
彼女が扉を閉めた後、颯は廊下の燭台の灯りの下で長く立っていた。
彼の影が壁に長く伸びていた。
影だけは、地球にいた頃と少しも変わらなかった。
けれども、その影が背負っているものは、地球の時よりも遥かに重くなっていた。
翌日、王宮内に新しい貼り紙が出た。
「迎賓記録係 白川颯 王女様の安全管理を兼任とする」
簡潔な辞令だった。
その辞令を見た侍従たちの中で、二人だけが眉をひそめた。
一人はカンディオの随員。
もう一人は、颯がまだ顔を覚えていない、王宮内の誰かだった。
その日の夕刻、迎賓棟の北翼でカンディオが王宮の若い文官を一人、人気のない庭園に呼び出していた。
文官は震えながら立っていた。手の中に、王宮の名簿の写しを握りしめている。
「ご苦労」
「失礼ですが、これは何のお役に立つので」
「お前が考えなくていい。来週までに、もう一冊、王女様の私室の警備担当者の名簿が欲しい。書き写してもらえるか」
「は、はい」
カンディオは銀貨の袋を文官に渡し、軽く肩を叩いた。
「お前は良い仕事をしている。帝国は良い仕事をする者を、必ず引き上げる」
文官は深く頭を下げて、その場を去った。
カンディオは庭園の藤棚の下で一人、薄く笑った。
彼の手に、新しい名簿があった。その中には颯の名前と、彼の起床時間と、出勤の動線が、こと細かに記録されていた。
その夜、王宮の遠い棟の一室で、もう一つの密会が行われていた。
窓のない小部屋。蝋燭が一つだけ。机の前に二人の人物が向かい合って座っていた。
一人はカンディオ。
もう一人は、フードを目深に被った長身の老人。皺の刻まれた顔の中で、眼だけが青白く光っていた。
「カンディオよ、進捗はいかが」
「写本の欠損は順調に拡大しております。あと七日で、王女のお名前まで欠損が及びます」
「結構」
「ヴェルガ卿、お一つお伺いしてもよろしいですか」
「申せ」
「あの白川という記録係は、本当にこちらの計画の障害になり得るのでしょうか」
老人は薄く笑った。
「あの男は、八年分の魂の記録を持参しておる。あの記録は、神々の帳簿の同位体じゃ。書き換えの際の最大の阻害要因となり得る」
「では」
「先に始末せよ。ただし、王宮内では目立つな。郊外に誘い出して片付けよ」
カンディオは深く頭を下げた。
蝋燭の炎が、二人の影を低い天井に揺らした。
颯はその夜の密会を知らなかった。彼はただ、執務室で自分の手帳に向かい、レイアナのお部屋の警備手順を細かく書き留めていた。
彼の手はホテルマンの手だった。剣を握ったことのない手だった。けれども、その手の動きは確かで、書き付けた一文字一文字が、後の数日間で意味を持つことになる。
遠くで王宮の鐘が三つ鳴った。
夜が深くなっていた。
彼は灯りを消し、長椅子に身を預けて目を閉じた。
三十分の仮眠を取って、それからまた業務に戻る予定だった。
仮眠の前に、彼は一つだけ、声に出して言った。
「お役目を、心して全うさせていただきます」
誰もいない執務室に、その言葉だけが残った。
偽りの平穏は、確かに、終わろうとしていた。




