第五章 帝国からの新しい客人
三日後の昼下がり、王都イルファレンの大通りを六頭立ての黒馬車が悠然と進んでいた。
馬車列の先頭の旗には、銀の竜と黒の十字。オルタリア帝国の紋章。
白川颯は王宮の正門前で、王女レイアナとハロルド、そして宰相と各省大臣に並んで特使団を出迎える列に立っていた。
彼は深く息を整えていた。
書類の上で見たひとつの名前が、これから人として現れる。彼の頭の中で、その名前と地球の同僚の顔とが、どうしても重なっていた。
それは杞憂であってほしかった。けれども、彼の業務人としての勘は、最悪の予感を捉えていた。
雪は前夜から続いていた。中庭の白い絨毯の上に、黒馬車の車輪の跡だけが二条、深く刻まれていく。
颯は出迎えの列の中で、自分の左手の指先が冷たいのを感じていた。緊張ではない。覚悟の前に来る、あの細い震えだった。
地球で大きな団体客のお出迎えを行うときに、何度も経験した震え。けれども今日のそれは、種類が違っていた。
馬車が王宮の正門前で止まった。
扉が開く。最初に降り立ったのは年配の儀礼官。次に二人の護衛騎士。最後に、若き魔導書係官が降り立った。
黒の長コートに金の刺繍。胸元に帝国の紋章の徽章。腰に細身の剣。年齢は三十代に届かない。整った顔立ちに、薄い金髪。
その顔を見た瞬間、颯の心臓が一拍だけ止まった。
知っている顔だった。
いや、知っているなどという生易しい言葉ではない。八年見てきた顔だった。
宮地翔。
元の世界での同僚。彼の手柄を取り、彼を「アサインだけ」と笑った男。
その男が別の世界で別の名を持って、馬車から降りてきていた。
颯は表情を一切変えなかった。それが彼の八年の訓練だった。
若き係官の側もまた、ほんのわずか、瞳の奥で何かが揺らいだ。
けれどもすぐに視線を外した。
彼は王女レイアナに恭しく一礼し、流れるような帝国式の挨拶を述べた。
「カンディオ・ヴィエルク、オルタリア帝国魔術院の魔導書係官として、貴国王女レイアナ様にお目通り叶いまして、無上の光栄に存じ上げます」
声まで宮地のままだった。
ただ、その口調は宮地が地球で見せた粗野なそれとは違い、磨き上げられた宮廷の言葉になっていた。
レイアナは丁重に挨拶を返した。颯はその傍らに控えていた。
「ご紹介します。当王宮の迎賓記録係、白川颯にございます。ご滞在中はこの者がご不便なきようお取り計らい申し上げます」
レイアナがそう言った瞬間、係官の視線が初めて颯の上に止まった。
数秒、ただ視線だけが交わされた。
係官が薄く笑った。
「異界の方とお伺いしました。お珍しい称号にて、ご丁重なお出迎え恐縮にございます」
「お役目を、心して全うさせていただきます」
颯の声に揺れは一切なかった。
歓迎の宴は王宮の大広間で執り行われた。
長卓の上座に王女レイアナ、その右隣に宰相、左隣にカンディオ。颯はレイアナのすぐ後ろに控え、給仕の采配を取っていた。
料理は六種。前菜の白魚の冷製、薔薇の香りのスープ、川魚のソテー、子羊の蜂蜜煮、季節の野菜の煮込み、最後に蜂蜜と胡桃のタルト。颯はそれぞれの料理が運ばれるタイミングを、入口の侍従に目配せだけで指示した。
彼は宴席の温度をひとつも崩さなかった。
給仕の合間に、颯は何度か壁際の侍従たちに目で指示を送った。第三の杯が空になった大公殿下の前にすぐに新しい杯を運ぶよう、王女様の隣の席が冷えないよう暖炉の傍の侍従に二度炭を足させ、デザートが出る前に席の周りの皿を全て下げさせた。指示は声を出さず手の動きだけで伝えた。
ハロルドが壁際で颯の動きを見ていた。
彼の白髪の老司書は、長年の宮仕えで生まれて初めて見る種類の采配を、目を細めて眺めていた。
地球の宴会場で何百回繰り返した動きが、別の世界の長卓の上で、誰一人気付かれないまま、宴の温度を維持していた。
颯は気付かれないことを、誇りに思っていた。
目立つことが業務の目的ではなかった。
お客様が心地よくお過ごしいただくことだけが、彼の仕事だった。
給仕の合間に、颯はカンディオの食事を観察していた。
彼の食べ方は地球の宮地の食べ方と、ほぼ同じだった。フォークの持ち方の癖、ナプキンの使い方、グラスの傾け方。中身の人格は、確かに同じだった。
カンディオも颯を観察していた。
二人の視線が時折交差した。互いに何も語らなかった。けれども空気の中に張り詰めた糸が一本、確かに通っていた。
宴の終わり頃、カンディオが立ち上がって挨拶を述べた。
「貴国の温かなご歓待に深く感謝申し上げます。我が帝国とラフィエル王国は、長年の隣人としてさまざまな経緯を辿って参りましたが、今後は新たな時代の友邦として、互いの繁栄に資することを願ってやみません」
甘い声だった。
颯はレイアナの肩越しにその声を聞いていた。
甘い声に、毒があった。
夜更け、宴が解けて、颯が執務室に戻って書類整理をしていた時、扉が叩かれた。
訪れたのはカンディオだった。彼は侍従を伴わず一人で訪れていた。
「夜分恐れ入ります。当方より、迎賓のご担当者様に直接お礼を申し上げたく」
「いえ、お役目でございます」
颯は冷静に対応した。けれども扉を閉めた瞬間、係官の口元の笑みが、八年見慣れた宮地のそれに変わった。
「やっぱりお前か白川。さっきから気付いてただろ」
言葉の語気が一気に砕けた。
颯は無言で立っていた。
「ま、座れよ。元同僚として一杯くらい」
彼は懐から銀色のフラスクを取り出し机に置いた。
「俺は今や帝国の魔導書係官様だぜ。お前はまだ平民の記録係か。可哀想にな」
「お互い、立場のあるお話でございます」
颯の口調は仕事中のそれだった。
「お前そういうとこだぞ。地球でもそうだったよな。ホテルマンの皮被って、本心を見せない。だから出世できないんだよ」
「お言葉を伺ってございます」
宮地、即ちカンディオが鼻で笑った。
「俺はこっちで才能を発揮することにしたんだ。あちらでは現場叩き上げの古参が出世してて、俺は本社からの派遣でも、思うように上がれなかった。だがこっちは才能が全てだ。俺の弁舌で帝国の貴族に取り入って、半年で魔術院の係官まで上がった」
「ご立派でございます」
「お前みたいに、平民で記録係止まり、ってのとは違うんだよ」
彼はフラスクの蓋を開け、中身を二つの杯に注いだ。颯は杯に手を伸ばさなかった。
「で、お前、王女レイアナとはどうなんだ」
「お役目の関係でございます」
「ふうん。へえ」
係官の瞳の奥に微かに何か粘ついたものが見えた。
「気を付けろよ。あの王女な、政略で帝国に嫁ぐ話が水面下で進んでるぜ」
颯の指先が、ほんのわずか、動いた。
「どこから出たお話でございますか」
「俺の口からは言えないがね。まあ、その話を運ぶのが、俺の今回の任務の一つでもある」
彼は杯を一気に煽った。
「白川。お前が頑張ってこの王宮を立て直しても、結局は俺の手のひらの上で踊ってるだけだぜ。せいぜい、丁重にお迎えしろよ」
「お言葉、伺っております」
「で、業務用語、まだ覚えてるか。ヒストリー」
颯の鼓動が大きく跳ねた。
顔は変えなかった。八年の訓練だった。
「お客様の履歴記録でございますね」
「俺たちのお仕事だったよなあ。それが今、神々の用語と同じだなんて、お前驚いただろ」
「お知りでいらっしゃいましたか」
颯の声がほんの少し低くなった。
「俺はね、こっちに来てから古文書をずいぶん読み込んだよ。ヒストリーが世界の魂を綴る帳簿だってことも、再ヒストリーで魂を別世界に飛ばせるってことも、知ってる」
「左様でございますか」
「俺はね、その術を独占するつもりだ。世界の歴史係って肩書きを、神々から奪って、俺自身が新しい歴史を書く」
彼の目が薄く光った。
「お前が王宮で書いてる小さな付箋、あれは可愛いお遊びだな。俺が書くのは、世界そのものの台帳だ」
颯は深く頭を下げた。
「ご立派でございます」
「お前は俺と組まないか」
「と、申しますと」
「ヒストリーを書き換える作業を手伝え。お前の業務知識があれば、俺の計画はもっと精緻になる。お前にも相応の地位を用意してやる」
颯は顔を上げた。
「お言葉でございますが」
「うん」
「お部屋の整え方として、お客様にふさわしくないお部屋にお通しすることは、私の業務にはございません」
「は」
「お客様お一人お一人のご事情を無視して、お部屋に詰め込むやり方は、業務ではなく、独裁でございます。私の業務の作法では、お受けできません」
彼の声は静かだった。
カンディオの目が冷たく光った。
「お前、そういうところだよ」
「お言葉、伺いました」
「いつまで弱者ぶってんだ。お前、結局、何も変えられない側だぞ」
「私は変えるためではなく、整えるために働いております」
颯は深く一礼した。
係官は鼻で笑い、フラスクを懐に戻して扉に手をかけた。
「お前の小さな業務、いつか踏み潰されるぞ。覚えとけ」
扉が閉まった。
残された執務室で、颯は長い間、立ち尽くしていた。
手元の杯から、微かに琥珀色の酒の匂いが立ち上っていた。彼はそれを飲まずに、流しに流した。
彼は窓の外の星空を見上げた。
地球と違う星座の中に、けれども既視感のある一つの星が瞬いていた。
偶然か必然か。
彼の業務はいま新しい局面に入ろうとしていた。
深夜、颯はレイアナの私室に呼ばれた。
彼女は寝衣の上に薄いガウンを羽織り、書見台の前で写本の写しを読んでいた。
「白川様、夜分にすみません」
「お役目でございますので」
「カンディオ殿が、執務室にお見えになったと聞きました」
「左様でございます」
颯は短く、二人の間にあった会話の要点を伝えた。地球での同僚であったこと、ヒストリーの真の意味を既に知っていたこと、再ヒストリーの術を独占しようとしていること。婚姻の話を運ぶのが任務の一つだと言われたこと。
最後の項目を聞いた瞬間、レイアナの紫の瞳が一瞬、暗く沈んだ。
「私の婚姻」
「左様でございます」
「私は知らされておりません」
「父王様か、宰相様が、密かにお進めになっているのかもしれません」
彼女はしばらく沈黙し、それから低い声で言った。
「私が政略の駒であることは、生まれた瞬間から分かっておりました。けれども、相手があの方であることだけは、お受けできません」
「お受けにならないと、なれば」
「父王様にお話し申し上げます。明日の朝に」
「私もご一緒します」
彼女は颯を見て、静かに頷いた。
「白川様、これからの数日が、私たちの正念場でございます」
「お役目を、心して全うさせていただきます」
颯は深く礼をして部屋を出た。
廊下の燭台の灯りが、彼の影を石壁に長く映していた。
帰り道、彼は胸ポケットの手帳に新しい行を書き加えた。
「カンディオ・ヴィエルク 元同僚 業務用語の正体を知る 再ヒストリーの独占を企図」
記録すること。
それが彼の唯一の戦いだった。
彼は手帳をひらき、地球の業務記録の最後の頁にもう一行書き加えた。
「お客様が真にお部屋を求めて来館されたのか、お部屋を奪いに来館されたのか、見極めるのも記録係の仕事である」
書き終え、彼は静かに目を閉じた。
明日からの三日間、王宮の業務は表向き静かに、裏で激しく動き始めるだろう。
ふと、執務室の窓の向こうで風が一度だけ強く吹いた。窓ガラスが小さく軋んだ。
颯は窓辺に立ち、夜の中庭の木々が雪の重みに震えるのを見た。木々の枝が雪を落とすたび、白い粉が灯りに舞い上がる。
地球の冬と少しも違わない、ひとつの夜の景色だった。
明日の朝には、また業務がある。
その当たり前の事実が、彼に深い安堵を与えた。
風がやみ、王宮はまた静かになった。
彼の背後の机の上で、手帳が小さくページを翻した。
誰もいない執務室で、頁の翻りだけが、夜の中の小さな音となった。
颯は灯りを消した。




