第四章 客台帳と王女
翌朝、白川颯は王宮図書館の螺旋階段を下っていた。
階段は地上から地下三階まで延々と続き、灯りは壁の燭台の炎だけだった。
降りるごとに空気が冷えていく。
階段は古かった。石段の真ん中が長年の使用で僅かに窪んでいた。窪みの深さがそのまま、この場所に通った人間の歴史だった。颯は窪みの上を歩きながら、自分が今、王宮の表の通路を歩いているのではない、と感じた。
踊り場ごとに小さな窓があった。窓は外側に開いておらず、ただ石壁の中に縦長の隙間が穿たれているだけだった。気休めのような採光。けれども降りていく者にとっては、外の世界との僅かな繋がりだった。
ハロルドが小声で告げた。
「この階段は、王宮の建設以前から存在したと言われております。建国の王が、ここに既にあった石室を発見し、その上に王宮を築いたと」
「それは、いつ頃のお話でございますか」
「千二百年前」
「千二百年」
「我が国の建国より、写本のほうが古いのでございます」
颯は頷いた。
地下深くに至るほど、空気の質が変わった。湿気が消え、代わりに乾いた紙の匂いが漂った。羊皮紙の匂い。それから、墨の匂い。何百年もの間、写字生たちが筆を走らせ続けた場所の匂いだった。
先頭はハロルド、その後ろにレイアナ、最後尾に颯。三人は黙って階段を降りた。彼らの靴の音だけが石壁に反響した。
地下三階で階段が終わり、低い天井の通路が現れた。通路の終わりに鉄の扉。扉には複雑な紋様が刻まれ、ハロルドが懐から鍵を取り出して開けた。
扉の向こうは円形の石室だった。
中央に古い読書台。台の上に革装の書物が一冊。鉄の鎖で台に繋がれている。書物の周囲に四本の燭台が立ち、それぞれが青白い炎を上げていた。
燃えているのに熱がない炎だった。
颯は息を呑んだ。
「ソウ様」
ハロルドが静かに振り向いた。
「これが王家にのみ伝わる写本でございます。題名は『創世のヒストリー』。神々が魂の流転と業務を綴った帳簿の写本でございます」
書物の表紙は、颯のヒストリーノートの表紙と寸分違わぬ装丁だった。革の質感、頁の組み方、背の縫い目。同じ職人が作ったかのように。
いや、職人ではない。
神々が作ったものだった。
颯は震える指で胸ポケットから自分のノートを取り出した。読書台の脇に置いた。
二冊の手帳が並んだ。
外見は完全に同じ顔だった。
レイアナが書物の留め金を外した。彼女は王家の血を引く「記録の巫女」として、この写本に触れる権利を持っていた。
「白川様、お読みになれますか」
「ご開帳いただけますか」
彼女は最初の頁を開いた。
羊皮紙の上に、黒い墨で古代文字が並んでいた。颯にはまったく読めない文字だった。けれども所々、彼に読める言葉が混じっていた。
その一つが、彼を凍り付かせた。
「ヒストリー」
古代文字の合間に明らかに彼の業界用語と同じ意味の単語が、ローマ字に近い綴りで点在していた。
「読める箇所と、読めない箇所がございます」
「お読みいただきたい箇所を、私が指し示します」
レイアナが指で章の見出しを示した。
颯は声に出して読んだ。
「『そのとき、創造神は無数の魂を手に取りたまえり。神は魂それぞれにふさわしき肉体と境遇を割り当てたもう。これを業務と呼ぶ。神々はその業務の全てを綴り、子の名簿に残したもう。これがヒストリーの始まりなり』」
石室の空気が止まった。
颯の声は震えていた。
「これは……」
「左様でございます」
レイアナの瞳が深く彼を見つめた。
「神々の業務は、あなたの業務と、同じ言葉で記されているのです」
彼女はさらに頁を捲った。
「この写本によれば、神々の業務には時折『誤割り当て』が生じるとされます。本来別の世界で活きるべき魂が、誤って違う世界に置かれてしまう。その場合、別の魂を呼び出して『再記録』を行うことがあるのです」
「再、記録」
「異界召喚の本当の名は、再ヒストリーなのです」
颯の手元の写本が、ふと風も無い石室で頁を翻した。
次の頁の一節を、レイアナが指した。
「『真にふさわしき記録人を呼び寄せる際、神々はその者の業に深く通じた呼称を以て名乗らせる。その呼称を以て、神々はその者と契約を結ぶ』」
「呼称」
「あなたが名乗ったお仕事の言葉。ヒストリー。それがあなたを呼び寄せた契約の言葉です」
石室の空気が彼を締め付けた。
地球で八年口にしてきたただの業務用語。それは、世界を渡る契約の言葉だった。
「では」
彼は喉を鳴らして言葉を絞り出した。
「私を呼んだのは、王女様ではなく、神々ということに」
「私の祈りを、神々がお聞き届けくださった、と申しましょう」
颯は写本の上の自分の手を見つめた。
胸ポケットから出したヒストリーノートが微かに発光しているように見えた。気のせいかもしれなかった。
ハロルドは別の頁を開いた。
「ソウ様、ここをご覧ください」
頁には小さな図が描かれていた。
円が三つ、互いに重なるように配置されている。それぞれの円の中に、古代文字で短い注記。
「これは、神々のお仕事を表す図でございます。一つ目の円が『召喚』。二つ目の円が『記録』。三つ目の円が『送還』。三つの円が重なる中央に、業務人がおります」
「業務人」
「神々の代理として、世界の魂を整える者の呼び名でございます」
颯は図を見つめた。
「中央の業務人は、三つのお仕事を一手に引き受けるのでございますね」
「左様でございます。そして、図の最も古い注記には、こう記されております」
ハロルドが文字を指さした。颯にもその一語だけは読めた。
「『業務人は、自身の業に対する誠実さを以て、神々の代理として立つ』」
颯は深く息を吐いた。
それは、地球で母が彼に書いた手紙の一行と、ほぼ同じ意味の言葉だった。
彼の目尻が一瞬熱くなった。
石室で颯は、写本のもう一つの頁を見せられた。それは「業務人の試練」と題された章だった。
「ここには、過去に召喚された業務人たちのお話が書かれております」
ハロルドが頁を捲った。
「最初の業務人は、千年前、東方の小国の宿屋の主人でした。彼は神々の歴史係を補佐し、世界の魂の流れを整えました。二人目は、五百年前。北方の郵便配達人。三人目は、二百年前。商家の帳簿係」
「皆様、地味な業務に就かれていた方々でございますね」
「左様でございます。神々が選ばれるのは、華やかな英雄ではなく、目立たぬ業務に誠実な者でございます」
颯は頭を下げた。
「私のような者が、お役目を全うできるか、不安でございます」
「不安があるからこそ、誠実であり続けられるのでございます」
ハロルドの瞳が温かかった。
「先代までの業務人は、皆様、お役目を全うされた後、ご自身の世界へお戻りになっておられます」
「私も、いつか戻れるのでしょうか」
「神々のお取り決めの上では、左様でございます」
颯はその言葉を、深く胸に納めた。
彼には地球で続けるべき業務がまだあった。山下夫人のご家族のお迎え。新人の高橋への引き継ぎ。あの仏壇への朝の挨拶。
帰る場所があった。
それは、彼にとって、大きな救いだった。
ハロルドが灯りの下で深く息を吐いた。
「ソウ様、ここからはわたくしの仮説でございます」
「は」
「写本『創世のヒストリー』には、近年、奇妙な現象が起きております」
「と、申しますと」
ハロルドが書物を捲った。後半のある頁。
羊皮紙の上で、文字が消えていた。
書かれていたはずの文字が、薄く擦れて欠落している。
頁の角に焦げ跡のような滲みがあった。
「ここの記述は、半年前まで明瞭に書かれておりました。神々の業務の記録の一部でございます。それが、ある時を境に、徐々に消え始めております」
颯は近寄って頁を見た。
確かに文字が消えている。一行ずつ、誰かに少しずつ消されていくように。
「誰かが、写本を書き換えようとしているのでしょうか」
「左様でございます」
「ですがこの写本は鎖で繋がれ、地下三階に閉ざされております」
「物理的に書き換えているのではございません」
ハロルドが声を低めた。
「世界の魂の流れそのものを、誰かが歪めようとしているのです。歪みが起こると、写本の記述から、その分の文字が消えます。神々の帳簿が、誰かに上書きされ始めているのです」
颯は息を呑んだ。
「それを、誰がやっているのですか」
「分かりませぬ」
ハロルドの声が震えた。
「ただ、近頃、北のオルタリア帝国の魔術院長官、ヴェルガなる者が、写本に関する資料を集めているとの噂がございます」
「ヴェルガ」
「もしも、彼が、再ヒストリーの術を独占しようと企てているのでしたら、世界そのものが彼の意のままに塗り替えられかねません」
レイアナが静かに口を開いた。
「白川様」
「は」
「あなたを召喚したのは、神々の意思でもありますが、私の祈りでもあります。私は、あなたに王宮の業務を整えていただきたかった。けれども、本当にあなたに必要なお役目は、別にあったのかもしれません」
颯は彼女を見た。
「世界のヒストリーを、書き換えから守ること。それが、本当のあなたのお役目かもしれません」
彼女の紫の瞳が、燭台の青白い炎を映していた。
颯は自分のヒストリーノートを胸ポケットに戻した。
「お役目を、心して全うさせていただきます」
地球で何百回口にした言葉だった。
今、それは別の意味を持っていた。
階段を上り始めて、二人と一人の足音が再び石壁に響き始めた。
レイアナがふと立ち止まり、踊り場の窓の外を見た。
「白川様」
「は」
「あなたの世界には、神様はいらっしゃいますか」
颯はしばらく考えた。
「私自身は、特別な信仰を持っておりません。けれども母は、毎朝仏壇に手を合わせておりました」
「仏壇」
「故人を祀る祭壇でございます。母は祖父母と父の写真の前で、いつも手を合わせておりました」
「お母様は、ご存命でいらっしゃいますか」
「十二年前に亡くなりました」
レイアナが小さく頷いた。
「でしたら、あなたは毎朝、お母様に挨拶をなさっていらっしゃるのでしょう」
「左様でございます」
「神様への祈りと、お母様への挨拶は、たぶん同じものでございますね」
颯は彼女を見た。彼女の紫の瞳が、僅かに潤んでいた。
「私は、母を覚えておりません」
レイアナの声が低くなった。
「私が三歳のときに亡くなりました。お顔も、お声も、覚えておりません。ただ、私の中の祈りの形だけが、母から受け継いだものなのだと、誰かが教えてくれました」
颯は深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
「いえ、責めているのではありません。あなたが毎朝お母様にお挨拶をなさっていると伺って、私は少しだけ、嬉しくなっただけです」
彼女は窓の外の中庭をもう一度見て、それから階段を再び上り始めた。
地下から地上に戻る螺旋階段の途中、レイアナが颯の隣に並んだ。
「白川様、私は申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「は」
「私の祈りが、あなたを世界の戦いに巻き込んでしまいました」
「いえ」
颯は深く頭を下げた。
「お部屋の整えが、お客様のご旅行の質を決めるように、お役目の整えが、世界の質を決めるのでございましょう。私は、お客様のために働く人間でございます。お客様が私の業務を必要としてくださるなら、私の業務はそこにございます」
レイアナが瞳を閉じた。
「あなたの言葉は、私の心の傷を、丁寧に縫い合わせてくださいます」
「もったいないお言葉でございます」
階段の踊り場で、二人はしばらく黙って立っていた。
窓越しに王宮の中庭が見えた。鳩が一羽、雪の上に降りていた。
平穏だった。
けれども颯は、その平穏が長く続かないことを知っていた。
三日後、北の帝国から特使団が到着する。
その先頭に立つ若き魔導書係官の名は、ハロルドが書類で見せてくれていた。
カンディオ・ヴィエルク。
異界の名前としては妙に響きが地球の音と似ていた。
颯はその名前を、胸の奥に留めた。
その夜、執務室で颯はランプの灯りの下、自分のヒストリーノートをひらいた。
地球で書き続けた八年分の記録が並んでいる。山下八重子。新婚旅行のお部屋。鏡台のお写真。鈴塚様。北側の十三〇五号室。藤崎様。深夜到着の喧嘩腰の客様。
二百三十六名のお客様の名前と、その方々の小さなご事情と、彼が差し上げられたほんの少しの心遣いの記録。
彼は最後の頁にひとつ新しい行を加えた。
「世界のヒストリーに欠損あり 業務人として記録の修復を心がける」
書きながら彼の指は震えなかった。
書く意味を知っていれば、指は震えない。地球で八年積み上げた習慣だった。
彼は手帳を閉じ、執務室の窓辺で星を見上げた。
知らない星座が、慎ましく瞬いていた。




