第三章 王宮の到着リスト
翌朝、王宮の迎賓棟の廊下は怒号に包まれていた。
その中心に立っていたのは、一人の小柄な老貴族と、一人の長身の聖職者だった。両者の侍従たちが互いに睨み合い、廊下の絨毯の上で一触即発の空気が充満している。
白川颯は廊下の角でその光景を眺めていた。
「東方のアルガード大公殿下」
ハロルドが小声で耳打ちする。
「向こうがウェスタリア大司教様」
「あの一ヶ月戦の当事者ですね」
「左様でございます」
二人は廊下の真ん中で互いに譲らず立ち尽くしていた。今朝になって両者が同じ部屋への入室を主張し、侍従たちが入口で揉めているのだった。
颯はゆっくりと前へ進んだ。
「失礼いたします。本日付で迎賓記録係を務めさせていただきます白川颯と申します。皆様の朝のお時間を、私の不手際でお煩わせしてしまいまして誠に申し訳ございません」
いきなり貴族と聖職者の前に進み出た男に、両者の侍従が一斉に剣の柄に手を伸ばした。颯は両手を腰の前で軽く組み、目を伏せて深く礼をした。
ホテルマンの礼。喧嘩の場では誰も剣を抜けない礼。
大公がじろりと睨んだ。
「貴様、見ぬ顔だな」
「本日付けで皆様のお部屋とお過ごしの整理を担当することになりました」
「愚弄するのか。我らの揉め事に部外者が口を挟むなど」
「畏れながら、お二方のご不便を解消することが私の唯一の役目でございます」
大司教が冷たい声で挟んだ。
「お主、爵位は」
「私には爵位はございません。一介の記録係でございます」
空気が凍りついた。
爵位なき者が爵位ある者の調停を申し出る。それは王宮の作法では侮辱に等しかった。
颯はそれを承知していた。けれども顔を上げなかった。
「お二方のご事情を、それぞれ拝聴させていただきたく存じます。両方をお伺いした上で、ご納得いただけるご提案を、十五分以内にお持ちいたします。お時間を頂戴できませんでしょうか」
大公がふんと鼻を鳴らした。
「十五分でわしの面子を満たせるというのか」
「お試しいただけますなら、私の名誉を懸けて」
颯の声は静かだった。けれども揺らがなかった。
大公はしばらく黙った。それからわずかに顎を引いた。
「よかろう。十五分で出ぬなら、わしの侍従にお主の首を貰う」
「お受けいたします」
颯は一礼し、まず大公の控えの間へ案内された。
控えの間に入ってからの颯は別人のようだった。
手帳と筆を取り出し、淡々と質問を始めた。
「殿下、王都ご滞在のご目的は」
「議会への出席。三日後の朝が初日」
「お祈りの習慣はどの時間帯に」
「朝陽を浴びての黙想。我が家の伝統」
「お食事の時間は」
「七時の朝食、十二時半の昼食、十九時の夕食」
「お部屋にご希望の調度や香り、お花は」
「特に無い」
「香で頭痛を引き起こされるご習慣は」
「強い香は苦手だ」
質問は端的でまるで事務処理のようだった。けれども一つも無駄が無かった。書き終えた颯は深々と一礼し、控えの間を出た。
次に大司教の控えの間へ移った。
まったく同じ質問を繰り返した。
「西日の中で晩課を読む。それが慣わしじゃ」
「夕食後に祈祷の時間を頂戴する」
「お花は百合を好まぬ」
「強い香は苦手」
颯は二人の答えを照合した。
答えはほぼ正反対だった。
完璧だった。
彼は廊下に戻り、ハロルドに小声で言った。
「ハロルド様、迎賓棟の地図と、空き部屋の一覧をお願いいたします」
「ただいま」
ハロルドは即座に大判の図面を持ってきた。颯は床に広げ、上から指でなぞった。
二階の南東角部屋。朝日を浴び、午前中の祈祷に最適。
三階の南西角部屋。午後の西日が深く差し、夕の聖務に向く。
階数が違うため爵位の上下と捉えられるかもしれない。
颯は思案した。それから提案を組み立てた。
彼は両者の控えの間にそれぞれ戻り、こう告げた。
「お二方それぞれに、お祈りに最も適したお部屋をご用意いたしました。お部屋の階数は異なりますが、これは爵位の上下ではなく太陽の運行のご都合によるものでございます。本日付の王宮内布告として、両室は同格の『信仰の間』と命名し、王女様の御名のもと、儀礼上の格式を等しく扱うものといたします」
大公が眉を上げた。
「『信仰の間』とな。聞いたことのない呼称だ」
「本日より新たに設けさせていただきます。王女様には事後にご承認をいただきますので、ご本人方には何のご不便もございません」
大公はしばらく沈黙し、それから低く笑った。
「面白い」
大司教の控えの間でも同じ説明をした。
「儀礼上、対等とな」
「左様でございます。神の御前ではすべての朝と夕は等しく尊いものでございます」
大司教は数秒、目を瞑った。
「猊下の御身分にふさわしい解釈じゃ」
二人とも納得し、それぞれ自分の控えの間から、新たに割り当てられた部屋へと移っていった。廊下から一切の怒号が消えた。
壁際で見ていたハロルドが息を吐いた。
「十二分でございました」
颯は時計のない世界で自分の体内時計が機能していることに少しだけ驚いた。
「ご無事で何よりです、ソウ様」
「危ういところでございました」
彼は額の汗をハンカチで拭った。
昼下がり、その騒動の報せは王宮中を駆け巡っていた。
長らく決着しなかった大公と大司教の部屋論争を新参の異界の記録係が十二分で収めたという。話は瞬く間に尾鰭が付き、夕方には颯が大公の前で剣を構えた、大司教を魔法で説き伏せた、などと尾鰭の付いた版が王宮中の侍女たちの口端に上っていた。
颯自身は執務室でひたすら書類と格闘していた。
ハロルドが昼食の盆を運んできた。
「お疲れさまでございます。本日は、もう一件お知らせがございます」
「はい」
「王女レイアナ様が、お会いしたいと」
颯の手が止まった。
「本日のお時間でございますか」
「夕刻、執務室までお越しになるとのことでございました」
彼は背筋を伸ばした。
「畏まりました。整えてお迎え申し上げます」
ハロルドが満足げに頷いた。彼の顔に初めて柔らかな微笑みが浮かんでいた。
颯は午後をかけて執務室を整え直した。書類の山を分類し直し、机の上を綺麗に拭き、客人を迎える椅子の位置を整えた。
窓の外で雪雲が少しずつ晴れ薄い陽が差し始めていた。
夕刻、扉がノックされた。
ハロルドの声が届いた。
「王女様のおなりでございます」
颯は扉に向かって深く礼をした。
扉が開き、彼女が入ってきた。
昨夜のロビーで彼にチェックインを行った、あの紫の瞳の女性が、今は華やかな宮廷服に身を包んで立っていた。
紫紺のドレス。銀の髪飾りに小さな星型の宝石。隣には若い侍女が一人だけ控えている。彼女の瞳の紫は、昨夜のロビーで見た時よりも明るく澄んでいた。
颯は深く礼をした。
「本日付けで迎賓記録係を拝命いたしました白川颯にございます。お初にお目通りいただき、誠に恐悦至極に存じます」
「お初では無いわ」
レイアナは笑った。
「あなたは昨夜、私を最上階の角部屋へお通ししてくださったでしょう」
颯は息を呑んだ。
「あの晩、私はあなたの世界の作法であなたを試したの。困窮した旅人が突然現れた時に、その人がどんな顔をするか。私は紫の瞳を持ったまま行ったわ。あなたは私の身分を疑わず、ただお迎えしてくださった」
「業務でございますので」
「あなたはそれを業務と仰る。けれども、業務でない優しさを、業務の中に潜ませることのできる方は、滅多にいらっしゃらない」
彼女は微笑んだ。颯は深く頭を下げた。
「もったいないお言葉でございます」
「今日の大公殿下と大司教様の件、見事だったと聞きました」
「皆様のご事情を伺っただけでございます」
「あなたは、人を見る方ですね」
その一言が、颯の胸の奥に静かに突き刺さった。
母が病院のベッドで言った言葉と同じ意味の一文だった。
彼の目尻が一瞬熱くなった。気付かれぬよう深く一礼で隠した。
「光栄に存じます」
「これからの王宮を、あなたにお願いしたい。無作法の多い場所で、お困りも多いと思いますけれど」
「お役目を、心して全うさせていただきます」
レイアナは執務室を見渡した。
「机の上を見せていただけますか」
颯は身を引いた。彼女は彼の整理した書類の山に近寄り、上から数枚を手に取った。
手紙の差出人と件名、そして颯が書き加えた小さな付箋に、彼女の目が留まった。
付箋にはこう書かれていた。
「東方の大公・朝祷・南東角部屋・百合可」
「西方の大司教・晩課・南西角部屋・百合不可」
「南方の小国王女・産後・低層階・乳母同室必須」
「商業ギルド長・社交目的・賑やかな中層階」
文字の大きさは小さく、けれども読みやすく整っていた。
レイアナはその付箋を一枚ずつ捲った。それから静かに、声を震わせた。
「これは……人間の記録ですね」
「は」
「これまで王宮の記録は、爵位と紋章と贈与の額しか記されていませんでした。誰が、何を、どう感じるかは、誰の関心にも上りませんでした。あなたは、それを書いていらっしゃる」
彼女の頰を一筋の涙が流れた。
颯は身動きが取れなかった。
彼女はハンカチを取り出して涙を拭い、それから振り向いた。
「私の召喚は、間違っていませんでした」
窓辺の光が彼女の紫の瞳を一瞬深く染めた。
「白川様、私は王宮で居場所のない王女でした。母は早くに亡くなり、父王は政治に追われ、姉は王太女として全てを引き受けています。私は『余り』の王女でした」
「畏れながら」
「政略結婚の駒として、ただ生きていたのです」
彼女の声に初めて影が差した。
「私はずっと、人を見てくれる人がそばにいて欲しかった。私を駒ではなく人として扱ってくれる人が、そばにいて欲しかった。だから神々に祈ったのです。『私を見てくれる人を、お遣わしください』と」
彼女の頰にもう一筋涙が流れた。
「神々は、あなたを送ってくださいました」
颯は書類の上の自分の手を見つめた。
地球で八年磨き続けた業務が、別の世界の祈りに応えていた。
報われなかった八年が、見知らぬ少女の祈りに、確かに届いていた。
「もったいないお言葉でございます」
彼は深く頭を下げた。彼の目尻からも抑え切れない一滴が落ちた。
執務室の灯りが二人の影を石壁にゆらゆら揺らしていた。
しばらくの沈黙の後、レイアナが顔を上げて微笑んだ。
「白川様」
「は」
「私はあなたを、必要以上にお引き止めしたいわけではありません。ただ、これからの王宮で、あなたが孤独に追い詰められないように、私も一緒に立っていたいのです」
「もったいないお言葉でございます」
「『もったいない』、あなたは何度それを仰るのかしら」
彼女が悪戯っぽく笑った。颯は微かに頰を緩めた。
「お叱りいただけば改めます」
「叱るなど。ただ、あなたの謙遜は、八年分の重みがあると感じております」
颯は息を呑んだ。彼女は手帳の頁を見ただけで彼の年月を読み取っていた。
「それから、もう一つお願いがございます」
「は」
「今度ご都合のよろしい時に、地下の図書館へお越しいただけますか。ハロルドと私とで、お見せしたいものがございます」
「畏まりました。明日の朝にでも」
レイアナは深く頷いた。
彼女が執務室を辞すとき、扉のそばで一度だけ振り返り、小さく微笑んだ。
「お疲れさまでございました、白川様」
「お休みなさいませ、王女様」
扉が閉まる。執務室には颯と、彼の手帳と、書類の山だけが残された。
彼は窓の外の星空を見上げた。
地球と同じ星座は無かった。けれども星の瞬きは銀座の冬の夜空と少しも変わらなかった。
明日も、五時半に起きるだろう。たぶん。
その「たぶん」が新しい意味を帯び始めていた。
夜が更けて、ハロルドが最後の見回りで執務室に立ち寄った。
「ソウ様、今宵はもうお休みくださいませ」
「あと一時間だけ、書類を進めさせていただきます」
「ご無理は身を縮めます」
颯は静かに頭を下げた。ハロルドは満足げに頷いて部屋を辞した。
一人になった執務室で、颯は胸ポケットから手帳を取り出し、新しい頁に一行だけ書き加えた。
「レイアナ様 紫の瞳 居場所のない王女 紅茶ストレート」
書きながら彼の指は微かに震えていた。
誰かのお部屋を整えるための一行。それが彼の業務だった。
地球でも、新しい世界でも、彼の業務は地続きに繋がっていた。




