第二章 紋章の客間で目覚めて
扉の方から声がした。
「お目覚めですか、ソウ様」
白川颯は寝台の上で身を起こしたまま、声の主を見た。
扉の前に白髪の老紳士が立っていた。
黒の長衣に銀の鎖。胸元に紋章のついたペンダント。手に古びた帳面を持っている。年齢は七十代。背筋がまっすぐで、瞳に長年仕えてきた者の落ち着きがあった。
「失礼いたしました。お目覚めをお待ちしておりました。私はハロルド・テナリスと申します。当王宮の図書館長兼筆頭司書を務めております」
ハロルドが深く頭を下げた。颯は反射的に頭を下げ返した。
「あ、いえ、こちらこそ……失礼ですが、ここは」
「ラフィエル王国、王都イルファレン。王宮内の迎賓棟、客人の間にてございます」
「ラフィエル」
昨夜の予約客の名前だった。
颯はそこでようやく状況の輪郭を掴み始めた。
「私は、なぜここに」
ハロルドの瞳がわずかに揺れた。
「お分かりにならないご様子で、無理もございません。簡潔に申し上げます。あなた様は、王女レイアナ様の召喚により、異界よりこの国へお迎えされました」
颯は石になったように動けなかった。
「ご身分はあらかじめ整えてございます。本日付で『迎賓記録係』としてご着任いただきます。お役目は、王宮を訪れる各国の賓客の応接、ご案内、ご滞在の記録を一手にお引き受けいただくこと」
「それは」
彼は喉を鳴らした。
迎賓記録係。要するにフロント業務だった。
「私はホテルのフロントスタッフです。その業務でしたら」
ハロルドの目が静かに細まった。
「左様でございます。だからこそ、王女様はあなた様をお選びになりました」
着替えと洗顔を済ませた颯は、ハロルドの案内で王宮を歩いていた。
廊下は石畳の上に深紅の絨毯が敷かれ両側に肖像画が並ぶ。歩くたびに自分の影が壁の彫刻と重なる。
窓の外には王都の街並みが見えた。
灰色の屋根が幾重にも連なり、川が市街を二つに分けて流れている。遠くに尖塔の連なる大聖堂。城壁の向こうに森。森の向こうに山。
地球ではなかった。完全に地球ではなかった。
「お疑いの気持ちは当然のことと存じます。けれどもまずは現実をお受け入れいただかなくてはなりません」
ハロルドは言葉を選びながら歩いた。颯は彼の背を追いながら頭の中で状況を整理していた。
異世界転生。
その単語は彼にも知識があった。サブカルチャーで頻繁に消費される設定。けれども現実に起きるとは思っていなかった。
「失礼ですが、私の元の世界へは戻れるのでしょうか」
ハロルドの足が一瞬止まった。
「現時点ではその方法は王宮の魔術院にも判明しておりません。古文書庫に残る伝承では、召喚された方が元の世界へ戻った例はあります。ただしいずれもご自身のお役目を果たされた後でございました」
「役目」
「左様でございます」
二人は螺旋階段を降りた。階段の壁には窓が穿たれ王宮の内庭が一望できた。
螺旋階段を降りた先の長い回廊で、二人は数名の侍従とすれ違った。彼らはハロルドに深く礼をし、颯の顔を見て一瞬訝しげな表情を浮かべ、それから自分の所を通り過ぎた。
颯は彼らの足音、足の運びの速度、衣の擦れる音を耳で記録していた。八年間ロビーで磨いた習慣が、彼の意識の下で勝手に動いていた。誰がどの方向へ急いでいるか。誰が荷を持ち、誰が空手か。誰が表情を見せ、誰が見せないか。それらが彼の頭の中で勝手に表になっていく。
ハロルドが小さく振り向いた。
「ソウ様、廊下の人々をご覧でいらっしゃいましたね」
「失礼いたしました」
「お役目柄でございますか」
「は」
「結構なことでございます」
内庭には人々が行き交っていた。鎧を着た衛兵。修道服の聖職者。豪奢な衣装の貴婦人と侍女たち。商人らしき男が荷馬車を引いている。
絵本の中の景色だった。
「現状を申し上げます」
ハロルドの声が改まった。
「我が国は、北の隣国オルタリア帝国との関係が悪化しております。この一年で国境付近の緊張が高まり、三日後にも帝国からの特使団がこの王都に到着いたします。また王宮には連日、各地方領主、聖職者、外国大使が訪れます。それぞれが格式と面子を重んじ、お部屋一つ、席次一つで諍いが絶えません」
「諍いの様子をお聞かせいただけますか」
「先日も、東方の大公殿下と西方の大司教様が、迎賓棟の上階のどちらの部屋を使うかで一ヶ月にわたり書簡で応酬を続けておられました。決着はいまだに付いておりません」
「一ヶ月」
颯の眉が動いた。
「失礼ながら、それはお部屋の眺望ですか。階数ですか。家具の格ですか」
ハロルドが立ち止まり彼を振り返った。
「お見事でございます」
「いえ何も」
「実際の争点は太陽の差し方でございました。東方の大公殿下は朝日を浴びる祈りを習慣としておられ、西方の大司教様は西日の中で聖務をお読みになる慣わしです。同じ階の同じ向きの部屋しかご用意できなかったため決着が付きませんでした」
「どちらかに東向きの部屋を別にご用意できないのでしょうか」
「現状は爵位順に部屋を割り振る慣例があり、両者の格式が同等のため、部屋の向きを変えることがこちらの面子を欠く行為と見なされる、と」
颯は深く頷いた。
「なるほど。階級ではなく目的で分ければ、本来お互いに別々の朝と夕方をお過ごしになるはずですね」
ハロルドの白い髭が小さく揺れた。
「左様でございます。王宮の役人は誰一人その視点を持ちませんでした」
「私の業務でしたら、最初にお客様の生活時間帯を伺います」
「あなた様の業務、ですか」
颯は穏やかに頷いた。
「ホテルのフロントは、お客様にお部屋をお渡しする職人です。爵位ではなく、目的に合わせてお部屋を割り当てます。私たちはそれを業務記録として残します。私たちの業界用語ではヒストリーと申します」
その瞬間、ハロルドの顔が静かに変わった。
長年の宮仕えで磨かれた仮面が、ほんの一瞬だけ外れた。
彼は颯を見た。深く、長く、見た。
「ヒストリー、と仰いましたか」
「は、業界の用語で恐れ入ります」
「いえ」
ハロルドの声が低くなった。
「その言葉は、王宮の古文書庫にある創世神話の中にも、用例がございます」
颯は息を呑んだ。
「お聞きするのは後ほどに致しましょう。まずは執務室にご案内いたします」
ハロルドは再び歩き出した。颯もその後に続いた。
心臓が一つだけ大きく跳ねた。
業界用語が神話に出てくる。
なぜ。
彼の中でまだ言葉になっていない問いが、ゆっくり輪郭を持ち始めた。
執務室は迎賓棟の三階にあった。
円形の小部屋で壁一面に書架。中央に大机。机の上には未処理の書類が山と積まれている。窓は南西向きで、午後の光が机の上に斜めに差していた。
「これが今、王宮の客人接遇に関する未処理案件でございます」
ハロルドが机を指し示した。
書類は数百枚あった。
「全てに目を通し、応接の優先順位、お部屋の割り当て、儀礼上の席次のご提案を行うのが、あなた様の業務でございます。期日は本日より三日以内」
「三日」
「明後日の夕方、オルタリア帝国の特使団が到着します。それまでに王宮の迎賓体制を整え直さねばなりません」
颯は机の前に立った。
書類の一番上には紫色のリボンで束ねられた七枚の手紙が乗っていた。差出人は東方の大公。内容を斜め読みした。
「失礼ながら、こちらは……お部屋のお話ですね」
「左様でございます」
颯は静かに袖をまくった。
彼の指が動き始めた。書類を素早く分類していく。地域別、爵位別、目的別、滞在期間別、健康状態の有無、宗派、好み。
書類は東方からの嘆願書、西方からの儀礼上の問い合わせ、王都内の貴族からの宿坊予約、外国大使からの謁見要請、商業ギルドからの便宜の願い、聖職者からの儀式日程の調整。出所も書式も筆跡も全てバラバラだった。
颯はまず机の上の書類を全て床に下ろし、空いた机を六つの区画に区切った。それから書類を一枚ずつ拾い、宛先と種別と緊急度の三軸で分類していった。
慣れた手つきだった。地球で何百回も繰り返した作業。書類の山は地球の方が遥かに多かった。彼にとって数百枚は半日仕事に過ぎなかった。
ハロルドが扉のそばから声をかけた。
「ソウ様、先ほどの写本のお話、お忘れになりませぬよう」
「は」
「夜にもう一度伺います」
ハロルドが部屋を出た後、颯は一人で書類と向き合った。窓の外で陽が西に傾いていく音が、聞こえる気がした。
手は八年動いてきた手だった。場所が変わっても彼の業務は彼の業務だった。
ハロルドは扉のそばで黙って彼を見ていた。
白髪の老司書の目に、長らく見られなかった種類の光が、ゆっくりと灯り始めていた。
夕刻、颯は執務室で初日の作業をひと区切りつけた。
書類は三分の一が処理されていた。彼の集中力は地球で十年磨かれたものだった。場所が変わっても劣化はしなかった。
ハロルドが紅茶の盆を運んできた。
「お疲れさまでございます」
「いえ、まだ三分の一でございます」
「三日で全てを片付けようとなさるのですね」
「ご期日でございますので」
ハロルドは紅茶を二杯注いだ。一杯を颯に差し出した。
「ソウ様、お一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「は」
「あなた様のお持ちの、その手帳は」
颯は胸ポケットからヒストリーノートを取り出した。革の表紙は擦り切れている。地球で八年使い続けた手帳。
「八年分の業務記録でございます」
「拝見してもよろしいでしょうか」
「ご覧にお入りになられても、私の字は誰にも読めないかと存じます」
「お読みにならせていただくつもりはございません。装丁を、拝見したいのです」
颯は手帳をハロルドに渡した。
ハロルドは手帳を両手で受け取り、表紙を撫で、頁を一枚だけ開いて閉じた。それからしばらく、何も言わずに手帳を見ていた。
彼の頰に、深い皺が動いた。
「ありがとうございました」
「は」
「お返しいたします」
手帳が颯の手に戻った。ハロルドは深く息を吐いた。
「今夜は、お話を一つだけお聞きいただけますか」
「は」
「王宮の図書館の地下深くに、王家にのみ伝わる写本がございます。題名は『創世のヒストリー』。神々が魂の流転と業務を綴った帳簿の写本だと伝えられております」
颯は息を止めた。
「あなた様の手帳の装丁、革の質感、頁の組み方。それらは、写本の表紙と全く同じでございます」
窓の外で陽が傾いた。執務室の壁に、二人の影が長く伸びていた。
颯は紅茶を一口含んだ。熱すぎて舌を焼いた。その熱さを、彼は妙に心地よく感じた。
地球で八年間、誰にも読まれなかった彼の業務記録が、別の世界の千年前の写本と同じ顔をしていた。
偶然か必然か。
彼の業務は、始まったばかりだった。
夜が更けた頃、執務室の扉が小さくノックされた。
「失礼いたします。お夜食をお持ちいたしました」
扉から顔を覗かせたのは、十一歳ほどの少年だった。
亜麻色の髪、痩せた体、洗いざらしの貫頭衣に革のサンダル。けれども瞳には澄んだ光があった。
「迎賓棟の使い走りを務めております。ディトと申します」
少年は深く頭を下げた。声は小さかった。
「お、お初にお目にかかります」
颯は穏やかに返礼した。
「白川颯と申します。これからお世話になります」
「あ、あの、お部屋の整え方を、ハロルド様から、明日ご教示いただくよう申しつかっております」
「明日、よろしくお願いいたします」
少年は丁寧に夜食の盆を机の隅に置いて出ていった。颯はその背を見送り、僅かに微笑んだ。
地球で新人時代の自分の姿が、別の世界の少年の中に重なって見えた。
彼は紅茶を一口含み、それから盆の上のパンを齧った。固いパンだった。けれども麦の香りが、地球とは違う豊かさを持っていた。
異世界での最初の食事を、彼は静かに味わった。
明日からの業務を頭の中で整えながら。
窓の向こうで王宮の鐘が一つ、低く鳴った。
地球とは違う鐘の響きだった。けれども鐘の意味は、たぶん同じだった。




