第一章 ヒストリーは消えない
五時半。アラームが鳴る前に白川颯は目を開けた。
八年続いた習慣だった。たぶん八年後も同じ朝が来ると彼は信じていた。
たぶん。
しかしその朝、彼の予定は静かに狂い始めていた。
窓の外はまだ薄青い闇に沈んでいる。一月の都心は冷えがきつい。古いアパートの壁を伝う水道管の音が低くうなる。颯は布団から這い出してまず仏壇の前に正座をした。
線香を一本立てる。母の遺影が薄く笑っている。
「行ってきます」
声に出して言った。母を送った日から続けている朝の儀式だった。
部屋には物がほとんどない。壁の本棚には接遇マニュアルと旅行業界の専門書が並んでいる。冷蔵庫にコンビニのおにぎりが一つ。流しの上に湯呑が一つきり。誰かを呼ぶ食器は持っていなかった。
六時十五分。革靴を履いて部屋を出る。階段のきしむ音が胸を冷やす。寒風の中を駅まで七分。乗り換え二回。彼の勤め先は都心の老舗フルサービスホテル「白鶴館」。
従業員通用口で社員証をかざすと電子音が鳴った。地下ロッカーで黒のスーツに着替えネクタイを整える。鏡の中の顔は八年前と少ししか変わらない。少しだけ目尻が下がった気がする程度。
胸のポケットには手帳が一冊。表紙が擦り切れた革製。彼が八年間書き続けてきた「ヒストリーノート」。客の名前と顔と要望と前回の様子が誰にも読めない細かな筆跡で記されていた。
六時五十分。フロントカウンターに立つ。夜勤明けの先輩から引き継ぎを受ける。
「白川さん七階のお客様シャワーの水温が朝だけ下がるって」
「承知しました。設備に連絡入れておきます。お客様のチェックアウト前に確認します」
メモを取る手が早い。颯の手帳は誰でも引き継げる書式で揃っていた。
七時十分。先輩との引き継ぎを終えた颯は、ロビー全体を一度ぐるりと見渡した。観葉植物の葉、絨毯のシミ、エレベーターの呼び出しランプ、コンシェルジュデスクの花瓶の角度。彼の目は十六箇所のチェックポイントを三秒で確認し、いずれも基準を満たしていることを認めた。それから自分のカウンターの位置に戻った。
彼の業務はまずカウンターの整え直しから始まる。鍵のキーラックを揃え、宿泊カードの束の角を揃え、ボールペンの向きを揃える。客が触れる前の状態をいつも同じに保つ。一秒の手間取りが客の印象を左右する。八年で身についた信条だった。
七時。最初のチェックアウトが現れた。常連の山下八重子。八十一歳。半年前から月に一度泊まりに来る老婦人。
彼女は今朝、痩せていた。以前と比べて。
「白川さん、今日もあなたが居てくれたわ」
「ようこそお越しくださいました。お会計は事前にお済みでございます」
「最後のチェックアウトを、あなたにしてもらえてよかった」
颯の指先が一瞬冷たくなった。けれども顔は崩さなかった。
「お加減はいかがでございますか」
「もう難しくてね。次は娘が来ることになるわ」
「左様でございますか」
「主人と新婚旅行で、ここの七階に泊まったの。命日のたびに来ていたのよ」
「お部屋には、ご主人様の写真をお置きでいらっしゃいましたね。鏡台の上の」
婦人の目が見開かれた。
「気付いていたの」
「お部屋の調えに、お写真の側に余白を残すよう清掃には申し送りしておりました」
彼女の頰を一筋の涙が伝った。颯は胸ポケットから白いハンカチを差し出した。常時三枚持ち歩いている客用のハンカチ。
「失礼いたします」
婦人はハンカチを受け取りそれから言った。
「白川さん、私の娘がいつかここに来たら、あなたに最高のお部屋を選んでもらいたいの」
「謹んでお引き受けいたします」
颯は深く頭を下げた。立ち上がるとき自分の声が震えていたのを婦人は気付かなかった。それで良いと彼は思った。
通用口の自動ドアが閉まる。雪のちらつく中に消えていく彼女の背中を、颯はガラス越しに見送った。客の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けるのが白鶴館の作法だった。
婦人を見送ったあと、颯はカウンターに戻り業務記録ノートに小さく書いた。
「山下八重子様 御退館 七時十二分 お見送りまで」
それから手帳を開き、ヒストリーノートの該当頁に新しい一行を加えた。
「ご家族様 次回ご来館予定 お部屋は七階南東角部屋ご指定」
書きながら颯の指は微かに震えていた。八年間の業務の中で、最後のチェックアウトを承る場面は二百三十六回目だった。彼は数を覚えていた。覚えなくては失礼だと思っていた。
高橋がそっと隣に立った。
「白川さん、また増えたね」
「はい」
「あなたの数字、本社に提出すれば評価されると思うけどね」
「数えるのは私のためでございますので」
高橋は何か言いかけてやめた。
九時十五分。同僚の宮地翔が出社した。
二十八歳。有名大学卒のエリート意識を隠さない。スーツは颯の倍の値段。ネクタイは細身。颯のヒストリーノートを以前「時代遅れの根性論」と笑った男だった。
「白川さん、今朝の山下さん、随分長く話してたね」
「お見送りでございました」
「うちはコンプライアンス強化中だよ。お客様の私的な事情に踏み込むのは情報管理上のリスクなんだよ」
「申し訳ございません」
「あんたのそのノートさ、本社が見たら問題になるよ。個人情報の私的記録だから」
颯は頭を下げた。何度も飲み込んできた言葉だった。
奥のバックヤードで先輩の高橋がそっと囁いた。
「白川さん、気にしなくていいよ。あの人、山下さんの遺族から礼の電話が来たら自分の手柄にする気だよ」
「お役目でございますので」
「なんで怒らないの」
「怒っても部屋は売れません」
高橋は黙って肩をすくめた。
昼過ぎ、人事部から面談の呼び出しがあった。
応接室。人事部長の隣に宮地が座っていた。
「白川さん、来期の昇進候補から外れることが決まりました。これで三度目になりますね」
颯の指が一瞬冷えた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「現場の数字は良いんです。ただね、リーダーシップというか、何というか、華が」
言葉を選ぶ部長の横で宮地が薄く笑った。
「白川さんはアサインだけ超一流ですから。現場のいち作業者として残ってもらえれば十分です」
部屋に細い空気が走った。
アサインだけ。その単語が颯の耳の奥に残った。
「承知しました。引き続き精進いたします」
頭を下げて応接室を出る。背筋は応接室を出るまで伸ばしたまま。地下のロッカーで扉を閉めて初めて、颯は深く息を吐いた。
ロッカーの扉の裏に貼ってある母の白黒写真を見つめる。
「お母さん、今日も叱られました」
誰にも届かない声でつぶやいた。
「私如きが、と言われ続けて八年です」
遺影は答えない。けれども写真の中の母は、八年間ずっと同じ笑みのままだった。
夕方、天気予報が変わった。
暴風雪警報。羽田と新幹線が次々に運休していく。ロビーには傘を畳む間もない客が押し寄せた。
宮地は「自分は会議があるから」と五時前に消えた。フロント支配人代理も体調不良で早退。夜のロビーは颯が指揮を取ることになった。
彼の手は普段の業務と同じだった。けれども目だけが普段と違って爛々と動いていた。
「白川主任、ロビーにお客様三十名以上残ってます」
「承知。トリアージから始めます。ご予約のお客様を優先。お子様連れと高齢者を別ソファへ。代替宿の手配を私が直接動きます」
彼は四つのレジを稼働させ、全スタッフに役割を振った。協力ホテル五軒の在庫を電話で押さえた。タクシーを十二台手配した。傘を二十本用意した。誰一人路頭に迷わせなかった。
二十時を回った頃、ロビーで一つの問題が起きた。年配の男性客が予約を巡ってカウンターに詰め寄った。彼の口調は荒く、周囲の客が振り向いた。
「俺の予約が取れてないってどういうことだ」
「お客様、ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「藤崎健司」
颯は素早く検索した。藤崎健司の予約はなかった。電話番号でも確認した。なかった。
「藤崎様、誠に申し訳ございません。当ホテルでのご予約記録を確認できませんでした。他の宿泊予約サイトからのご予約でいらっしゃいましたか」
「うちの秘書が取った。そんなの俺が知るか」
「秘書様にご連絡を取っていただくことは可能でしょうか」
「もう寝てる。お前が何とかしろ」
声が荒くなった。颯の表情は変わらなかった。
「藤崎様、本日のお部屋は満室でございます。お困りでいらっしゃいますね。当ホテルでお手配できる代替のご宿泊先を、今すぐお調べいたします」
「金は出さないからな」
「お代は当ホテルで責任を持たせていただきます」
言い切った。本来なら支配人決裁の案件だった。けれども支配人代理は不在で、彼が代理を引き受けていた。
二十分後、颯は協力ホテルに藤崎の部屋を押さえ、タクシーを呼び、領収書を先に切ってあった。男は不機嫌な顔のまま雪の中へと去った。
高橋が小さく息を吐いた。
「あれを断らないんですか」
「断ることは誰でもできます」
「白川さんは違いますね」
「私は受ける役目です」
颯はそれだけ言って次の客に向き直った。
二十二時を過ぎてロビーがようやく静まった頃、彼は深夜の番に残っていた。
宿泊客の老夫婦が彼に紅茶を運んだ礼を言った。
「白川さん、あなたみたいな方が、なぜ表彰されないのかね」
「お役目でございますので」
「あなたのご両親はあなたを誇るでしょう」
颯は深く頭を下げた。父は早くに亡くなっていた。母も十二年前に。誰も彼を誇る人はもう残っていなかった。
二十三時五十八分。
ロビーの空気が変わった。
空気の温度ではなく質量が変わった気がした。鼻の奥に古い紙のような匂いが届いた。
颯は顔を上げた。
誰もいないはずのロビーの中央に、一人の客が立っていた。
いつ入ってきたのか分からない。自動ドアの音はしなかった。黒の旅装にフードを目深に被り、肩に古い形の革鞄。背は中肉中背。
颯はカウンターから身を乗り出した。
「ようこそお越しくださいました」
客は静かに頷いてカウンターの前に立った。フードの下から若い女性の顔が覗いた。二十歳前後。瞳がわずかに紫を帯びていた。
「予約しています。ラフィエルの名で」
言葉に違和感はなかった。けれども発音がどこか古かった。
颯は予約システムを開いた。検索ヒット。一件あった。
チェックイン日が今日の日付。予約者名アルファベット表記「LEIANA VON RAFIEL」。
部屋は最上階のスイート。一八〇一号室。前金が振り込まれている。
「お部屋のご準備ができております。失礼ですがパスポートを拝見してもよろしいでしょうか」
女性は鞄から一冊の手帳を取り出した。革張りの古い装丁。中の文字は颯が見たことのない言語だった。
彼は一瞬戸惑った。けれどもすぐに笑顔を作った。前金が払われていて、システム上問題が無いなら、彼の役目は迎え入れることだった。
「拝見いたしました。ありがとうございます」
形式上の礼をしてカードキーを作成した。革のキーホルダーに収めて両手で差し出した。
「ようこそお越しくださいました。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
女性の指がキーに触れた瞬間、ロビーの照明が一斉に瞬いた。
ぱちん、と空気が裂ける音がした。
颯の視界が真っ白になった。
最後に聞こえたのは女性の声だった。
「あなたを呼んだのは、私です」
胸ポケットの中で、ヒストリーノートが微かに熱を帯びた気がした。
目を開けたとき、最初に見えたのは見たことのない天井だった。
石造りの天井だった。梁が古い樫で組まれ表面に細かな彫刻が施されている。中世の城郭建築でしか見たことのない様式。光は天井の高い縦長の窓から差し込み、埃の舞う空気を黄金色に染めていた。
寝かされている寝台は四柱式で絹の天蓋がかかっていた。シーツは麻織り。けれども肌触りが極上だった。
颯は身体を起こした。着ている服が違っていた。麻と亜麻の白い貫頭衣の上に濃紺の上着。袖口に金糸の刺繍。中世風の役人の装い。
手を見た。皺が浅くなっていた。鏡の中の自分は二十代後半に若返っていた。
胸ポケットに手を当てた。ヒストリーノートはそこにあった。
革の手帳は、彼が地球で書き続けた八年間の記録を、一字も損なわずに、新しい世界に持ち込まれていた。




