Prison of the Mind
セーフハウスから外に出た瞬間、汐路は顔を青くして口元を押さえた。
周囲に散乱する、百を超えるゴブリンやオークの死体。そこから立ち上る、鼻を突くような血と脂の匂い。
咽せ返るほどの「死の臭気」が、容赦なく五感を支配してくる。
「棗、あんた……こんな臭いの中で、よく平気でご飯が食べられるわね……」
「そりゃ食欲が失せるような匂いだが、仕方ねぇだろ。セーフハウスに引っ込んで飯を食う間、誰が周囲を警戒する? アタシらは華音の能力があるから快適に暮らせてるが、開拓村の中でさえ似たようなもんだぞ。これから先ずっとアタシらと居るのか、それとも独立するのかは知らねぇが、汐路もこの程度には慣れておいた方がいい。」
そう言いながら、棗は折り畳みテーブルに並んだ卵焼きをひと切れ指でつまみ、口に放り込んだが、次の瞬間、その目を見開いた。
アメリカ育ちの棗にとって、卵に砂糖を入れるという概念は存在しなかった。家庭を顧みなかった実の両親がよこすのはデリバリーのジャンクフードばかり。そして、テキサスで温かい食事を用意してくれたボブの料理は、こてこてのアメリカ南部飯だ。
日本に帰国して高校へ入学してからは、一人暮らしでの三食バーガー生活を経て、彼女の健康を心配した華音やマコが食事を作ってくれるようになった。その際、食卓に出汁の効いた卵焼きが出ることはあっても、砂糖の入った甘い卵焼きが出たことは一度もなかったのだ。
「おい、汐路。てめぇもアタシと同じで料理が苦手だな? 塩と砂糖を間違えてやがる。この卵焼き、やたら甘いぞ。」
「え? 棗、それ本気で言ってるの……? 卵焼きに砂糖を入れるなんて、日本では普通でしょ?」
心底心外だと言わんばかりの汐路の反論に、棗は怪訝な顔で華音とマコへ視線を向けた。
「あはは、うん。甘い卵焼きが好きな人って結構いるよねー。私は断然、お出汁派だけど。マコちゃんもそうだよね?」
「う、うん。なっ、なっちゃんがアメリカ育ちだってのは聞いてたから……。甘い卵焼きは作らなかった。」
隣に座るマコが、小さく、だがどこか誇らしげに頷く。
マコと華音の二人が甘い卵焼きという料理の存在を肯定したため、棗はこれが失敗作ではなく『そういう仕様』なのだと理解した。だが、日頃からスパイスとチーズがこれでもかと主張する南部飯に慣れている身としては、どうしてもこの甘さを『出来損ないのプティング』のように感じてしまう。
「そうか、甘い卵焼きは普通なのか……。ってこたぁ、汐路も料理が苦手ってわけじゃねぇんだな。アタシだけかよ、からっきしなのは」
「苦手なわけないでしょ。鶏の唐揚げだってお味噌汁だって、ちゃんと美味しく作れてるんだから。」
「確かにな。アタシは一瞬、この唐揚げも毒見しねぇとヤバいんじゃねぇかって警戒しちまったぜ。」
苦笑混じりにそう言うと、棗は海苔の巻かれていない、真っ白なおにぎりを一つ手に取って口に運んだ。しかし、またしてもその眉が深く潜められる。
「……おい、この具のねぇおにぎりも、中身の入れ忘れってわけじゃぁねぇんだろ?」
今度は汐路が口を開くより早く、華音が楽しげに答えた。
「なっちゃん、それは塩おにぎりだよ。素朴な味が好きな人が好んだり、お米そのものが良いときにあえてそうして食べたりするの。」
「なっ、なっちゃんには、こっちの海苔が巻いてある方が良いと思う……っ。しゃけおにぎりと、シーチキンマヨだから。」
マコはそう言って、棗の前にそっと別の皿を差し出した。
やっぱり、棗の好みを一番分かっているのは自分だ。汐路の料理に戸惑う棗の姿を見て、マコの胸のざわつきは、完全に心地よい優越感へと昇華されていた。
「しっかし、あれだな。この味噌汁ってのは最高のペアリングだ。甘みのある米や卵焼き、そういうもんにこのスープがねぇと、締まりがねぇな。」
鮭おにぎりを齧り、味噌汁をズズッと啜りながら棗が言った。
棗の故郷の味であるテクスメクスなどの南部飯は、肉汁滴るジューシーな肉に、これでもかと濃厚なチーズを絡めるものが多い。それゆえに、口の中の油分を洗い流すペアリングとして好まれるのは、ビールなどのアルコール、あるいはドクターペッパーやヴァージン・モヒートといった強烈な甘みと刺激を持つ炭酸飲料だった。
日本人からすれば、食事中にあの独特な甘さのドクターペッパーを飲むなど正気の沙汰とは思えないかもしれない。だが、濃度の高い塩気と脂で焼き切られた舌をリフレッシュするには、それ相応にパンチのある甘みと酸味が必要なのだ。
対して、この日本食というシステムは、おかずの甘みや塩気を、白い米の甘みで受け止め、最後に発酵調味料の塊である味噌汁の塩気と旨味で綺麗にリセットする。
ドクターペッパーで強引に洗い流すのとは違う。
味噌汁というスープを挟むことで、次のひと口がさらに美味くなる。
「 なっちゃん。和食の基本は三角食べなんだよ。」
華音が我が事のように得意げに胸を張る。
「……まぁ、悪くねぇな。汐路、さっきは料理が苦手なんて言って悪かった。このスープと唐揚げはアタシの口にも合うぜ。」
「スープじゃなくてお味噌汁ね。……まぁ、気に入ってくれたならいいけど。」
「やっぱり唐揚げにはマヨネーズだよねー。なっちゃん、使う?」
「あん? アタシはいい。こっちのBBQソースで十分だ。」
「なっ、なっちゃん、おにぎりもう一個食べる? 鮭おかわりあるよ。」
「おう、もらうわ。」
死臭の漂う異世界の荒野で、折り畳みテーブルを囲む四人の少女たち。
それは客観的に見ればあまりにも異常で、同時にどこか温かい、彼女たちだけの日常の光景だった。
彼女たちはまだ知らない。
自分たちがこの世界に転移してきた際、あの女神を名乗る存在から受け取ったサポートの恩恵――その対価が、すでに彼女たちの精神を静かに蝕み始めていることを。
異世界を生き抜くために、女神は彼女たちに能力を与え、最適化を施した。
それは本来、敵の命を奪うことによる精神的な負荷から彼女たちを守るために施されたものであり、棗自身も『ナイスなサポート』程度に捉え、深く考えることもしなかった恩恵だ。
だが、精神的な負荷を軽減するというのは、元の感情を別の何かで上塗りするか、停止させるか、あるいは鈍化させることに他ならない。
その歪みが最も顕著に表れているのが、棗とマコだった。
転移者全員に一律でかけられたその精神補正によって、もともと精神的に脆かったマコは、棗と華音への『依存と執着』を強烈に増幅されていた。日本にいた頃から、二人のいる場所だけが自分の居場所であり世界だった、閉ざされた狭い空間で生きていたマコは、二人への依存と執着しか持ち得ていなかったからだ。
一方の棗はというと、もとより実銃社会で育っているため、銃を発砲することや敵を撃ち殺すことへの躊躇などハナからなかった。それゆえに、精神を守るための補正システムは、彼女の『戦い、生き抜くための能力』そのものを過剰に最適化し始めた。
冷徹な戦闘ドクトリン。
棗には、彼女の人生の中で最も戦いと直結していた記憶を、強力にブーストする形で固定化したのだ。
それこそが、テキサス。
最近、棗たちの食卓にアメリカ南部料理やテクスメクスが異常な頻度で並ぶようになっていたのも、決して単なる棗の偏食のせいではない。
棗の精神は、女神のサポートシステムによって、今なおあの荒々しいテキサスの大地に、そしてそこで培われた『テキサス・ドクトリン』に強く囚われ続けている。
あらゆる状況を冷徹なロジックで切り分け、ドクトリンを絶対の基準として行動を最適化する。
だが、恐ろしいのは、その異常性に誰も気がつけないことだった。
棗を誰よりも観察し、その全てを肯定するマコも。
棗を親友として信頼し、寄り添う華音も。
客観的な視点を持ち、棗の行動を一般人の倫理から予測できるはずの汐路でさえも。
「物騒でシンプルな、アメリカ育ちの棗なら、こういう行動をするのが当たり前」
誰もがそう納得し、誰も疑問を抱かない。女神のサポートがもたらす認知の歪みは、彼女たちの絆の深さすらも利用して、棗の変質を完璧に日常のなかに隠蔽していた。
当の棗本人すらも、自分がドクトリンとロジックという名の目に見えない強迫観念に縛られ、テキサスという過去の檻から一歩も出られていないという事実に、微塵も気づいてはいなかった。
「……ん? どうした汐路、アタシの顔になんか付いてるか?」
鮭おにぎりを咀嚼しながら、不意に視線を向けてきた棗に、汐路はハッと我に返って首を振る。
「ううん、なんでもない。……棗、お味噌汁、おかわりあるからね」
「おう、ありがとよ」
やっと企画段階から温め1話の時点から違和感をだしたりミスリードさせるための表現をいれていたものを出せませた。
棗が異常にテキサスやアメリカ南部文化に拘る や、マコが棗にやたら懐いているシーンを多く書くために物語の進行がゆっくりとなってました。
マコが棗や華音に執着し依存する という強化をされているということを踏まえると序盤のほほえましい3人もしくは4人のやり取りもゾっとするような部分があります。
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