放課後の『平穏』と、赤き脅威
学園の敷地は広い。それは単なる学び舎ではなく、有事の際には外敵に対抗するための強固な要塞としての機能をも有しているからだ。そのため、生徒たちが暮らす第一級寄宿舎「白亜寮」へ続く遊歩道は、手入れの行き届いた美しい森林に囲まれていた。
皇室という、幾重もの結界と精鋭の近衛騎士団に守られた絶対安全の檻。そこから、この自然豊かな学園の寮へと生活の拠点を移したことは、焔光にとって些かな解放感をもたらしていた。
だが、それは同時に、「警護の密度が物理的に薄くなる」という事と同義でもあった。
「はぁ……。初日からどっと疲れました。お兄ちゃん、やっぱりあのノアって子、距離が近すぎます!」
放課後、夕日が木々の隙間から赤橙色の光を投げかける遊歩道を歩きながら、風花がぷんぷんと頬を膨らませていた。
「まあまあ。ノアは修行時代からの付き合いだし、妹弟子だし、悪気はないんだよ。それより風花、寮の部屋割りはもう確認したかい?」
焔光が苦笑しながら宥めると、風花は一瞬で表情を輝かせ、両手を胸の前で組んだ。
「はい! 本当はお兄ちゃんと同じお部屋が良かったのですけれど、流言飛語を気にした織姫叔母様(学園長)に却下されてしまいました……。でも、お兄ちゃんの隣の棟ですから、毎朝私が起こしに行きますね!」
「あはは……。ミーナや孔明もいるから、そんなに張り切らなくても大丈夫だよ」
二人の数歩後ろを歩く専属侍女のミーナと、専属執事の孔明は、完璧な主従の距離感を保ちながら、周囲の「気」の揺らぎを完全に遮断して気配を消している。学園の敷地内、それも寮への遊歩道。一見すれば、これ以上ない平和な放園風景だった。
――だが。
その平穏は、突如として空間を裂いた不吉な「咆哮」によって破られた。
「グルゥゥゥ、ガァッ!!」
突如として、前方の茂みが激しく揺れ、赤黒い皮膚を持った人型の魔獣が躍り出てきた。
ぎらつく黄色い眼球に、だらりと垂れた涎。一般のゴブリンとは一線を画す巨体と、その身に纏う禍々しい魔力。
「――『レッドゴブリン』!?」
風花が鋭く息を呑む。
それも一体ではない。左右の森林、さらには後方の退路を塞ぐように、次々と赤い影が這い出てくる。その数、優に三十を超えていた。
「どうして学園の結界内に魔獣が……!? それに、この数は異常よ!」
風花が即座に戦闘態勢を取り、その華奢な身体から天災級の「風」の気が立ち上る。
本来なら、皇国の警察機構や宮廷府の治安維持部隊が事前に察知するはずの規模だ。しかし、ここは皇宮から離れた学園の盲点。何者かが意図的に結界を緩め、皇室産まれの「次世代の希望」である風花やついで?に焔光を狙って警護の隙を突いた――そう考えるのが自然だった。
(……やれやれ。次男の烈真派閥か、それとも宮廷府の反発派仕込みか。とにかく初日からやってくれるね)
焔光は内心で深いため息をついた。
ここで風花が本気を出せば、この程度の魔獣の群れは一網打尽にできるだろう。だが、戦闘に馴れてない風花は、まだ力のコントロールが弱い、このままだと周囲の自然は吹き飛び、大騒ぎになる。また、風花の力が正式に公になり中央の政治劇に巻き込まれる燃料になりかねない。
「お兄ちゃん、下がっていて! 風花がみんな切り刻んで――」
「待って、風花。僕の後ろに」
「え……?」
風花が風の刃を形成しようとした瞬間、焔光はシレッとした顔で妹の前に一歩踏み出した。その足取りには微塵の緊張感もない。
「こんなこともあろうかと、おばあ様(皇后)から貰った特別な魔導具のスクロール(巻物)を懐に忍ばせておいたんだ。ちょうどいい、ここで使ってみよう」
「えっ!? 大丈夫?お兄ちゃん!隠蔽…」
当然、そんな巻物は存在しない。全ては「平凡な力しか持たない期待外れ皇子」が、たまたま強力なアイテムを使って窮地を脱したという『言い訳』のための嘘だった。
焔光は懐から、適当な白紙の紙切れをさっと取り出し、前方へ掲げる。
その瞬間、彼の脳裏では、二大英傑――『剣聖』一ノ瀬瞬と、『鍛神』千手破岩から叩き込まれた規格外の技術が、一瞬で演算されていた。
(周囲に他の生徒の気配はなし。言い訳も用意したし、問題ないよな!)
「光よ、集え。――「光弾」」
焔光が小さく呟くと、彼の周囲に十数個の淡い光の球が浮かび上がった。
学園の評価では「出力は石礫程度」と蔑まれている、彼の第一ギフト「光」。だが、次の瞬間、焔光の第二ギフト「無」の絶技――四大英傑と同じギフトや技術を同等以上に扱えるチート能力が、その光弾に上書きされた。
『鍛神』の技術――相手のギフトや魔力を無効化し、空間の気流を完全に掌握する力。
『剣聖』の技術――一太刀で大軍を屠る、絶対的な指向性と鋭利な一撃の乗せ方。
淡かったはずの光弾が、空間の「気」を吸い込み、限界まで超圧縮されていく。それはもはや、光の形をした「極小の質量兵器」だった。
「グルガッ!?」
危機を察知したレッドゴブリンの群れが一斉に飛びかかってくる。
だが、それよりも早く。
焔光は掲げた紙切れを、さも「これが発動キーだ」と言わんばかりにペラリと指先で弾いた。
――シュッ。
極小の音。爆発音も、眩い閃光もない。
放たれた十数発の光弾は、精密な制御能力によって、寸分の狂いもなくレッドゴブリンたちの眉間へと吸い込まれていった。破壊音すら起きない。
光弾が着弾した瞬間、レッドゴブリンたちの肉体は、当たった時の衝撃を「消滅」の領域まで調整された光によって、細胞一つ残さず、静かに、そして完全に掻き消されたのだ。空間の歪みに吸い込まれるように、三十体以上の巨体が、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、一瞬で「無」へと還る。
遊歩道に、再び静寂が戻った。
折れた木の枝一つなく、焦げ跡一つない。ただ、魔獣の群れだけが綺麗さっぱり消え去っていた。何も起きなかったかのように…
「……あれ? お兄ちゃん、今のは……?」
風花が、狐につままれたような顔で周囲を見回す。彼女の卓越した風の感覚を以てしても、何が起きたのか正確には感知できなかった。ただ、一瞬だけ、世界の法則が書き換わったかのような、圧倒的な『神域の気』を感じただけだ。
「すごいね、おばあ様のスクロール。一瞬で魔獣をどこかの亜空間に転移させて、消滅させちゃうなんて。やっぱり皇室の秘宝は格が違うなぁ」
焔光は、冷や汗一つかいていない顔で、手元で灰になった(自分で気の摩擦で燃やした)紙切れを見つめて微笑んだ。
「さ、さすがは皇后様の贈り物です……? お兄ちゃんが無事で本当によかった!」
ピュアな風花は、大好きな兄がそう言うなら、そう言う事と信じ込み、その胸に飛び込んだ。
「もう、びっくりさせないでください、お兄ちゃん。風花、心臓が止まるかと思いました!」
「はは、ごめんごめん。でも、これで平穏に寮へ帰れるね」
風花の頭を優しく撫でながら、焔光は背後の主従に視線を送った。
ミーナと孔明は、主の完璧すぎる「シレッとした解決劇」に、深く、そして畏怖を込めて一礼していた。彼らは知っている。今の攻撃が、スクロールなどではなく、焔光自身の規格外の【絶技】によるものだということを。
「孔明。宮廷府や学園の警備陣が来る前に、ここの「気の残滓」を闇で塗り潰しておいてくれ。それとミーナ、結界の綻びの調査を裏で朧さんに回して」
「御意に」
焔光の影に隠れるように、孔明の【闇】が遊歩道の一切の痕跡を完全に消去していく。
「さあ、風花。夕ご飯の前に、寮の食堂のメニューを見に行こうか」
「はい! お兄ちゃん!」
世界最強の力を隠した「期待外れ皇子」にとっては、ただの放課後の退屈なトラブルの一つに過ぎ無かったかのように、歩き出す二人。
その日の夜。
学園長室の窓辺から、遊歩道の方角を見つめていたオリヴィア(織姫)は、手元の書類に目を落としながら、ふっと妖艶な笑みを浮かべた。
彼女のギフト「風」と「無(空間把握)」は、敷地内のすべての出来事を網羅している。
「あらあら……。あの子ったら、あんなに綺麗に片付けちゃって。さすがは勇帝と聖なる巫女の遺児ね。誰も傷つけず、地形も壊さず、完全に「なかったこと」にするなんて、英傑たちも青くなるわ」
彼女は、クシャクシャの煙草を噛みながら部屋に入ってきたエドガーに視線を移す。
「エドガー。明日からの授業、あの子が『期待外れ』の枠からはみ出さないよう、上手く調整してちょうだいね?」
「……へいへい。人使いの荒い学園長だ。まぁ、あの規格外の坊ちゃんが本気を出して学園が消し飛ばすよりは、俺が裏で泥を被る方がマシですかね」
エドガーはダルそうに、だがその瞳の奥に確かな期待を宿して、夜の学園を見下ろすのだった。




