東の夜と船旅前
東辺境伯邸に夜の帳が下りる頃、昼間の騒がしさが嘘のように、要塞は静まり返っていた。
蒼真に割り当てられた一室の扉が、静かに開く。入ってきたのは、気弱な期待外れ皇子の仮面を外した、冷徹な光を瞳に宿す焔光だった。
「父上」
「焔光か。どうした、こんな夜更けに」
蒼真が振り返るのと同時だった。部屋の隅の影が不自然に伸び、揺らめいたかと思うと、一人の黒衣の男が姿を現す。皇宮直属特務機関「鵺」、大部分のメンバは、かつて勇帝が率いた白鳳天翼騎士団の生き残りだ。
男は無言で一礼すると、瞬時に両手を合わせる。闇属性の隠遁術と因果遮断の絶技が組み合わさり、部屋全体を覆う強固な遮断結界が静かに展開された。これで外からの盗聴や、あらゆるギフトによる探知は無力化される。
「……ありがとう。助かるよ」
焔光が短く告げると、鵺の構成員は再び影へと溶け込むように姿を消した。完全に気配が遮断されたことを確認し、焔光は蒼真に向き直る。
「父上。昼間、イゴールさんの後ろにいた財閥の特別顧問――マルキ・ド・サレについてです」
「何か気づいたか? 確かにあの男の周囲だけ、東辺境伯家の人間たちの態度が不自然だったが……」
「あれは人間ではありません。僕が気流を読んだところ、男の体表から立ち上っていたのは独特の濁流――あれは【魔人】の気です」
「な、何だと……!?」
蒼真の端正な顔が驚愕に染まる。
「魔人の生き残りだと……? 没落したはずの魔王の残党が、財閥の顧問に化けて辺境伯家に潜り込んでいるというのか」
「はい。おそらく、イゴールさんの異常な財閥狂信も、あの魔人が放つ精神干渉の術式によるものです。イザーク辺境伯が強く出られないのも、弟を人質に取られているような状態だからでしょう」
蒼真は深く息を吐き、自らの顎に手を当てた。
「なるほどな……。メディチス財閥の背後にはエイシン国がいる。そしてその利権の網のさらに奥底には、魔人までもが根を張っていたわけか。東辺境伯領の浸食は、想像以上に深刻だ。しかも、まだ隣国の陰謀までなら、あくまで皇国の問題でおさめられるが、世界を崩壊の危機に晒した魔人が関わるとなれば、場合によっては、人類の問題になる可能性がある!焔光、このことはまだ誰にも――」
「わかっています。僕が知っているとバレれば、僕自身の「力」の隠蔽も崩れますからね。表立っての手出しは慎みますが、あちらの動向は僕のやり方で探らせてもらいます」
期待外れを演じる少年は、不敵な笑みを浮かべた。
同じ頃、東辺境伯邸の敷地内にある別の建物――ヴァルハイト家の本邸には、冷たい圧力をまとった一人の男が訪れていた。
「剣聖」一ノ瀬 瞬。
昼間の不敬騒動を受け、ゲオルグとエレノアの夫婦は、実家の奥にアルベールを軟禁したまま、怒りと焦燥で部屋を右往左往していた。そこへ足音もなく現れた瞬の姿に、ゲオルグは救いを求めるように縋り付く。
「瞬! よく来てくれた! 昼間のことは本当にすまなかった。だが、お前からも蒼真殿下にさらに執り成してはくれないか? ヴァルハイト家が没落すれば、お前の母親の面目も――」
「勘違いするな」
瞬の声は、極夜の氷原よりも冷たかった。一瞬にしてゲオルグの言葉が凍りつく。
「俺が頭を下げたのは、これ以上身内が醜態を晒して皇国の法を汚すのが我慢ならなかったからだ。それと……一つ、警告に来てやった」
瞬は一歩進み出ると、ゲオルグの胸ぐらを掴むほどの至近距離で、鋭い眼光を突き刺した。
「二度と、俺の名を後ろ盾として騙るな。お前たちが烈真の派閥に魂を売ろうが、財閥の犬になろうが俺の知ったことではない。だが、俺の身内の名を騙って中央に吠え、挙句の果てに皇族へ不敬を働くなら――次はお前たちの甥であるこの俺が、ヴァルハイトの家ごと一太刀で叩き斬る」
「ひ、っ……!」
英傑が放つ本物の殺気に、軍事統括であるはずのゲオルグが、情けなく腰を抜かして床にへたり込んだ。奥で実の甥さえ居ればと虎の威を借り、狂気的な表情を浮かべていたエレノアも、瞬の圧倒的な気の前に言葉を失い、ガタガタと震えるしかなかった。
「アルベールの件もそうだ。あれは自業自得だ。これ以上、俺の愛弟子(焔光)にちょっかいを出してみろ……お前たち、本当に命がなくなるぞ。冷静に考えてみろ、剣聖の愛弟子に喧嘩を売るって事が何を意味するか?しかも皇族だぞ。」
瞬はそう言い残すと、振り返ることもなく漆黒の闇の中へと消え去った。彼が言った「命がなくなる」の真意が、自分ではなく焔光の手によるものであることを、ゲオルグたちが知る由もなかった。
一方、蒼真の部屋を退室した焔光は、自分の部屋に戻る……ふりをして、そのまま廊下の影へと足を踏み入れていた。
(さて、魔人さんが夜中にどんな悪巧みをしているか、ちょっと覗いてみようか)
焔光が軽く指を振ると、無属性の亜空間が発動する。空間がぐにゃりと歪み、彼の身体は現実世界から完全に切り離された亜空間へと滑り込んだ。
姿も、音も、気配も、この世界のあらゆる物理法則から隔離された状態で、焔光は壁を透過するようにしてマルキ・ド・サレの執務室へと侵入する。
部屋の中では、サレと政務長のルシアン・バルテルが、机の上の海図を囲んで最後の詰めを行っていた。
「――間違いありませんね、サレ殿。明後日、蒼真一行は聖域へと船を出す。東辺境伯の公用船ですが、乗り込む騎士の数は限られている。そして剣聖には警備の都合と言う事にして別の船に乗船して貰う」
「ええ、ルシアン。こちらの私兵と、エイシン国から送り込まれた隠密部隊、更にメディチス研究所で飼い慣らした魔獣(魔魚)と金で雇った海賊を、海域の難所である「鳴門の渦帯」に潜伏させてあります。船の足が鈍ったところを、海賊と偽装し、数で圧倒して、蒼真もろともあの「期待外れ皇子」を海の藻屑にして差し上げましょう。なあに、剣聖と言えど船の上では力も十分発揮できまい」
サレが不気味な笑みを浮かべ、机の上の書状に、エイシン国の最高機密印が押された強襲計画書を叩いた。そこには襲撃の配置図、不審船の偽造通行証の番号までが克明に記されている。
「すべて、海域の魔獣の暴走、あるいは、今回の騒動で海域の警備に隙が出来たということにすれば中央も文句は言えまい。フフフ……」
二人は完璧な計画だと信じて疑わず、邪悪な笑みを浮かべていた。
まさか、その机の真横、わずか数十センチの亜空間に、当の「期待外れ皇子」がシレッと立って内容を熟読しているとは夢にも思わずに。
(なるほどね。次の船旅で僕たちをまとめて暗殺する計画か。ご丁寧に証拠の書類まで用意してくれて、助かるな)
焔光は亜空間の隙間から、実体化した手をごくわずかに伸ばした。サレたちが海図に目を落とした一瞬の隙を突き、机の端に置かれていた「エイシン国の最高機密印が押された予備の強襲計画書」と「偽造通行証の控え」を、音もなく亜空間へと引き込む。
書類が消失したことすら気づかないマヌケな陰謀者たちを置き去りにし、焔光はそのまま空間を転移して、自身の部屋へと戻った。
「ふぅ、これで明後日の仕掛けの準備はできたな。あとは瞬師匠と蒼天碧流騎士団、書類はジーク叔父様の手柄って事にでもしておけば――」
自室のベッドに腰掛け、手に入れた書類を亜空間の格納庫へ仕舞い込んだその時、トントン、と部屋の扉が静かに叩かれた。
「焔光、起きているかしら?」
鈴の鳴るような、しかしどこか艶っぽい声。扉を開けると、そこには寝間着の上に薄い羽織を引っ掛けた姉弟子、神楽 凍華が立っていた。月光に照らされた彼女の氷色の髪が、妖しく輝いている。
「凍華お姉ちゃん? こんな夜更けにどうしたの?」
「ふふ、どうしたの、じゃないわよ。学園ではノエル(大賢)様があなたにベタベタ張り付いているし、家に戻れば風花ちゃんが「お兄ちゃん泥棒!」って凄い勢いで威圧してくるでしょう?」
凍華はシレッと焔光の部屋に滑り込み、当然のように椅子に深く腰掛けた。
「今なら、あの恐ろしい世界最強の泥棒猫も、ブラコン全開の可愛い妹(風花)もいないわ。つまり、私とあなただけで、ゆっくりお話しできる唯一のチャンスって訳!❤」
「あはは……相変わらずだね」
苦笑する焔光だが、3年間、血の滲むような修行を共にしてきた姉弟子との時間は心地よかった。凍華は「聖域に戻ったら、源馬の叔父上がきっと喜ぶわよ。」「時間出来たら聖域を案内してあげるからね❤」などと、聖域の事や、昔の思い出話を弾ませる。
だが、そんな姉弟子の微笑ましい「お兄ちゃん争奪戦の番外編」が展開されている部屋の、ちょうど真下の庭園では――全く微笑ましくない、トチ狂った惨劇が幕を開けようとしていた。
「おい、本当にやるのか……相手は皇族だぞ」
「黙れ! ゲオルグ様もエレノア様も、あの期待外れのせいで大恥をかかされたんだ! アルベール様の仇を討ち、期待外れを暗殺すれば、我らヴァルハイトの私兵が中央での烈真様の復権の足がかりになる!」
瞬からの凄まじい警告を受け、恐怖のあまり精神を崩壊させたゲオルグ夫妻。その狂気に当てられた、ヴァルハイト家のトチ狂った私兵数名が、独断で焔光の命を狙い、夜闇に乗じて東辺境伯邸の庭園へと侵入していたのだ。
彼らは抜いた短剣に毒を塗り、焔光の部屋へと近づいていく。
だが、彼らは致命的なまでに知らなかった。
この期待外れ皇子の周囲には、世界最高峰のスペシャリスト集団、皇宮直属特務機関「鵺」の精鋭たちが、二十重三十重に影を潜めているという事を。
「――愚者め。」
冷酷な、地声ともつかぬ声が闇から響いた。
「な、誰だ!?」
私兵が振り返るよりも早く、彼らの影が意志を持った蛇のように跳ね上がり、その肉体を拘束した。
「不敬の次は、夜襲による暗殺未遂か。ヴァルハイトの犬どもめ、分を弁えよ」
闇属性のギフトを持つ「鵺」の構成員たちが、音もなく影から這い出る。
「が、あ……っ!?」
抵抗の声を上げる暇すら与えられない。鵺の因果遮断の結界により、骨が砕ける音も、肉が引き裂かれる音も、悲鳴の一切すらも外界へは漏れ聞こえない。
わずか数十秒。トチ狂った私兵数名は、声を上げることも、自らのギフトを発動することすら叶わず、鵺の圧倒的な隠密戦闘能力によってアッサリと撃退され、文字通り「塵」となって闇の底へと処理されていった。
上の部屋では、そんな凄惨な駆除が行われていることなど露知らず(焔光は微かな気の消滅でシレッと気づいていたが)、凍華が嬉しそうに微笑んでいた。
「明後日からの船旅、楽しみね、焔光。あなたの短槍の腕前、また見せて頂戴?」
「うん、頑張るよ、凍華お姉ちゃん」
迫り来る魔人の陰謀も、トチ狂った親戚の暴走も、この少年にとってはすべて想定の範疇に過ぎないのかもしれない。




