揺り籠の平和と犬猿の仲
少し長めです
—焔光が、父・蒼真と共に東の交易権確認のため「東方の聖域・始祖の島」へと旅立ってから、数日の時が流れていた。
聖アウグスト皇立魔導武官学園は、焔光がいないお陰か、表面上は実に平穏な空気に包まれていた。
何より、朝の登校風景からして劇的に違っていた。毎朝のように繰り広げられていた、「大賢」エミール・ノエルと、双子の妹である風花による、焔光を巡る壮絶なる腕の引っ張り合い、およびそれに伴う凄まじい風と光の火花が、今は綺麗さっぱり消失している。学園の廊下のガラス窓がピキピキと音を立てることもなければ、周囲の一般生徒たちが「ひえっ……!」と顔を青くして逃げ出すこともない。
さらに、1回生の教室で、シャーロット・ヴァンダムが焔光の姿を見るたびに顔を林檎のように真っ赤にし、手作りの甘味を差し出しながら「ひぇっ……!」と挙動不審になる、あの愛らしい名物?も見られなくなっていた。
「……なぁ、静かだな」
「ああ、静かすぎるな……」
中庭のベンチで、風花様親衛隊(非公認)の男子生徒たちが、所在なげに空を見上げていた。彼らは先の黒耀騎士団との一大決戦以来、生存本能に基づいた「命がけの勘違い」により、焔光を「実力を隠した至高の兄君」、あるいは人知を超えた幸運を操る「ラッキーぷりんす」として過剰に崇拝し、裏で護衛(崇拝)することを日課としていたのだ。
「焔光様が聖域の島へ行かれてからというもの、あの風花様と大賢ノエル様の「気」が、何というか……別のベクトルで重苦しいと思わないか?」
「分かる〜。今まではお兄ちゃん争奪戦という分かりやすい爆発だったが、今はこう……「焔光くん(お兄ちゃん)が恋しい貯金」がじわじわと溜まって、ダムが決壊する寸前のような、不穏な静けさを感じるんだよなぁ……」
親衛隊の面々は、その並外れた生存本能によって、学園の平穏が「偽りの静寂」の上に成り立っていることを本能的に察知していた。
実際、学園の最高峰の講義室では、風花とノエルが机を並べて、ため息を漏らしていた。
「はぁ……。お兄ちゃんと離れて数日、私の風の加護も、心のなかもすっかり凪いでしまいましたわ……。お兄ちゃんのあの優しい笑顔が足りなくて、私、毎晩枕を抱きしめながら、もやもやを募らせるしかありませんの」
風花が琥珀色の瞳を曇らせ、机に突っ伏す。大賢ノエルに師事し、三英傑に近づく実力を持つ彼女の「寂しさの気」は、無意識のうちに講義室の気圧をじわりと下げていた。
「本当にねぇ。私も、焔光くんの「気の共鳴」を確かめない日々がこんなに味気ないものだなんて、思っても無かったわ……っ」
ノエルも豊満な胸を大きく上下させ、瞳を潤ませている。
「ノエル様に見守っていただければ勇気が湧きます。というお言葉の残響だけで、私は辛うじて大賢としての理性を保っていますが、焔光くんが早く私のもとに戻ってくれないと……」
ノエルの恋煩いから放たれる至高の光の気が、パチパチと不穏な明滅を繰り返す。彼女たちの焔光への愛の重さは、焔光が不在の間も、確実にその臨界点を高め続けていた。
そんな修羅場の一方で、1回生の自習室の片隅。
シャーロット・ヴァンダムが狂ったようにペンを走らせていた。
「——違いますわ! 焔光様が聖域の島から学園に帰って来られた時の、最初のお出迎えの言葉は「おかえりなさいませ、焔光様」ではなく、「お待ちしておりましたわ、焔光様。 お寂しゅうございました」の方が、より私の気持ちの真剣みが伝わるはずです……っ!」
シャーロットの机の上には、びっしりと文字が書き込まれた「焔光様ご帰還時の完璧なる歓迎シミュレーション・プロット」が広げられていた。
先日のヴァンダム新興商会の本邸での会談の折、焔光からの「今度、ご両親にご挨拶をしたい」という言葉を事実上のプロポーズ(婚約の申し込み)と爆発的な妄想で勘違いしていた彼女。その後、冷静なギルバートから「あれは没収された旧メディチス利権の運営組織における、レイ・フォンの引き抜きの実務交渉ですよ」とタネ明かしをされ、大恥をかいた歴史があった。
しかし、その両親への挨拶(勘違い)の席を経て、ヴァンダム商会と蒼真家との強固なパイプが完成し、何より焔光との「心の距離」が劇的に縮まったことは紛れもない事実であった。
「勘違いで終わらせてなるものですか……っ! 次回のご挨拶の時には、本物のウエディングドレスを着てみせますわ……っ!」
シャーロットはエメラルドグリーンの瞳に純度百パーセントの炎を燃やし、熱烈な歓迎の計画を練り直していた。
そんな中、彼女たちの美貌、そして焔光という「壁」が一時的にいなくなった隙を狙い、これ幸いと風花やシャーロットに近づこうとする命知らずな男子上級生たちも存在した。
「やぁ、風花様。焔光皇子殿下という「足手まとい」が不在の間、この僕が君の完璧な風の魔導の自主練にお付き合いしてあげようと思ってね。2回生筆頭のこの僕の胸に、いつでも飛び込んで——」
廊下で風花の前に立ちはだかり、爽やかな笑みを浮かべて手を差し伸べた男子生徒。
だが、風花はため息を一つ吐くと、その琥珀色の瞳の奥に冷酷極まりない「暴風の殺気」を宿らせた。
「——お兄ちゃん以外の不届き者が、私に、触れようと、しましたわね?」
「え……あ、いや——」
次の瞬間、不可視の暴風の刃が一閃した。
ドガァアアンッ!! と凄まじい風圧が廊下を駆け抜け、男子上級生の衣服はズタズタのボロ雑巾のように切り刻まれ、彼は物理的な衝撃によってそのまま保健室の天井へと叩きつけられて気絶した。
「ふん、お兄ちゃんのあの優しい気の気配に比べれば、有象無象の虫ケラの気など、肥溜めの悪臭にも劣りますわ。保健室で一生、己の無礼を悔いるが良いですわ」
風花は「フンス!」と激しく鼻息を鳴らし、お兄ちゃんがいないストレスを不届き者への合法的な駆除で発散するのだった。
風花が廊下で虫ケラを一蹴していた同じ頃、第一訓練場の裏手にある美しい中庭のガゼボでは、シャーロット・ヴァンダムもまた、別の「害虫」に絡まれていた。
「おやおや、ヴァンダム新興商会のお嬢様。噂の「期待外れ皇子」は、東の聖域とやらへ逃げ出して留守のようじゃないか。あんな平凡な出力の男にいつまでも付き従うより、我がアズラエル辺境伯家の派閥に連なる、この僕と有意義なお茶会でもしないかい?」
現れたのは、3回生の男子上級生二人組だった。手に高級な魔導短剣を携え、アルベールの腰巾着だったことを隠そうともせず、商会の娘であるシャーロットを今のうちに手籠めにし、ヴァンダム商会の利権をアズラエル家へと引き込もうとする打算に塗れた目をしている。
しかし、シャーロットは慌てることなく、艶やかなライトグリーンの髪を指先で弄びながら、知的なエメラルドグリーンの瞳に冷ややかな微笑を浮かべた。
「お誘い、光栄に存じますわ、先輩方。……なれど、私、あいにくと「石礫程度の光弾」しか撃てないような、誰よりもお優しい殿方(焔光様)以外には、全く興味が湧きませんの。お茶会をされるのでしたら、そこのお池のザリガニさんたちとでも、お二人でじっくりお話しされてはいかがかしら?」
「何だと……っ! 成金の分際で、皇子を後ろ盾に気取りおって!」
あしらわれた上級生が激昂し、魔導短剣に「火」のギフトの気を纏わせて一歩踏み出そうとした、まさにその瞬間。
——空間の空気が、ピキリと凝固した。
「——おいおい。お前ら、ウチの可愛いクラスメイトに、その薄汚い火種を向けようってか?」
ガゼボの屋根の上から、音もなく飛び降りてきたのは、フォックス・シルフィードだ。琥珀色の吊り上がった瞳に冷徹な戦術眼を宿らせながらも、口元には飄々としたチャラ男の笑みを浮かべている。
「チッ、1回生のチャラ男が……! 邪魔するなら容赦はせん!」
上級生の一人が叫び、火炎の刃をフォックス目がけて一気に突き出した。
だが、フォックスは避けることすらしなかった。
「風の糸」
彼が指先を微かに動かした瞬間、空間に極限まで細く張り巡らされていた「不可視の風の糸」が、上級生の突進の振動を完璧に索敵し、その足元を一瞬にして絡め取った。
「うわっ!? 足が……動か——」
「いざ戦闘となりゃ、触れた敵をバラバラに切り刻むトラップにもなるんだ。……まぁ、学園内だから肉は断たねぇけどよ。……飛べッ!」
フォックスが糸を強く引くと同時に、風のワイヤーが上級生の身体を強引に巻き上げ、中庭の木々へと容赦なく叩きつけた。
「な、貴様……っ!」
残されたもう一人の上級生が狼狽し、今度はシャーロットの背後へ回り込もうとしたが、彼の足元に、無機質な鉄の歯車が転がってきた。
「おやおや。私のアシストを無視して、お嬢様に近づくとは。ヴァンダム商会の利益を損なう虫ケラは、合理的に排除せねばなりませんね」
いつの間にかシャーロットの斜め後ろに直立していたギルバート・ケッセルが、眼鏡の位置を指先で直しながら、自らの「木」と「機」のギフトを発動させた。
「ガガ……、ギギギ……ッ!!」
地面に転がった歯車が変形し、周囲の植物の生命力を吸い上げ、等身大の魔鋼製可変式からくり人形が具現化した。からくり人形は小柄な体躯からは想像もできない超高火力の風圧を拳に纏い、残された上級生の腹部へと完璧な鉄槌を叩き込んだ。
ズドォオンッ!! と激しい衝撃音。
「がはっ……!?」
胃袋の中身をすべて吐き出すかのように顔を歪めた上級生は、からくり人形の一撃によってそのまま中庭の池へと真っ逆さまに吹き飛ばされ、派手な水柱を上げて沈んでいった。
「ふぅ……。やれやれ、これだからアズラエルの腰巾着どもは手癖が悪い」
フォックスが風の糸を指先に巻き戻しながら、ガゼボの柱に背を預けて肩をすくめた。
「おやおや、フォックス。あなたのその野蛮な風の罠、ウチのからくり人形の死角を補う防衛ラインとしては、なかなかに利用価値がありましたよ」
ギルバートがからくり人形を手のひらサイズへと瞬時に錬金術で変形させ、ポケットに収めながら狡猾に笑う。
「誰が利用価値だボケ! 俺は叔母様の頼みで、お嬢様と従弟の奴の安全を護衛してるだけだ! お前らの打算的な監視と一緒にすんな!」
「ふっ……本当に、裏表のない単細胞な隠密ですね。まぁ、お嬢様のこの歓迎シミュレーションのプロットを焔光様に届けるためにも、今後ともせいぜい私の盾となってください」
「だから誰が盾になるかボケ! お前とは絶対に仲良くなれねぇわ!」
ギャーギャーと罵り合いながらも、お互いの隠密術と機工の知識を完璧に補い合う二人。シャーロットはそんな「最高に息の合った犬猿の仲」の二人を他所に、「あ、お二人とも、お片付け、ありがとうございます。……それより、焔光様への最初のお言葉ですが……」と、何事もなかったかのように完璧なる歓迎計画のポエムを練り直し始めるのだった。
同じ頃、放課後の夕暮れの光が差し込む学園長室。
デスクの後ろでは、学園長であるオリヴィア・シルフィード(織姫)が、優雅に紅茶を傾けていた。そのソファーには、北辺境伯家とのめんどくさい対談や書類手続きから一時的に解放され、抜け殻のようになっているエドガーと九条朧の二人の姿があった。
学園長室の窓からは、先ほど風花によって保健室送りになった男子生徒が担架で運ばれていく姿や、中庭の池からずぶ濡れの上級生を引きずり上げるフォックスとギルバートの賑やかな声が、微かに響いてくる。
「——ふぅ。……平和だなぁ」
エドガーが、口元で火のついていない新しいクシャクシャの煙草をガリリと噛み締めながら、心底からリラックスしたように呟いた。
「何より、あの皇子殿下が留守のお陰で、俺にめんどくさい手柄や爵位の燃料が投下される心配が一切ありませんからね。宮廷府からの余計な表彰状の処理も終わりましたし、これなら当分の間、俺の理想とする完璧なサボりライフが満喫できそうですよ」
「同感だな、エドガー」
朧が軍服スーツの襟を緩め、冷めた目で団子を口に運ぶ。
「焔光殿下がいると、どうしても周囲の気の密度が異常に跳ね上がるからな。あの「鵺」のメンバーたちの過剰な警備を裏で抑え込む必要もないし、エドガーのトラップ暴発を偽装するための暗黒結界の出力を調整する必要もない。……久しぶりに、一人の隠密としての静かな放課後を楽しめている」
二人の教師陣の「平和だなぁ」という、日頃の苦労が滲み出た溜息。
しかし、デスクの後ろで風のギフトを操る織姫だけは、扇子で口元を隠しながら、底意地の悪い笑みを浮かべていた。
「あら、お二人さん。ずいぶんと生温かい安心をしているのね? ……学園内の風が、私に教えてくれているわよ? 風花ちゃんと大賢ノエルの「お兄ちゃん(焔光くん)が恋しい貯金」が、すでに学園の許容量を超えて、あと数日で天災規模の魔道となって暴発しかけているってね」
「……は?」
エドガーの動きがピタリと止まった。
「それに、ヴァンダム商会の娘のあの歓迎シミュレーションの熱量も、転入してきたフォックスくんとギルバートくんのあの妙に息の合った上級生排除の連携も……。全ては、焔光という「中心の絶対領域」が一時的に不在だからこそ、周囲の歯車が狂狂と回りながら、その帰還の瞬間を待っているだけの状態よ。あの子が東の聖域から帰ってきたその瞬間、学園は今までの静寂の反動で、これまでにない大騒ぎになることは火を見るより明らかだわ」
織姫の冷徹な因果の分析に、エドガーは顔を引きつらせ、新しいクシャクシャの煙草をヤケクソ気味に口から放り出した。
「……やめ、やめてくださいよ学園長。せっかくの平和なサボり時間が、一瞬でホラー映画の予告編に変わっちまったじゃないですか。あの焔光殿下のことだ、東の始祖の島でも、神楽家相手に何かとんでもない手品を仕込んで、全てをシレッと終わらせて帰ってくるに決まってるんだ〜……っ!」
夕暮れの学園に響く、偽りの平穏の溜息。
世界最強のチート能力を隠し持つ焔光のいない学園は、確かに静かであった。しかし、周囲の勘違い、暴走する愛、そして打算の糸は、帰還のその瞬間を目指して、より一層強く、深く、その盤面を収束させつつあるのであった。




