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第9話 読めない手紙

 アルヴェインは長い間、顔を背けたままだった。

 消えた焚き火から、細い煙だけが立ち昇っている。

 リナも何も言わなかった。

 先ほどまで胸を満たしていた怒りは、まだ消えていない。

 勇者はアルヴェインの力を借りたまま戻らず、百年以上もの役目を彼一人へ残した。

 その事実だけを見れば、無責任だと思わずにはいられなかった。

 しかし、アルヴェインがこれほど強く信じている相手でもある。

 ただの思い込みや、思い出を美化しているだけなのだろうか。

 それを確かめないまま、勇者を断罪することも違うように思えた。

「勇者は、どんな人だったんですか」

 リナは静かに尋ねた。

 アルヴェインの耳がわずかに動く。

「今度は何を言うつもりだ」

「侮辱するつもりはありません」

「先ほど十分にしただろう」

「だから、知らないまま決めつけたことは謝ります」

 アルヴェインは答えなかった。

 許したわけではないのだろう。

 それでも、リナは続けた。

「あなたが、あの人は無責任ではないと言い切る理由を知りたいんです」

「理由などない」

「でも、一緒に旅をしていたんでしょう」

「ああ」

「旅の中で、勇者がどういう人だったのか、あなたは見ていたはずです」

 アルヴェインは伏せていた頭をわずかに持ち上げた。

 青い瞳が遠くを見る。

 月冠山ではない。

 百年以上前、勇者と共に歩いた土地を見ているようだった。

「あいつは、軽い男だった」

「軽い?」

「何が起きても笑っていた。魔物に囲まれても、食料を盗まれても、宿がなければ星が見えると喜ぶような男だった」

「ずいぶん楽観的ですね」

「そう見えただけだ」

 アルヴェインの声が、少しだけ柔らかくなる。

「あいつほど用心深い人間を、俺はほかに知らん」

 リナは黙って続きを待った。

「町へ入れば、最初に出口を調べた。宿へ泊まれば、窓から地面までの高さを確かめる。森へ入る前には地図を広げ、道が塞がれた場合の迂回路を三つは考えていた」

「三つも?」

「五つ考えたこともある」

 アルヴェインは面倒そうに鼻を鳴らした。

「たかが盗賊の砦を襲うだけで、合図の失敗、退路の崩落、仲間の負傷、自分が倒れた場合まで、すべて手順を決めていた」

「自分が倒れた場合も?」

「ああ。誰が指揮を引き継ぎ、誰が負傷者を運び、どの道から逃げるかまでな」

「あなたは、その話を聞いていたんですか」

「毎回聞かされた」

 アルヴェインの口元が、わずかに歪む。

「俺はよく、戦う前から負けることを考える臆病者だとからかった」

「勇者は怒りましたか」

「笑っていた」

 アルヴェインは少し間を置いた。

「そして、勝つつもりだからこそ、負けたときのことを決めておくのだと言った」

 その言葉に、リナは眉を寄せた。

 魔王との決戦へ向かう勇者。

 自分が倒れた場合の手順まで決めるほど用心深い人間。

 そんな人物が、アルヴェインから力を借り、ノクタルの封印を任せたまま、何の備えも残さずに旅立つだろうか。

「おかしいです」

 リナは呟いた。

「何がだ」

「そんな勇者なら、自分が戻れなかった場合のことも考えていたはずです」

 アルヴェインの瞳が細くなる。

「魔王との戦いですよ。これまでの戦いより、ずっと危険だったんでしょう?」

「当然だ」

「それなら、自分が死ぬ可能性を考えなかったはずがありません」

「あいつは勝つつもりだった」

「勝つつもりでも、負けたときの手順を決める人だったんでしょう」

 アルヴェインは口を閉ざした。

「勇者は、自分が戻れなければ、あなたがどうなるのか分かっていたはずです」

「……分かっていただろうな」

「あなたの力も、借りたままになる」

「ああ」

「ノクタルの封印を守る者も、あなただけになる」

「ああ」

「では、何か残したんじゃないですか」

 リナは一歩、アルヴェインへ近づいた。

「勇者が戻れなかった場合に、あなたへ力を返す方法を」

「そのような方法があるなら、俺に言っていたはずだ」

「本当に何も言われなかったんですか」

「ない」

「決戦へ向かう前に、いつもと違うことは?」

「ないと言っている」

「誰かと話していたとか、何かを預けたとか」

 アルヴェインは鬱陶しそうに目を閉じた。

「百年以上前のことだ。いちいち覚えているものか」

「思い出してください」

「無茶を言うな」

「勇者は、魔王との決戦を前にしていたんです。あなたの言うとおり用心深い人だったなら、必ず何かしているはずです」

「必ずなどと、なぜお前に言い切れる」

「あなたが教えてくれたからです」

 アルヴェインが目を開ける。

「勇者は、自分が倒れた場合のことまで考える人だった。だから、あなたを百年以上も一人で残すつもりだったとは思えません」

 リナの言葉に、アルヴェインは険しい表情を浮かべた。

 否定しようとしているのか。

 それとも、自分の記憶を探っているのか。

 長い沈黙が続いた。

 やがて、アルヴェインの瞳がわずかに揺れた。

「……村長」

「え?」

「当時の村長と話していた」

 アルヴェインは低く呟いた。

「魔王との決戦へ向かう前夜だ。あいつは一人で村へ下りていった」

「何をしに?」

「知らん」

「聞かなかったんですか」

「村人へ封印のことを説明するのだと言っていた」

「どれくらい話していたんですか」

「長かった」

 アルヴェインは記憶をたどるように、ゆっくりと話した。

「夜が深くなってから戻ってきた。何を話していたのかと尋ねたが、詳しくは答えなかった」

「勇者は何と言ったんですか」

 アルヴェインは目を細めた。

 あの夜の声を、百年以上の時を越えて聞いているようだった。

「これで、俺に何かあっても最低限のことは残せた」

 リナは息をのんだ。

「本当に、そう言ったんですか」

「ああ」

「それなのに、何を残したのか聞かなかったんですか」

「封印の管理方法でも伝えたのだと思った」

「でも、勇者は『自分に何かあっても』と言ったんでしょう」

「あのときの俺は、あいつが帰らないなどとは考えていなかった」

 アルヴェインの声に苦いものが混じる。

「魔王を倒し、戻ってくると信じていた。あいつ自身も、必ず戻ると言った」

「だから確かめなかった」

「ああ」

 リナは拳を握った。

 勇者は備えを残していた。

 何を残したのかは分からない。

 封印の管理方法だけかもしれない。

 しかし、わざわざ自分が戻れなかった場合に言及している。

 用心深く、自分が倒れた場合の手順まで決めていた人物だ。

 それならば、アルヴェインの力についても考えていた可能性がある。

「村長へ何かを託したんです」

「そうかもしれん」

「勇者が戻れなかったときのために」

「何を託したかは分からない」

「調べれば分かります」

 リナは、黒い点の浮かぶ月を見上げた。

 まだ時間は残されている。

 少なくとも、封印は完全には破れていない。

「村に、何か残っているはずです」

 村に残されたもの。

 勇者の時代から、百年以上にわたって受け継がれてきたもの。

 リナは記憶をたどった。

 村長の屋敷には、古い祭具や記録を収めた地下書庫がある。

 普段、村人が入ることは許されていない。

 リナがそこへ入ったことがあるのは、一度だけだった。

 まだミアが三歳だった頃。

 真冬に高い熱を出し、普通の薬を受けつけなくなったことがある。

 必要な薬草を温度の低い場所で調合するため、グスタフの許可を得て、屋敷の地下へ作業台を移した。

 薄暗い地下書庫の奥で、リナは一冊の古い書物を見つけた。

 分厚い革の表紙。

 錆びた金具。

 羊皮紙には、虫が這った跡のような奇妙な文字が並んでいた。

 見たことのない文字だった。

 何が書かれているのかグスタフへ尋ねると、彼はこう答えた。

 勇者が訪れた時代から村長の家に伝わっているものだが、今では誰にも読めない、と。

「あります」

 リナは顔を上げた。

「何がだ」

「勇者の時代から残されている書物が、村長の屋敷にあります」

 アルヴェインの瞳がリナへ向けられる。

「何が書かれていた」

「分かりません。村の誰にも読めない文字だそうです」

「どのような文字だ」

「言葉では説明できません。曲がった線や、爪で引っかいたような印が重なっていて……」

 リナは指で地面へ形を描こうとした。

 だが、うまく思い出せない。

「確か、こういう――いえ、少し違うかも」

「退け」

 アルヴェインが前脚を伸ばした。

 鋭い爪の先が、リナの隣の地面へ触れる。

 そのまま岩の表面に文字を刻み始めた。

 一つの印は、円を貫く長い線。

 その隣には、翼を折り畳んだような複雑な形。

 さらに、複数の爪痕を組み合わせたような文字が続く。

 リナは刻まれていく文字を見つめた。

 記憶の中にある羊皮紙と、目の前の形が重なった。

「これです」

 リナは地面へ膝をついた。

「この文字です。古い書物にも、同じ文字が並んでいました」

 アルヴェインの爪が止まった。

「間違いないのか」

「全部を覚えているわけではありません。でも、この丸を線が貫いている文字は見ました。何度も書かれていたので覚えています」

 アルヴェインは、自分が刻んだ文字を見下ろした。

「これは竜文字だ」

「竜の文字?」

「今では、竜の中でも使える者は少ない」

「勇者は読めたんですか」

「あいつは読めなかった」

「それなら、どうして村に竜文字の本があるんですか」

「俺が教えた」

 アルヴェインは答えた。

「旅の途中、あいつは竜文字を覚えようとしていた。人間の言葉に置き換えられない術式や、竜の加護を記すためにな」

「勇者が、自分で書いた可能性がある?」

「あり得る」

 リナの心臓が速く打ち始めた。

 勇者の時代から伝わる、誰にも読めない竜文字の書物。

 魔王との決戦を前に、勇者は当時の村長と長時間話していた。

 そして戻ってきた勇者は、最低限のものを残せたと言った。

 偶然とは思えなかった。

「あの書物です」

 リナは立ち上がった。

「勇者が残したものは、きっとあの書物です」

「決めつけるな」

「でも、ほかに考えられません」

「封印の維持方法だけが書かれている可能性もある」

「あなたへ力を返す方法が書かれているかもしれません」

「かもしれない、だけだ」

 アルヴェインの声は冷たかった。

 けれど、完全に可能性を否定しているわけではない。

「確かめましょう」

「必要ない」

「どうしてですか」

「確証のない可能性のために、村へ戻るつもりか」

「そうです」

「お前は生贄として送り出された。生きて戻れば、何をされるか分からんぞ」

「書物を持ってくるだけです」

「簡単に言うな」

 アルヴェインの尾が地面を擦った。

「村人どもは、お前が役目を放棄したと考える。捕らえられ、再びここへ連れてこられるかもしれん。あるいは、その場で殺されることもある」

「それでも――」

「ならん」

 アルヴェインの声が強くなる。

「お前は町へ行け」

「でも、書物に力を返す方法があれば、あなたは死なずに済むかもしれない」

「なかった場合はどうする」

「戻ってきて、ほかの方法を考えます」

「時間がない」

「だから急ぐんです」

「リナ」

 アルヴェインは巨大な頭を近づけた。

 淡い青色の瞳が、至近距離からリナを見つめる。

「お前は、死ぬために山へ送られた」

 リナは唇を結んだ。

「だが、お前が死ぬ必要はなかった。村へ戻る必要もない。俺の鱗を持って山を越えれば、カルディアまで無事にたどり着ける」

「あなたを置いて?」

「俺のことは忘れろ」

「できません」

「できる」

 アルヴェインは言い切った。

「人間は忘れる。村も、生贄も、今日ここで見たものも、町で暮らせばいずれ遠い過去になる」

「あなたは、勇者を忘れなかったじゃないですか」

 アルヴェインの表情が固まった。

「百年以上も忘れなかったあなたが、私には忘れろと言うんですか」

「同じではない」

「何が違うんですか」

「俺は竜だ」

「それは理由になっていません」

 アルヴェインは苛立ったように牙を見せた。

 だが、すぐに顔を背けた。

「……勝手にしろとは言わん」

 低い声で告げる。

「町へ行け。生きろ。それが命令だ」

「私はあなたの家来ではありません」

「知っている」

「なら、命令される理由もありません」

「命を助けてやった礼だと思って従え」

 リナはアルヴェインを見つめた。

 ここで反論を続けても、彼は決して許さないだろう。

 力ずくで山の向こうへ運ばれる可能性さえある。

 アルヴェインは自分の命を諦めている。

 リナを巻き込みたくないという意志だけは、何を言っても変わりそうになかった。

 ならば、別のやり方を取るしかない。

「……分かりました」

 リナは静かに答えた。

 アルヴェインが振り返る。

「町へ行きます」

「本当だな」

「あなたの言うとおり、北の道を下ります」

 嘘だった。

 胸が痛んだ。

 アルヴェインは人間を信じていない。

 その彼が、わずかにリナを信じ始めている。

 そこへ嘘をつくことになる。

 それでも、ここで正直に村へ戻ると言えば、決して行かせてもらえない。

「鱗を持っていけ」

 アルヴェインが、先ほど渡した銀色の鱗へ視線を向けた。

「魔獣は近づかん。道が分かれたら、川の音がする方へ進め」

「分かりました」

「途中で振り返るな」

 リナは鱗を抱え上げた。

 冷たいはずの鱗には、アルヴェインの体温がまだ残っていた。

「アルヴェイン」

「何だ」

「治療した傷を無理に開かないでください」

「戦うのだから無理な話だ」

「それでも、できるだけ動かないで」

「早く行け」

 リナは北側へ続く道へ足を向けた。

 数歩進んだところで、一度だけ振り返る。

 アルヴェインは月を見上げていた。

 傷ついた翼。

 折れた角。

 黒い呪いに侵された身体。

 彼は、自分が今夜死ぬことを受け入れている。

 だが、リナは受け入れていない。

「さようなら」

 そう告げると、アルヴェインは振り返らずに答えた。

「ああ」

 その声に、再会を期待する響きはなかった。

 リナは霧の中へ入り、しばらく北へ続く石段を下った。

 足音が山頂へ届かなくなるまで進む。

 やがて道の左右を岩壁が囲み、アルヴェインの姿が完全に見えなくなった。

 リナは立ち止まった。

 北へ行けばカルディア。

 南へ回り込めば、フェルナ村へ戻る山道に合流できる。

 リナは抱えていた鱗を強く握った。

「ごめんなさい」

 竜へ届かない声で呟く。

 そして町へ続く北の道には進まず、岩の間を抜けて南側の斜面へ足を向けた。

 勇者が残した書物を手に入れる。

 そこに何が書かれているのか確かめる。

 アルヴェインが諦めても、自分まで諦めるつもりはなかった。

 リナは月明かりの下、たった一人でフェルナ村へ向かって山を下り始めた。

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