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第8話 勇者は帰らぬ

「勇者……?」

 リナは思わず聞き返した。

 その名ではなく、その呼び方自体を知らない者はいない。

 魔王が世界を脅かしていた時代、各地を旅して人々を救い、最後には魔王を討ち滅ぼした英雄。

 フェルナ村にも、かつて勇者が立ち寄ったという伝説は残っていた。

 だが、リナにとって勇者は、古い物語の中の人物でしかなかった。

「あなたは、勇者と知り合いだったんですか」

「共に旅をしていた」

 アルヴェインの声から、ほんのわずかに棘が消えた。

「あいつと出会ったのは、この山ではない。別の土地だ。その後しばらく、共に町を巡り、魔物と戦った」

「それからフェルナ村に来た?」

「ああ。この地でノクタルと遭遇した」

「勇者とあなたでも、倒せなかったんですか」

「時間が足りなかった」

 アルヴェインは答えた。

「あいつは魔王との決戦へ向かわねばならなかった。だからノクタルを異界へ封じ、俺がここへ残ることになった」

「勇者に頼まれたんですね」

「あいつは言った。自分が戻るまで、この土地を守ってくれと」

「それで、百年以上も?」

「そうだ」

「勇者は、必ず戻ると言ったんですか」

「ああ」

 アルヴェインは迷いなく答えた。

 けれど、その言葉を聞いたリナの胸には、重いものが沈んだ。

 勇者は戻ってこなかった。

 その後どうなったのかは、フェルナ村の子どもでさえ知っている。

 口にするべきか、リナは迷った。

 アルヴェインが本当に知らないのなら、その希望を自分が壊してよいのだろうか。

 しかし百年以上も勇者を待ち、傷つきながら戦い続け、最後には命まで捨てようとしている。

 真実を隠してよいはずがない。

「アルヴェイン」

「何だ」

「勇者は、帰ってきません」

 アルヴェインの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。

「勇者は魔王との最後の戦いで、魔王と相打ちになったと伝えられています」

 竜は瞬きもせず、リナを見つめた。

 驚きが浮かんだのは、わずかな間だけだった。

 やがてアルヴェインは顔を背け、乾いた声で答えた。

「知っていたさ」

「知っていた?」

「そう伝えられていることはな」

「では、勇者が死んだことも?」

「百年以上も戻らなければ、俺にだって分かる」

 その声は、ひどく静かだった。

 静かすぎるほどに。

「それでも待っていたんですか」

「あいつは戻ると約束した」

「でも、死んでしまったんでしょう」

「遺体を見たわけではない」

「どの国でも、魔王と相打ちになったと伝えられています」

「人間の伝承など当てになるものか」

「百年以上ですよ」

「分かっている!」

 アルヴェインの声が山頂へ響いた。

 リナは肩を震わせた。

 竜はすぐに口を閉ざした。

 残された青い瞳には、先ほどまで隠されていた痛みが浮かんでいた。

 アルヴェインは知らなかったのではない。

 百年以上も戻らない時点で、勇者の身に何が起きたのかを理解していた。

 ただ、それを認めたくなかっただけだった。

「勇者が帰らないと分かっていたのに、約束だけは守り続けたんですか」

「それがどうした」

「どうしたって……」

 リナはアルヴェインの身体を見た。

 折れた角。

 裂けた翼。

 剥がれ落ちた鱗。

 胸から首に広がる黒い呪い。

 十二年前の傷すら治らないまま、もう一度戦おうとしている。

「勇者と一緒に戦っていた頃から、あなたはこんな状態だったんですか」

「違う」

 アルヴェインは不機嫌そうに答えた。

「あの頃の俺は、今よりはるかに強かった」

「では、どうして今は……」

「力を失ったからだ」

 リナは眉を寄せた。

「ノクタルに奪われたんですか」

「違う」

 アルヴェインはしばらく黙っていた。

 話す必要がないと考えているようだったが、リナがじっと待っていると、やがて諦めたように口を開いた。

「あいつに与えた」

「あいつというのは……勇者に?」

「ああ」

「どうして?」

「魔王を倒すためだ」

 アルヴェインは月を見上げた。

「あいつは強かった。だが、魔王を確実に倒すには足りなかった。だから俺の力の大部分を加護として与えた」

「大部分って……」

「竜の炎も、鱗の加護も、傷を癒やす力もだ。あいつが人間の身で魔王と渡り合えるようにな」

「その力は、返してもらう約束だったんですか」

「魔王を倒して戻れば、自然に返るはずだった」

「でも、勇者は戻らなかった」

「ああ」

「それなら、あなたの力は?」

「今も、戻っていない」

 アルヴェインの答えは淡々としていた。

 まるで、それが当然の結果であるかのように。

 だが、リナには到底当然だとは思えなかった。

 勇者はアルヴェインの力を借り、その力で魔王との決戦へ向かった。

 そして戻らなかった。

 残されたアルヴェインは、本来の力を失ったまま、百年以上にわたって月冠山へ縛られている。

 十二年ごとに蝕月獣ノクタルと戦い、そのたびに傷を増やしてきた。

 今度は、その命まで差し出そうとしている。

「何なの、それ」

「何がだ」

「力を借りるだけ借りて、こんな役目を押しつけて、自分は帰ってこなかった」

 アルヴェインの瞳が鋭くなる。

「口を慎め」

「慎みません」

「リナ」

「あなたはそのせいで弱くなって、十二年ごとに傷ついて、今度は死のうとしている。それなのに勇者は、何の責任も取っていない」

「あいつは魔王と戦った」

「だから何?」

 リナは立ち上がった。

「世界を救ったら、あなた一人がどうなってもいいの?」

「それ以上言うな」

「力を借りるだけ借りて、こんな役目を押しつけて、自分は帰ってこなかった。それのどこが勇者なのよ」

 アルヴェインの咆哮が、月冠山の頂を揺らした。

 空気そのものが爆ぜたようだった。

 焚き火が吹き消され、石柱の周囲に積もっていた小石が一斉に舞い上がる。

 リナの身体も後方へ吹き飛ばされた。

「きゃっ――」

 地面へ倒れかけ、咄嗟に岩へ手をつく。

 耳鳴りがした。

 肺から息が押し出され、しばらく呼吸ができなかった。

 アルヴェインは立ち上がっていた。

 傷ついた翼を大きく広げ、残された角を夜空へ向けている。

 青い瞳には激しい怒りが燃えていた。

「あいつを侮辱するな」

 低い声が、地面を震わせる。

「お前に、あいつの何が分かる」

「分からないわよ!」

 リナは叫び返した。

 足は震えている。

 今の咆哮だけで全身が竦み、逃げ出せと本能が訴えていた。

 それでもリナは、アルヴェインから目をそらさなかった。

「私は勇者に会ったことなんてない!どんな人だったのかも知らない!」

「ならば黙れ!」

「でも、今のあなたなら見ている!」

 アルヴェインの表情がわずかに揺れた。

「私はあなたの傷を洗った。十二年前の傷がまだ塞がっていないことも、その下にもっと古い傷があることも知っている」

 リナは一歩、竜へ近づいた。

「勇者が本当に立派な人だったなら、どうしてあなた一人がこんな目に遭っているの?」

「それは、俺が選んだことだ」

「勇者が頼んだからでしょう」

「俺が引き受けた」

「戻ってくると信じて?」

「ああ」

「戻らないと分かってからも?」

 アルヴェインは答えなかった。

「あなたは、勇者は無責任ではないと言う。でも実際には、あなたの力を持ったまま死んだ。あなたがここで何度傷ついても、助けには来なかった」

「死んだのなら、戻れるはずがないだろう!」

 アルヴェインの声が、悲鳴のように響いた。

 リナは息をのんだ。

 竜自身の口から、初めてその言葉が出た。

 勇者は死んだ。

 アルヴェインも、本当はずっと分かっていた。

「だったら、どうして」

 リナの声は、先ほどより静かになった。

「どうして、今も勇者が戻るようなことを言うんですか」

「……あいつは、そんな無責任な人間ではない」

 アルヴェインは繰り返した。

 誰かへ説明する言葉ではない。

 自分自身へ言い聞かせるような声だった。

「あいつは、約束を投げ出すような男ではない」

「でも、帰ってこなかった」

「帰れなかっただけだ」

「残されたあなたにとっては同じでしょう」

「違う」

「何が違うんですか」

「あいつは、そんな人間ではない!」

 アルヴェインは前脚を地面へ叩きつけた。

 岩へ深い亀裂が走った。

 それでもリナは動かなかった。

「勇者はそんな無責任な人間ではない」

 アルヴェインは、もう一度同じ言葉を繰り返した。

「勇者は、そんな人間ではない」

 しかし、その先が続かない。

 勇者が何を残したのか。

 自分が戻れなかった場合に、どのような備えをしていたのか。

 なぜアルヴェインの力が戻らないままなのか。

 なぜ百年以上、彼一人だけが戦い続けることになったのか。

 アルヴェインは、何一つ説明できなかった。

 ただ勇者は無責任ではないと、根拠もなく繰り返すだけだった。

 リナは真っ直ぐに竜を見つめた。

 恐怖は消えていない。

 アルヴェインが本気で爪を振るえば、リナなど簡単に命を失う。

 それでも、ここで目をそらしてはいけないと思った。

 やがて、アルヴェインのほうが先に視線を外した。

 巨大な身体をゆっくりと伏せ、月冠山の向こうへ顔を向ける。

「……あいつは、そんな男ではない」

 最後にこぼれた言葉は、ひどく弱々しかった。

 リナは返事をしなかった。

 今ここで何を言っても、アルヴェインには届かない。

 だが、リナには一つだけ分かった。

 アルヴェインをこの山へ縛りつけているものは、蝕月獣ノクタルの封印だけではない。

 百年以上前に交わした約束。

 帰らなかった勇者への信頼。

 そして、勇者が自分を置き去りにしたのではないと信じたい、アルヴェイン自身の願いだった。

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