第7話 心に巣食う病
日が沈むと、月冠山の空気は急速に冷え込んだ。
リナは供物として運ばれてきた薪を石で囲み、小さな火を起こした。
白かった衣装は、すでに竜の血と薬草の汁、山の土で汚れている。長い袖の一部は傷当てに使ったため、右腕は肩近くまでむき出しになっていた。
村の老女たちが見れば、竜の花嫁装束を穢したと怒るだろう。
だが、今のリナにはどうでもよかった。
花冠は治療の途中でどこかへ落とした。髪も乱れ、指先には潰した薬草の匂いが染みついている。
ようやく、自分が薬師へ戻れたような気がした。
火の向こうでは、アルヴェインが岩場に巨大な身体を横たえている。
傷口を覆うために結び合わせた布は、銀色の巨体にはあまりにも不格好だった。しかし、少なくとも先ほどまで流れ続けていた血は止まっている。
リナは供物のパンをちぎり、干した果実と一緒に口へ運んだ。
「あなたも何か食べませんか」
「いらん」
「傷を治すには、食べなければ駄目です」
「人間と同じに考えるな。竜は数日食わずとも死にはしない」
「最後に食べたのはいつですか」
「十二年前だ」
リナはパンを喉に詰まらせかけた。
「十二年前?」
「冗談だ」
アルヴェインの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
笑ったのだと気づくまで、リナには少し時間がかかった。
「竜も冗談を言うんですね」
「お前があまりにも間抜けな顔をしたのでな」
「患者が薬師をからかわないでください」
「誰が患者だ」
「あなたです」
アルヴェインは不満そうに鼻を鳴らし、それきり目を閉じた。
言葉は乱暴で、尊大で、何を言っても素直に認めようとしない。
それでもリナは、彼に対する恐怖が少しずつ薄れているのを感じていた。
醜く傷ついた巨体。
鋭い牙と爪。
人間など簡単に引き裂けるほどの力。
それらは何一つ変わっていない。
しかしアルヴェインは、治療中にリナが足を滑らせれば身体を支え、痛みに耐えながらも彼女を振り落とさなかった。
人間が嫌いなのは間違いない。
それでも、人間を無意味に傷つける存在ではなかった。
リナは火へ細い枝をくべた。
ぱちりと火の粉が上がる。
山頂の石柱は、暮れゆく空の下で黒い影となっていた。その表面に刻まれた文字だけが、月光を受けて微かに青白く輝いている。
リナは昼間から気になっていた問いを口にした。
「アルヴェイン」
「何だ」
「月の怪物について教えてください」
アルヴェインの片目が開いた。
「胸の黒い傷は、その怪物につけられたものなんですよね」
「ああ」
「村の人たちは、あなたが月を食べると言っています。でも、あなたは月を食べていない」
「当たり前だ。あれほど遠くにあるものを、どうやって食えというのだ」
「では、十二年ごとに起きる月の異変は何なんですか」
アルヴェインはすぐには答えなかった。
空を見上げる。
東の空には、白く大きな月が昇り始めていた。
今夜はまだ完全な満月ではない。しかし、あとわずかで真円に満ちようとしている。
「蝕月獣」
やがて、アルヴェインが低く告げた。
「それが、月の怪物の名前だ」
「……ノクタル」
リナは聞き慣れない名を繰り返した。
「怪物は、月の中にいるんですか」
「正確には違う」
アルヴェインは前脚へ顎を載せたまま答えた。
「あれは実際の月に住んでいるのではない。月光を通じて、この世界とつながった異界に封じられている」
「異界というのは?」
「この世界とは重なっているが、同じ場所には存在しない領域だ。普段は見ることも、触れることもできん」
「それなのに、月の光を通じて出てくる?」
「ああ。月光が強くなるほど、こちらの世界との境界が薄くなる」
アルヴェインは、山頂を囲む石柱へ視線を向けた。
「月冠山の頂は、周囲のどの土地よりも月に近い。月の光が集まりやすく、異界との接点を作るにも適していた」
「だから、ここに封印したんですね」
「ああ」
リナは石柱を見回した。
それらは単に竜の住処を囲んでいるのではない。
この山頂そのものが、怪物を閉じ込めるための巨大な封印なのだ。
「ノクタルは、どんな怪物なんですか」
「姿は一定ではない」
アルヴェインの声がわずかに低くなる。
「黒い霧にもなり、獣にもなる。数え切れぬ脚を持つこともあれば、巨大な口だけの姿で現れることもある。触れたものから光と生命を奪い、すべてを自分の一部にしようとする」
リナは無意識に自分の腕を抱いた。
「封印されたままでも、村に影響が出るんですか」
「封印が弱まればな」
「井戸の水が黒く濁るのも?」
「あれの力が漏れているからだ」
「作物が枯れるのも、家畜が怯えるのも?」
「同じだ」
リナは、村長がマティアスへ語っていたことを思い出した。
十二年に一度、月が欠ける夜。
畑が枯れ、井戸が濁り、家畜が怯える。
村人たちは、それをアルヴェインの怒りだと思っていた。
「全部、あなたの仕業ではなかったんですね」
「俺が人間の畑を一つずつ枯らして回っているとでも思っていたのか」
「村では、そう教えられています」
「愚かな話だ」
アルヴェインは吐き捨てるように言った。
「封印は十二年に一度、大きく弱まる。そのたびにノクタルは異界から這い出そうとする」
「あなたは、どうやって止めてきたんですか」
「出てきたところを叩く」
「叩く?」
「戦って弱らせ、異界へ押し戻す。そのあと、再び封印を閉じる」
あまりにも簡単に語るため、リナは一瞬その意味を理解できなかった。
「では、あなたは十二年ごとにノクタルと戦ってきたんですか」
「ああ」
リナはアルヴェインの身体を見た。
昼間に治療した無数の傷。
十二年以上前の傷の上に、さらに古い傷が幾重にも重なっていた。
あれはすべて、同じ怪物と戦った証だったのだ。
「戦いが始まると、どうして月が欠けて見えるんですか」
「ノクタルの影が山一帯を覆うからだ」
アルヴェインは空の月を見上げた。
「異界との裂け目が開けば、周囲の月光はそこへ引き込まれる。この山やフェルナ村から見れば、月の一部が黒く消えたように見える」
「それを、村の人たちはあなたが月を食べていると……」
「おそらくそういうことだろうな。月を食えるのなら食ってみたいものだ」
リナは何も言えなかった。
村人たちは山頂で何が起きているのか、一度も確認していない。
生贄と供物を途中へ置き、竜の姿を見る前に逃げ帰る。
遠くから月が黒く欠けるのを見て、その後で月が元へ戻れば、生贄によって竜が満足したのだと思い込む。
実際には、その間ずっとアルヴェインが怪物と戦っていた。
「それなら、生贄には何の意味もないんですね」
「ない」
アルヴェインは即答した。
「娘を送っても送らなくても、あなたは戦う?」
「俺が戦わなければ、ノクタルが外へ出る」
「完全に解放されたら、フェルナ村はどうなるんですか」
「消えるだろうな」
あまりにも淡々とした答えだった。
「消える?」
「村だけでは済まん。あれは周囲の命を食らいながら力を増す。カルディアも、その先の町も危うい。止める者がいなければ、近隣の国々にまで被害が広がる」
リナは息をのんだ。
村人たちは、自分たちが人身供犠によって竜を鎮めていると思っている。
実際には、彼らが怪物だと恐れている竜によって、村だけでなく周辺諸国まで守られてきた。
「そんな危険な怪物を、どうして誰も知らないんですか」
「ここまで来る人間がいないからだ」
「あなたが説明しなかったからでもあるでしょう」
アルヴェインの瞳がわずかに険しくなった。
リナはそれ以上追及せず、別の問いを続けた。
「今回も、これまでと同じように押し戻せるんですか」
アルヴェインは答えなかった。
その沈黙に、リナは嫌な予感を覚えた。
「アルヴェイン」
「ノクタルは、目覚めるたびに強くなっている」
竜は月を見たまま告げた。
「封印の内側で力を蓄えているのだろう。十二年前の時点で、それまでとは比べものにならなかった」
「だから、あの傷がまだ治っていない」
「ああ」
「今回は、さらに強くなっているんですね」
「間違いなくな」
リナはアルヴェインの傷ついた翼を見た。
先ほど巻いた布の下から、再び血が滲み始めている。
「一方のあなたは百年前より弱っている。傷が蓄積し、常に弱体化し続けている」
「見れば分かることを言うな」
「そんな状態で、どうやって戦うんですか」
「方法はある」
リナはわずかに安堵しかけた。
しかし、アルヴェインの声には、生き延びる者の響きがなかった。
「どんな方法ですか」
「俺の命をかけて月へ押し返す」
リナはしばらく、その意味を理解できなかった。
「命を……?」
「竜の生命そのものを楔にすれば、ノクタルを異界の奥まで押し戻せる」
「それをしたら、あなたはどうなるんですか」
「死ぬ」
火の中で薪が崩れた。
赤い火の粉が夜気へ舞い上がる。
リナはアルヴェインの顔を見た。
冗談を言っている様子はない。
「本当に死ぬんですか」
「ああ」
「それで、怪物はずっと封じられる?」
「いや」
アルヴェインは平然と答えた。
「もって十二年だ」
「十二年だけ?」
「ああ」
「では、その次は?」
「再び封印が弱まる。その周期が変わることはない」
「誰が戦うんですか」
「誰もいないだろうな」
リナの胸の中で、何かが冷たく固まった。
「それでは、十二年後にそのノクタルって怪物がこの世に解放されるじゃないですか」
「そうなるな」
「そうなるな、ではありません!」
リナは立ち上がった。
「今回だけ村を救って、そのあと滅びるのを放っておくつもりなんですか」
「十二年あれば、村人どもも土地を捨てられる」
「誰が危険を伝えるんですか」
「お前が伝えればいい。俺は村の結末には興味がない」
リナは言葉を失った。
村の結末に興味がないという言葉に裏はなさそうだった。ここまでカウンセリングすることなく素直に山を下りてしまっていたら、いったいどうなっていたことやら。この竜はそんなことすら考えていないのだ
「そんな話を、誰が信じると思っているんですか」
「信じるかどうかは人間の問題だ」
「無責任です」
アルヴェインの目が鋭くなる。
「何だと」
「だって、そうでしょう。あなたが死ねば、今夜だけは助かる。でも十二年後には村だけでなく、町も国も危険になる。それで役目を果たしたつもりなんですか」
「俺にできるのは、今夜ノクタルを止めることだけだ」
「ほかの方法を探せばいいでしょう!」
「ない」
「全部試したんですか」
アルヴェインの尾が岩を打った。
山頂全体が低く震える。
「今日ここへ来たばかりの娘が、何を知ったような口を利く」
「何も知りません!」
リナは恐怖で震えながらも叫び返した。
「だから聞いているんです。何も知らないまま、あなたが死ぬのを仕方がないと思いたくないから!」
「俺の生死は、お前には関係ない」
「あなたは私の患者です」
「まだ言うか」
「治療を受けた人を、死ぬと分かって放っておける薬師はいません」
アルヴェインは目を細めた。
だが、リナを追い払うことも、怒鳴ることもしなかった。
しばらく火の音だけが二人の間に流れた。
リナは拳を握った。
「どうして、そこまでして村を守るんですか」
アルヴェインの表情が変わった。
「人間が好きだから、ではないですよね」
「当然だ」
「村の人たちはあなたを怪物だと思っている。このまま村を守り続けていても、誰からも感謝されることはない。ただ、憎まれ続けるだけ。それでも命を懸ける理由は何ですか」
アルヴェインは、白い月から目をそらさなかった。
「約束したからだ」
「誰と?」
しばらくの沈黙のあと、竜は答えた。
「勇者とだ」
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