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第6話 情けは

北側の石段へ向かおうとして、リナは足を止めた。

 岩の上へ落ちた血が、細い筋となって流れている。

 一滴、二滴という量ではない。

 アルヴェインが息をするたび、裂けた翼の付け根から新しい血が滲み出していた。

「その傷、いつから開いているんですか」

 返事はなかった。

 アルヴェインは岩へ頭を伏せ、目を閉じたままだった。

「聞こえていますよね」

「行けと言ったはずだ」

「質問に答えてください」

「お前には関係ない」

 リナは抱えていた鱗を地面へ置いた。

 アルヴェインの片目が開く。

「何をしている」

「傷を見ます」

「必要ない」

「必要がない傷から、そんなに血は出ません」

「人間の基準で竜を診るな」

「竜だろうと、血を失えば弱るでしょう」

 アルヴェインは低く唸った。

 大気が震え、足元の小石が転がる。

 リナの身体は反射的に竦んだ。

 竜が牙を見せれば、人間など一瞬で引き裂かれる。

 今すぐ鱗を拾い、言われたとおり町へ向かうべきなのかもしれない。

 それでも、リナの目は傷口から離れなかった。

 黒ずんだ血。

 腫れ上がった皮膚。

 鱗の隙間に入り込んだ土と、小さな虫。

 まともな手当てを受けた傷ではなかった。

「怖くないのか」

 アルヴェインが尋ねた。

「怖いです」

 リナは正直に答えた。

「今も、すごく怖いです」

「ならば近づくな」

「でも、怪我をしている人を見捨てるほうが嫌です」

「俺は人ではない」

「そこは今、どうでもいいです」

 アルヴェインの瞳がわずかに細くなった。

「薬師は、相手が人間でなければ治療しないのか」

「家畜も診ます。猟師が連れてきた猟犬も手当てしました」

「俺を犬と同じにするな」

「患者としては同じです」

「患者になった覚えはない」

「今なりました」

 リナは言い切った。

 アルヴェインはしばらく彼女を見つめていた。

 やがて、諦めたように鼻から長く息を吐く。

「勝手にしろ」

「はい。勝手にします」

 許可を得たと受け取り、リナは白い衣装の裾を持ち上げた。

 まず、傷を洗うための水が必要だった。

 山頂を見回すと、石柱の向こう側から細い水音が聞こえる。岩の割れ目から湧き出した水が、小さな流れを作っていた。

 リナは供物の中から酒壺を選び、中身を別の器へ移した。

「何をしている。せっかくの酒が」

「水を汲む器を作っています」

「酒でいいだろう」

「傷口にそのまま酒を掛けたら、痛いですよ」

「痛みなど気にせん」

「私が気にします」

 壺を洗い、水を汲む。

 次に必要なのは、傷の熱を取り、腐りを防ぐ薬草だった。

 リナは周囲の斜面を見回した。

 標高の高い月冠山には、村の近くでは見かけない植物が多い。薬師として何度か中腹まで採取に来たことはあるが、山頂へ入ったのは初めてだった。

 岩陰に、細長い銀色の葉が群生している。

 リナは膝をつき、葉の裏を確かめた。

「銀針草……これなら炎症を抑えられる」

 その隣には、肉厚の赤い茎を持つ止血草もあった。

 少し離れた場所では、白い小さな花が霧の中に揺れている。

 月白花だった。

 月の光が強い場所にだけ咲く花で、花弁を潰した汁には痛みを和らげ、傷の治りを早める作用がある。

 村の周辺では珍しく、リナも乾燥させたものを少量しか持っていなかった。

 ここでは、石の隙間を埋めるほど咲いている。

「こんなにたくさん……」

「必要なら持っていけ」

 アルヴェインが言った。

「あなたの傷に使うんです」

「好きにしろ」

 リナは月白花を摘み、銀針草、止血草とともに布へ包んだ。

 供物として運ばれてきた穀物の袋には、粗い布が何枚も使われている。清潔とは言い難いが、煮沸すれば傷当てにできる。

 酒も役に立つ。

 飲ませるためではなく、道具や布を洗うためだ。

 村人たちは何のために供物を運んでいるのか理解していなかったが、結果として治療に必要なものが揃っていた。

 リナは石の上へ乳鉢代わりの平たい器を置き、薬草を潰し始めた。

 白い花弁と銀色の葉が混ざり、青白い汁が滲み出す。

「少し苦い匂いがしますけど、口に入れる薬ではないので我慢してください」

「俺に説明する必要があるのか」

「患者には、これから何をするのか説明するものです」

「そうかそうか。そろそろ俺は眠るぞ」

「眠らないでください」

「なぜだ」

「傷が深いので、意識があるか確認したいんです」

「うるさい薬師だ」

「よく言われます」

 実際には、言われたことはなかった。

 村人たちはリナの指示によく従った。薬師が一人しかいない以上、逆らう者も少なかった。

 アルヴェインのように、治療を受けながら文句を言い続ける患者は初めてだった。

 薬草を潰し終えると、リナは傷へ近づいた。

 そばで見ると、竜の巨体はさらに圧倒的だった。

 一枚の鱗だけでも、リナの胸ほどの大きさがある。

 前脚は古木の幹より太く、爪の先端は短剣のように鋭い。

 リナが近づくたび、アルヴェインの呼吸によって髪と衣装が揺れた。

「動かないでください」

「お前程度の力で、俺を押さえられると思うか」

「思いません。だから頼んでいます」

 まず、裂けた翼の傷口を水で洗う。

 乾いた血と泥が流れ落ちると、その下から深い裂傷が現れた。

 リナは息をのんだ。

 皮膚だけではない。

 翼の膜は大きく裂け、その奥の骨にまで黒い傷が達している。

「これは、いつの傷ですか」

「前の戦いだ」

「前というのは?」

「十二年前だ」

 リナの手が止まった。

「十二年前?」

「ああ」

「それから一度も塞がっていないんですか」

「飛べれば問題ない」

「問題だらけです。こんな状態で飛べるわけないでしょう」

 傷の縁は硬くなり、その一部には膿が溜まっている。

 塞がりかけるたびに裂けてきたのだろう。

 十二年間、まともな治療もなく、この状態で過ごしてきた。

 リナは傷口を洗いながら、眉を寄せた。

「痛みますか」

「その程度で騒ぐほど弱くない」

「痛むんですね」

「聞いていたか」

「痛くないとは言いませんでした」

 アルヴェインが尾を一度、岩へ叩きつけた。

 鈍い音が山頂へ響く。

 リナは肩を跳ねさせたが、治療をやめなかった。

「次に薬を塗ります。少し染みます」

「ふん、勝手にしろ」

 月白花を混ぜた薬を傷へ塗った瞬間、アルヴェインの翼が大きく震えた。

 突風が起こり、リナは足を滑らせた。

「きゃっ」

 身体が岩場へ倒れかける。

 その直前、巨大な鉤爪がリナの前へ差し出された。

 リナは反射的にそれへしがみついた。

 アルヴェインの爪は硬く、冷たかった。

「動かないでくださいと言いました!」

「お前の薬が痛い」

「先に染みると言いました!」

「これほどとは聞いていない」

「竜がその程度で騒がないでください」

「先ほど、痛みを我慢する必要はないと言っただろう」

「騒いで落としかけていいとは言っていません!」

 リナは爪から降り、白い衣装についた土を払った。

 アルヴェインは何も言わなかった。

 だが、わずかに顔を背けた様子が、叱られた子どものように見えた。

 リナは笑いそうになり、慌てて口元を引き締める。

 恐ろしい竜であることに変わりはない。

 爪を一度振るえば、自分など簡単に潰せる。

 それでもアルヴェインは、倒れそうになったリナを咄嗟に支えた。

 少なくとも、彼女を傷つける意思はない。

 そう考えると、先ほどまで全身を支配していた恐怖が、わずかに薄らいだ。

 翼の治療を終えると、次は胸元の黒い侵食を調べた。

 そこへ近づくには、アルヴェインの前脚へ登らなければならない。

「少し登ります」

「何をするつもりだ」

「胸の傷を見ます」

「触るな」

「どうしてですか」

「薬草でどうにかなるものではない」

「見なければ分かりません」

 アルヴェインは明らかに嫌そうな顔をした。

 それでも、リナを振り払うことはなかった。

 リナは大きな鱗の縁へ指を掛け、一段ずつ登っていく。

 鱗の間には古い血と泥が溜まり、ところどころに細い棘が生えていた。

 人間の身体を診るのとはまるで違う。

 山の斜面を登りながら治療しているようだった。

 途中で足を滑らせると、アルヴェインの前脚がわずかに傾き、リナが登りやすい角度へ変わった。

「ありがとうございます」

「動いたほうが早く終わると思っただけだ」

「そういうことにしておきます」

「何だ、その言い方は」

 リナは返事をせず、胸元まで登った。

 黒い筋は、傷口から皮膚の下へ広がっていた。

 触れなくても熱が伝わってくる。

 普通の炎症ではない。

 その黒い部分だけ、何か別の生き物が脈打っているようだった。

 リナが手を近づけると、指先が痺れた。

 慌てて引っ込める。

「これは毒ですか」

「呪いだ」

「誰に?」

「月の怪物に」

「月の怪物……?」

 すかさず問い返したが、それ以上をアルヴェインは語ろうとしなかった。

 リナは黒い侵食を避け、その周囲の傷だけを洗った。

 鱗の一部は根元から腐りかけている。

 抜かなければ新しい鱗が生えないが、今無理に外せば大量に出血する可能性がある。

「この鱗は、今は触りません」

「好きにしろ」

「でも、いずれ処置が必要です」

「いずれなどない」

 アルヴェインの声が低くなった。

 リナはその言葉の意味を尋ねようとしたが、今は治療を優先した。

 胸元を終えると、背中、首、前脚へ移る。

 鱗の間を登っては降り、地面で薬を作り直し、また登る。

 昼近くに始めた治療は、太陽が傾いても終わらなかった。

 アルヴェインの身体には、それほど多くの傷があった。

 十二年前の傷だけではない。

 翼の根元には、さらに古い傷がある。

 白く盛り上がった皮膚の上へ新しい傷が重なり、その上から別の傷が走っている。

「これは十二年前より前ですね」

 リナが言うと、アルヴェインは片目を閉じた。

「そうかもしれん」

「その前の月返しの年?」

「おそらくな」

「その前の傷もあります」

「いちいち数えていない」

「数える必要がないくらい、何度も怪我をしたんですね」

 返事はなかった。

 リナは傷跡へ薬を塗りながら考えた。

 十二年ごとに生贄が送られてきた。

 同じ十二年ごとに、この竜は何かと戦い、傷ついてきたのではないか。

 村人が月を食べる怪物だと恐れている間、アルヴェインは人知れず別の何かと戦っていた。

 まだ確かなことは分からない。

 けれど、目の前の傷だけは嘘をつかない。

 誰かを食らい、山で安穏と暮らしてきた生き物の身体ではなかった。

 夕暮れが近づく頃、リナは最後の布を傷口へ巻きつけた。

 竜の巨体に対して布はあまりにも小さい。何枚も結び合わせ、どうにか固定する。

「終わりました」

 リナはアルヴェインの背中から降りた。

 何度も登り降りしたため、腕も脚も震えていた。

 白い衣装は泥と血と薬草の汁にまみれ、花冠はとうにどこかへ落としている。

 清められた竜の花嫁の面影は、もうどこにもなかった。

 アルヴェインは翼をわずかに動かした。

 傷口を覆う布を見て、眉をひそめる。

「格好が悪い」

「見た目より治療を優先してください」

「俺の身体に、穀物袋を巻きつける人間は初めてだ」

「光栄です」

「褒めていない」

 リナは石へ腰を下ろした。

 疲労で指先に力が入らない。

 アルヴェインが彼女を見下ろす。

「満足したか」

「まだです」

「まだ何かするのか」

「明日、傷を見直します。熱が下がっていなければ薬を変えます」

「明日?」

「一晩で治ると思っているんですか」

「町へ行け」

「傷が落ち着いてからです」

「お前は逃げるためにここへ来たのではないのか」

「生贄として来ました」

「それは勘違いだったと分かっただろう」

「分かりました。でも、薬師であることまで勘違いだったわけではありません」

 リナはアルヴェインを見上げた。

「患者をこんな状態で置いていけません」

「俺は患者ではない」

「治療を受けた時点で患者です」

 アルヴェインは深く息を吐いた。

 霧が大きく揺れる。

「人間は、皆お前のように面倒なのか」

「いいえ。私だけかもしれません」

「そうであってほしいものだ」

 言葉は相変わらず尊大で、愛想もない。

 だが、リナを追い払うために咆哮することも、爪で脅すこともしなかった。

 治療が痛くても、彼女を振り落とさないよう身体を動かさずにいた。

 足を滑らせれば支え、登りにくければ前脚の角度を変えた。

 乱暴な言葉とは裏腹に、その行動は注意深かった。

 リナはようやく理解し始めていた。

 アルヴェインは人間が嫌いなのだろう。

 信用もしていない。

 それでも、人間を理由もなく傷つける存在ではない。

 少なくとも、リナが教えられてきた、人を食らう邪悪な竜ではなかった。

「アルヴェイン」

「何だ」

「今日は、ここにいてもいいですか」

「好きにしろ」

「追い出さないんですね」

「動けなくなった人間を山へ放り出せば、寝覚めが悪い」

「優しいんですね」

 アルヴェインの尾が岩を叩いた。

「その言葉を二度と使うな」

 低い声に脅されても、もう最初ほど恐ろしくはなかった。

 リナは小さく笑った。

 アルヴェインは不機嫌そうに顔を背ける。

 山頂に夕日が差し込み、傷ついた竜の残された鱗を照らした。

 血と泥の下に隠れていた銀色が、わずかに輝いた。

 醜い怪物だと思っていた姿の奥に、本来どのような竜がいたのか。

 リナは初めて、知りたいと思った。


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