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第5話 自由の刑

 石段を登るたび、霧の奥に横たわる影が大きくなった。

 初めは山肌の一部にしか見えなかったものが、次第に頭と胴体、折り畳まれた翼の形へ分かれていく。

 リナは立ち止まりそうになる足を、何度も無理に前へ出した。

 霧が薄れ、山頂の全景が見える。

 そこは、周囲を切り立った岩壁に囲まれた広い窪地だった。

 中央には、古い石柱が円を描くように並んでいる。どの柱にも見たことのない文字が刻まれていたが、半数以上は砕け、黒い蔦のようなものに覆われていた。

 その石柱の内側に、竜はいた。

 リナが幼い頃から聞かされてきた竜の姿は、山を覆うほど大きな翼と、月光をはじく美しい鱗を持つものだった。

 鋭い角を冠のように生やし、一度吠えれば雲を吹き飛ばす。

 人間など、見るだけで平伏するほど威厳に満ちた存在。

 目の前にいるものは、そのどれとも違っていた。

 竜の鱗は、あちこちが剥がれ落ちていた。

 本来は銀色だったのだろうか。わずかに残った鱗は、汚れと血に覆われながらも、霧の隙間から差し込む光を淡く反射している。

 頭部から伸びる二本の角は、片方が根元近くで折れていた。

 もう片方にも深い亀裂が入り、先端が黒く変色している。

 背中に畳まれた翼は片方が大きく裂け、骨組みの一部がむき出しになっていた。傷口は乾ききらず、黒ずんだ血が薄い膜となってこびりついている。

 全身に無数の傷跡があった。

 古く白くなったもの。

 まだ赤く腫れているもの。

 何度も裂けては塞がったらしい、盛り上がった傷。

 そして、胸から首にかけては、黒い染みのようなものが皮膚の下へ広がっていた。

 それは単なる傷ではなかった。

 生き物の血管を逆向きに這うように、黒い筋が脈打っている。

 竜が息をするたび、その黒い部分から微かな煙が立ちのぼった。

 美しいとも、神聖だとも思えなかった。

 村を守る守護者などではない。

 長い間、山の奥で腐り続けてきた醜い化け物。

 それが、リナの抱いた最初の印象だった。

 竜の頭が、ゆっくりと持ち上がった。

 岩よりも大きな顎が動く。

 喉の奥から漏れた呼吸が、霧を吹き散らした。

 リナは反射的に一歩後ずさりした。

 竜の片目は、黒く濁って閉じられていた。

 残された一方の瞳だけが、リナを見つめている。

 淡い青色の瞳だった。

 その目には飢えも歓喜もなく、ただ深い疲労と、わずかな苛立ちが浮かんでいた。

「またか」

 声がした。

 地面が鳴ったのかと思うほど、低く響く声だった。

 リナは息を止めた。

 竜が、人の言葉を話した。

「聞こえなかったか」

 竜は面倒そうに続けた。

「また、くだらぬものを寄越したのかと訊いている」

 くだらぬもの。

 その言葉が、自分を指しているのだと理解するまで少し時間がかかった。

 恐怖の中に、わずかな怒りが生まれた。

「私は、ものではありません」

 声は震えていた。

 それでもリナは言い返した。

「名はリナです」

 竜は片目を細めた。

「名など聞いていない」

「それでも、私は供物でも、くだらないものでもありません」

「ならば、なぜその格好でここへ来た」

 竜の視線が、リナの白い衣装と花冠をなぞった。

 言葉に詰まる。

 自分で望んで来たわけではない。

 だが、最後には自分で受け入れた。

 リナが答えられずにいると、竜は興味を失ったように頭を地面へ戻した。

「道を引き返せ」

「え……?」

「村へ戻りたければ戻れ。戻れないなら、山の向こうへ行け」

 リナは竜の言葉を理解できなかった。

 食べるために呼び寄せた娘へ告げる言葉ではない。

「私を、食べないんですか」

 竜の眉間に深い皺が寄った。

「なぜ俺がお前を食わねばならない」

「だって、私は竜の花嫁として――」

「知らん」

 竜は吐き捨てるように言った。

「花嫁を迎えた覚えも、人間の娘を寄越せと言った覚えもない」

「嘘です」

 リナの口から、反射的に言葉が出た。

 竜の瞳が再び彼女へ向けられる。

 その視線だけで、リナの膝が震えた。

 だが、ここまで来て黙ることはできなかった。

「十二年ごとに、村から娘が送られています。誰も帰ってきていない。あなたが食べたからでしょう」

「食っていない」

「それなら、みんなどこへ行ったんですか」

「山を越えた」

 竜は、あまりにも簡単に答えた。

「この山の北側を下って、休まずに歩けば半日ほどでカルディアという町へ着く。そこへ行かせた」

 リナは首を振った。

「そんな話、聞いたことがありません」

「村へ戻らなかった者の話を、村で聞けるはずがないだろう」

「でも、どうして誰も戻ってこなかったんですか。生きていたなら、真実を伝えられたはずです」

「お前は戻りたいのか」

 不意に問われ、リナは言葉を失った。

「村へ戻り、竜に食われなかったと告げれば、連中は喜んで迎えるのか」

 リナは、広間に集まった村人たちの顔を思い出した。

 自分が生贄を受け入れたことで、安堵していた者たち。

 儀式を止めようとしたマティアスを、村の敵として拘束した者たち。

 もし今、リナが生きて村へ帰ったら。

 竜に捨てられたと考えるだろうか。

 役目を果たさず逃げたと責めるだろうか。

 あるいは、もう一度山へ送り返すだろうか。

「それは……」

「これまで来た娘たちも、最初は同じ顔をした」

 竜の声には、嘲りよりも疲れが滲んでいた。

「帰りたいと言った者もいた。だが、自分が戻れば別の娘が送られると気づき、最後には誰も戻らなかった」

 リナは胸を押さえた。

 まるで、自分の考えを言い当てられたようだった。

「皆、町へ行ったんですか」

「少なくとも、山を下りるまでは見届けた」

「魔獣は?」

 月冠山の奥には、人間を襲う獣や魔物が棲んでいる。

 村人でさえ、山頂へ向かうときは大勢で固まって歩く。若い娘が一人で越えられるような場所ではない。

 竜は前脚をわずかに動かした。

 その動きに合わせて、地面に落ちていた何かがリナの足元へ滑ってきた。

 一枚の鱗だった。

 リナの両手よりも大きい。

 表面は傷つき、縁の一部が欠けているが、汚れの下には淡い銀色が残っている。

「持っていけ」

 リナは鱗と竜を交互に見た。

「これは……」

「俺の鱗だ」

「見れば分かります」

「ならば話が早い」

 竜は苛立ったように鼻から息を吐いた。

「鱗には俺の匂いと魔力が残っている。この山の魔獣で、それを嗅いで近づくほど愚かなものはいない」

 リナは恐る恐る鱗へ手を伸ばした。

 表面は冷たいと思っていたが、わずかに温かかった。

 手のひらに触れた瞬間、指先から腕へ、微かな震えのようなものが伝わる。

 力。

 弱っていてもなお、人間とは比べものにならない力が鱗一枚に残っている。

「これまでの娘にも、同じものを?」

「渡した」

「全員に?」

「何度同じことを言わせる」

 竜はうるさそうに目を閉じた。

「道も教えた。食料も持たせた。供物とやらは、その程度には使い道があった」

 リナは山道に残された酒や穀物を思い出した。

 竜を鎮めるための供物だと思っていた。

 実際には、村から追い出された娘たちが、町へたどり着くまでの食料になっていたのだ。

「では、本当に……誰も食べていないんですね」

 竜の目がゆっくりと開いた。

「お前は、人間を食うのか」

「食べません」

「俺も同じだ」

 リナは思わず口を閉じた。

 竜の巨体。

 鋭い牙。

 裂けた翼と、黒い呪いに侵された身体。

 どこから見ても恐ろしい怪物だった。

 それでも、その怪物は、十二年ごとに送られてきた娘を一人残らず逃がしていた。

 安全に山を越えるための鱗を渡し、食料まで持たせて。

 村人たちが、竜は娘を食べたのだと信じている間も。

「どうして、村へ説明しなかったんですか」

 リナは尋ねた。

 竜の瞳に、瞬間的に鋭い光が宿った。

「説明したところで、何になる」

「少なくとも、生贄を送る必要がないと分かります」

「人間は、自分が信じたいものしか信じん」

 竜は低く答えた。

「以前、俺を殺しに来た者へ話したこともある。娘を救いに来たと叫ぶ者にもな。だが、俺が口を開けば呪いだと騒ぎ、近づけば襲われたと逃げ帰る」

「だから、諦めたんですか」

 竜は答えなかった。

 それ以上話すつもりはないらしい。

 リナは足元の鱗を抱え上げた。

 見た目よりも重い。

 胸へ抱えると、白い衣装の上に土と黒い血の汚れがついた。

 清められた花嫁の衣装が、初めて自分のものになったような気がした。

「北側の石段を下りろ」

 竜が告げる。

「途中で道が二つに分かれる。川の音がする方へ進め。夜になる前に森を抜けられる」

「あなたは?」

「俺はここにいる」

「ずっと?」

「お前には関係ない」

 竜は再び目を閉じた。

 その息遣いは、先ほどよりも苦しそうだった。

 胸が上下するたび、黒い筋が脈打つ。

 裂けた翼の下から、まだ乾いていない血が岩の上へ落ちた。

 ぽたり。

 もう一滴。

 リナは鱗を抱えたまま、その血を見つめた。

「名前を教えてください」

 竜は目を開かなかった。

「必要ない」

「私は名乗りました」

「勝手に名乗っただけだ」

「それでもです」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて竜は、深く息を吐いた。

「……アルヴェイン」

「アルヴェイン」

 リナはその名を繰り返した。

 竜の耳が、わずかに動いた。

「覚える必要はない。二度と会うこともない」

 アルヴェインはそう言って、頭を岩の上へ伏せた。

「行け、リナ」

 今度は、彼もリナの名前を呼んだ。

 リナは北へ続く道を見た。

 あの先へ行けば、自分は自由になれる。

 カルディアの町で、誰にも生贄と呼ばれずに生きられるかもしれない。

 それなのに、足は動かなかった。

 目の前には、十二年前の傷さえ塞がっていない竜がいる。

 人を食らう怪物ではなく、娘たちを逃がし続けてきた竜。

 そして今、その身体からは、薬師であるリナが見過ごすことのできない量の血がぽたり、ぽたりと流れていた。

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