第4話 鐘は三度鳴る
月返しの儀の日は、雲一つない朝だった。
空は澄み渡り、夜になれば満月がよく見えるだろうと、誰かが言った。
それを吉兆と呼ぶ者もいた。
リナには、処刑の日の空が美しいというだけのことに思えた。
夜明け前から、月返しの御堂には村人たちが集まっていた。
リナは白い衣装を着せられ、髪には新しい花冠を載せられていた。数日間の清めによって薬草に触れることも、村人と言葉を交わすことも禁じられたため、指先には土も薬の匂いも残っていない。
両手は胸の前で組まされ、白い布で緩く結ばれていた。
逃げ出さないための拘束ではないという。
竜の花嫁が山へ向かうまで、俗世のものへ触れないための作法なのだと、老女たちは説明した。
けれどリナには、自分が一人ではどこへも行けないようにされているとしか思えなかった。
御堂の前には、長い行列が作られていた。
先頭には村長グスタフと長老たちが立ち、その後ろに祈りの言葉を唱える老人たちが続く。
さらに、酒樽を担ぐ男たち、穀物を詰めた袋を運ぶ若者たち、籠いっぱいの花を抱えた女たちが並んでいた。
肉を包んだ布。焼いたパン。乾燥させた果実。薬草の束。銀糸を織り込んだ布。
それらはすべて、竜へ捧げる供物だという。
リナは、なぜ人を食らう怪物に穀物や薬草まで必要なのだろうと思った。
幼い頃から目にしてきた儀式でありながら、その意味を真剣に考えたことはなかった。
村人たちも同じなのだろう。
古くからそうしてきたから、今年も同じものを運ぶ。
理由を尋ねる者はいない。
それらがかつて、十二年ごとの戦いを終えた竜へ、村人たちが感謝と労いを込めて贈ったものだったことを、今の彼らは誰も知らなかった。
現在では、酒も穀物も花も、竜の花嫁に添える飾りでしかない。
「出立する」
グスタフの声が響いた。
村人たちが一斉に頭を下げる。
鐘が三度鳴らされた。
低く、重い音がフェルナ村の家々へ広がっていく。
リナは老女に背中を押され、行列の中へ入った。
道の両側には、村人たちが並んでいた。
年寄りも、子どもも、畑仕事へ向かうはずだった男たちも、全員がリナを見送っている。
祈る者がいた。
涙を流す者もいた。
けれど、列から飛び出してリナを引き止める者はいなかった。
「村をお守りください」
「どうか竜の怒りを鎮めておくれ」
「立派に役目を果たすんだよ」
次々に声がかけられる。
そのどれもが、リナへ向けられているようで、実際には自分たちの無事を願う言葉だった。
リナは黙って歩いた。
御堂を出るとき、納屋のほうへ視線を向けた。
聖光教会の巡回司祭であるマティアスは今も、あの中に閉じ込められているはずだった。昨日から食事も水も与えられているのか分からない。それでも、彼の姿は見えなかった。
君は死ぬために生まれたんじゃない。
あの言葉を思い出した途端、足が止まりそうになった。
しかし、前を歩く老女が振り返る。
「どうしたんだい」
「……何でもありません」
リナは再び歩き出した。
村の外へ出ると、道は緩やかな上り坂になった。
月冠山へ続く唯一の山道である。
山の裾には畑が広がっていたが、少し登れば木々が密集し、昼間でも薄暗くなる。
村の鐘の音が遠ざかっていく。
代わりに、風に揺れる葉の音と、行列の足音だけが耳へ届いた。
最初のうち、村人たちは小声で話していた。
今夜の月のこと。
今年の収穫のこと。
儀式が無事に終われば、明日は村中で酒を飲もうということ。
まるで祭りへ向かうような会話だった。
だが、山を登るにつれて、誰も口を開かなくなった。
木々の間に白い霧が現れ始めたからだった。
はじめは地面を這う程度だった霧が、道を進むほど濃くなっていく。
足元の石が見えにくくなり、前を歩く者の背中さえ、白い靄の向こうへぼやけていった。
鳥の声が消えた。
虫の羽音も聞こえない。
山全体が息を潜め、行列が近づくのを待っているようだった。
「昔から、ここより先では声を出してはならない」
長老の一人が、囁くように言った。
「竜を刺激する」
その言葉を聞き、供物を運ぶ若者たちがさらに顔を強張らせた。
酒樽を担ぐ男の腕が震え、樽の中で液体が揺れる音がした。
リナは前方を見つめた。
霧の向こうに、月冠山の頂がある。
そこに竜がいる。
十二年ごとに若い娘を食らい、月を飲み込む怪物。
そう教えられてきた。
だが、本当にそうなのだろうか。
マティアスは、誰も確かめたことがないと言った。
生贄を捧げなければ何が起きるのか。
山へ送られた娘がどうなったのか。
竜が本当に月を食べているのか。
何一つ確かめないまま、村人たちは同じことを繰り返している。
リナ自身も、その一人だった。
霧が一瞬、風に流された。
その先に、巨大な影が見えた。
山肌の一部が動いたのかと思った。
黒く、長く、岩場の向こうへ横たわる何か。
尖った角のようなものが霧の上へ突き出し、その奥で巨大な翼の輪郭がゆっくりと持ち上がった。
誰かが悲鳴を飲み込んだ。
行列が止まる。
供物を担いでいた男たちが、示し合わせたように足を後ろへ引いた。
「いる……」
女の一人が震える声で呟いた。
「竜だ」
影がわずかに動いた。
霧の奥から、低い音が響く。
咆哮ではない。
苦しげな息遣いのようにも聞こえた。
だが、恐怖に支配された村人たちには、それを聞き分ける余裕などなかった。
「ここまでだ」
グスタフが告げた。
行列は、山頂へ続く石段の手前で止まった。
先は霧に包まれ、数歩先も見通せない。
グスタフは男たちへ指示し、酒樽や穀物、花の籠を道の脇へ置かせた。
供物を下ろした者たちは、すぐに列の後方へ下がる。
誰一人として、必要以上に山頂へ近づこうとはしなかった。
老女がリナの手を結んでいた布を解いた。
自由になった両手が、力なく身体の横へ落ちる。
グスタフがリナを見た。
「我々が同行できるのは、ここまでだ」
声は厳かだった。
しかし、その顔には村長としての威厳より、竜への恐怖が強く浮かんでいた。
「ここから先は、一人で進みなさい」
リナは霧の奥を見た。
「誰も、ついてきてはくれないんですか」
答えが分かっていながら、そう尋ねた。
「古い定めだ」
「定めだから?」
「竜の花嫁は、一人で竜のもとへ参らなければならない」
グスタフはそう答えた。
だが、リナには分かっていた。
定めだからではない。
彼らは怖いのだ。
竜が娘をどう食べるのか。
月返しの儀の最後に何が起こるのか。
それを誰も見たくない。
見届ける勇気がないから、定めという言葉を使って逃げるのだ。
リナは村人たちを見回した。
そこには、幼い頃から知っている顔が並んでいた。
薬を渡したことのある者。怪我を手当てしたことのある者。食べ物を分けてくれた者。
誰もリナの目をまともに見ようとしなかった。
グスタフが頭を下げる。
「フェルナ村のため、立派に役目を果たしてくれ」
それを合図にしたように、村人たちが後退した。
一人、また一人と山道を下り始める。
初めは儀式らしく静かに歩こうとしていたが、霧の奥で巨大な影が再び動くと、列は崩れた。
誰かが走り出した。
それにつられて、ほかの者たちも足を速める。
酒樽を運んできた男が何度も振り返りながら坂を下り、花籠を置いた女は裾を持ち上げ、転びそうになりながら逃げていった。
グスタフと長老たちも最後まで残ろうとはしなかった。
やがて霧の中に残されたのは、リナと供物だけになった。
山を下っていく足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなると、あたりは不気味なほど静かになった。
リナは一人、石段の前に立っていた。
逃げようと思えば、まだ追いつけるかもしれない。
走って山を下り、森へ入れば、村人たちの目を逃れられるかもしれない。
だが、その先に行く場所はない。
村へ戻れば捕らえられる。
逃げれば別の娘が選ばれる。
そして、もし本当に生贄が必要なら、フェルナ村は滅びる。
足が震えていた。
膝に力が入らず、白い衣装の裾がかすかに揺れている。
喉が乾き、息が浅くなった。
霧の向こうから、何かがこちらを見ている。
今にも巨大な顎が現れ、自分を丸ごと飲み込むかもしれない。
リナは両腕で身体を抱いた。
震えを止めようとしたが、止まらなかった。
怖い。
死にたくない。
あの司祭――マティアスの手を取ればよかった。
今からでも山を下りればよい。
そんな思いが、頭の中を何度も巡った。
それでも、リナは目を閉じた。
鼻からゆっくりと息を吸う。
薬を調合するときと同じだった。
焦れば量を誤る。
手が震えたままでは、患者を救えない。
一度、深く吸う。
ゆっくり吐く。
もう一度。
胸の奥で暴れていた心臓の音は消えなかったが、少しずつ呼吸だけは整っていった。
リナは最後に、村の方角を振り返った。
霧と木々に遮られ、フェルナ村の姿は見えない。
それでも、ミアの顔が浮かんだ。
苦い薬を飲み、元気になったら一緒に花を摘むと言った少女。
「ごめんね」
小さく呟く。
守れない約束だった。
リナは再び前を向いた。
瞳を開く。
霧の先には、傷ついた巨大な影が横たわっている。
リナは白い衣装の裾を握り、石段へ足をかけた。
まだ身体は震えている。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、逃げずに進むことはできる。
リナは覚悟を決めたように山頂を見据え、一歩ずつ、竜のもとへ歩き始めた。
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