第3話 正義感と針
「ここを開けなさい!」
祭殿の扉が、再び激しく叩かれた。
「人間を生贄にするなど、聖光教会の名において認めるわけにはいかない!」
リナは冷たい床から立ち上がった。
扉の向こうでは、何人もの男たちが言い争っている。
「お引き取りください、司祭さま!」
「これはフェルナ村の問題です!」
「余所者に口を出される筋合いはない!」
「村の問題であれば、村の中で何をしても許されるとでも言うのか!」
聞き覚えのない男の声が、村人たちの怒声を押し返した。
老女たちが慌ただしく祭殿へ入ってくる。
「リナ、奥へ行きなさい」
「何が起きているんですか」
「教会の者が騒いでいるだけだよ。お前が気にすることではない」
老女はそう言うと、リナを祭殿の奥へ押し戻そうとした。
しかし、扉の外から何かが倒れる音がした。
誰かの悲鳴が響く。
次の瞬間、重い扉が勢いよく開いた。
夕方の光とともに、一人の男が祭殿へ踏み込んできた。
三十歳をいくつか過ぎたほどの年頃だろうか。
旅の埃にまみれた灰色の外套をまとい、その下には聖光教会の印である白い法衣が見える。首から下げた銀の輪には、昇る太陽を象った意匠が刻まれていた。
短く切られた茶色の髪は乱れ、額には汗が浮かんでいる。
男の背後では、村の若者たちが倒れた長椅子を起こしながら、祭殿へ入ろうとしていた。
「見つけた」
男は白い衣装を着せられたリナを見て、息をのんだ。
その目には、驚きと怒りが浮かんでいる。
「君が、生贄に選ばれた娘か」
リナはすぐには答えられなかった。
老女が二人の間へ割って入る。
「ここは神聖な祭殿です。すぐにお出なさい!」
「人を殺す準備をする場所が、神聖であるものか」
男は祭殿の壁に描かれた、月を食らう竜の絵を見上げた。
それから、リナへ視線を戻す。
「私は聖光教会の巡回司祭、マティアスだ。近隣の町で、フェルナ村が若い娘を魔物へ捧げているという話を聞いた」
「これは魔物への供物ではありません」
老女が声を荒らげる。
「竜の花嫁です。村を救うための、名誉ある役目なのです」
「ならば、なぜ本人を祭殿へ閉じ込めている」
老女は言葉に詰まった。
マティアスはリナへ一歩近づいた。
「君は自分の意思でここにいるのか」
「それは――」
リナが口を開く前に、祭殿の外からグスタフの声が響いた。
「司祭さま。その娘から離れていただこう」
村長と長老たちが、村の男たちを連れて祭殿へ入ってきた。
ロベルトの姿もある。
グスタフは険しい顔でマティアスを見た。
「先ほども申し上げたはずです。この儀式は、フェルナ村が今日まで生き延びるために必要なものです」
「人を殺すことが必要だと?」
「一人を差し出さなければ、村の全員が死ぬ」
「それを誰が証明した」
「十二年ごとに起きる月の異変が証明している」
グスタフは祭殿の壁画を指した。
「竜が月を食らう夜、作物は枯れ、家畜は怯え、井戸の水は黒く濁る。花嫁を捧げれば、月は空へ戻る。何代にもわたって繰り返されてきたことだ」
「娘を捧げなかった年があるのか」
マティアスの問いに、グスタフは黙った。
「一度も試したことがないのなら、娘を差し出したから月が戻ったとは限らない」
「試して村が滅びれば、責任を取ってくださるのか」
長老の一人が叫んだ。
「教会が畑を実らせてくれるのか!」
「死んだ子どもたちを生き返らせてくれるのか!」
「十二年前の夜を知らぬ者が、勝手なことを言うな!」
村人たちも次々に声を上げる。
マティアスは彼らを見回した。
「恐ろしいからといって、何の罪もない少女を殺してよい理由にはならない」
「殺すのではない!」
グスタフの声が祭殿に響いた。
「竜のもとへ嫁がせるのだ!」
「帰ってきた花嫁はいるのか」
再び、誰も答えなかった。
「一人も戻っていないのであれば、それを死と呼ばずに何と呼ぶ」
祭殿の中に沈黙が落ちた。
リナは胸の前で両手を握りしめた。
マティアスの言葉は、リナ自身が考えないようにしていたことを、あまりにも明確に口にしていた。
竜の花嫁。
名誉ある役目。
村を救った娘として、末永く語られる。
どれほど美しい言葉を重ねても、山へ送られた娘は誰一人として帰っていない。
自分も死ぬのだ。
その事実を、村人たちは別の言葉で覆い隠しているだけだった。
マティアスがリナの前へ立つ。
「名前は?」
「……リナです」
「リナ。ここから出よう」
差し出された手を、リナは見つめた。
「君が望まない限り、誰にも君を差し出す権利はない」
逃げられるかもしれない。
今、この手を取れば、祭殿から出られる。
村の外へ連れていってもらえるかもしれない。
その考えが浮かんだ途端、胸の奥で押し殺していた恐怖が一気に膨れ上がった。
死にたくない。
山へ行きたくない。
竜に食べられたくない。
本当は、ミアと花を摘みに行きたい。
来年も薬草を育て、病人を治し、朝になればいつもの道を歩きたい。
リナの手がわずかに動いた。
マティアスもそれに気づき、もう一歩近づいた。
「大丈夫だ。君を守る」
そのとき、祭殿の入口に立っている少女が目に入った。
エマに抱かれたミアだった。
まだ熱が残っているのか、頬は赤い。母親の肩に寄りかかりながら、不安そうにリナを見ている。
ミアの隣には、村の娘たちが並んでいた。
今年、生贄の条件に当てはまる五人のうち、リナ以外の四人もいる。
家族に抱かれ、怯えた顔でこちらを見ている。
自分が逃げたら、次は誰が選ばれるのだろう。
村長たちは、儀式そのものを諦めるとは思えない。
リナより一つ年下の娘か。
婚約を控えている娘か。
それとも、村の決定へ反対しにくい別の誰かか。
マティアス一人がリナを助けても、月返しの儀はなくならない。
ただ生贄が入れ替わるだけだ。
リナは差し出された手から目をそらした。
「行けません」
「何を言っている」
「私が逃げたら、別の人が選ばれます」
「ならば儀式そのものを止める」
「止まりません」
リナはグスタフたちを見た。
誰も否定しなかった。
「村の人たちは、本当に竜が月を食べると思っています。生贄を出さなければ、村が滅びると思っているんです」
「それが迷信だと言っている」
「迷信かどうかなんて、誰にも分からないでしょう」
自分で口にしながら、リナは苦しくなった。
「もし本当に村が滅びたら?この子たちが死んだら?私だけが逃げたせいで、みんなが死んだら……私はどうすればいいんですか」
「だからといって、君が死ぬ必要はない」
「でも、誰かが行かなければならないんです」
「誰も行く必要などない!」
マティアスの声が大きくなる。
リナは肩を震わせた。
マティアスはすぐに表情を和らげた。
「すまない。君を責めているのではない」
その声には、怒りよりも痛ましさがあった。
「君は、自分が犠牲になればすべて収まると思わされているだけだ」
「思わされているんじゃありません」
リナは言った。
だが、自分の言葉が本当なのか分からなかった。
「私は、自分で決めました」
「自分で選んだというなら、どうしてそんな顔をしている」
リナは反射的に頬へ触れた。
どのような顔をしているのか、自分には分からない。
泣いてはいない。
取り乱してもいない。
潔く受け入れているつもりだった。
マティアスには、そう見えていないらしい。
「怖いに決まっています」
リナは小さく答えた。
「死にたくないです。でも、だからって代わりの人を送ることもできません」
「ならば私と一緒に来なさい。教会へ助けを求める。領主にも訴える。村の者が君を追うなら、私が――」
「もう十分です」
グスタフが二人の会話を遮った。
「司祭さまにはお引き取りいただく」
「この娘を置いていくつもりはない」
「ならば、力ずくでも退いていただく」
村の男たちが前へ出た。
マティアスはリナを背後へ庇い、腰に提げていた杖を抜いた。
武器というより、旅の支えに使う短い木杖である。先端には聖光教会の銀輪が取りつけられていた。
「私は村人を傷つけに来たのではない」
「我々も司祭さまを傷つけたくはありません」
グスタフは答えた。
「ならば退きなさい」
「できない」
最初に動いたのは、村の若者だった。
マティアスの腕をつかもうと飛びかかる。
マティアスは身体をひねって腕をかわし、杖の柄で相手の足を払った。若者は床へ転がったが、すぐに別の二人が左右から襲いかかる。
「やめてください!」
リナの声は怒号にかき消された。
マティアスは一人の手首をつかみ、もう一人を肩で押し返した。
銀輪が淡く光る。
足元から白い光が広がり、迫っていた村人たちが眩しさに目を覆った。
「リナ、今だ!」
マティアスが手を伸ばす。
祭殿の出口まで、数歩しかない。
走れば抜け出せる。
けれどリナは動かなかった。
「何をしている!」
「行けません!」
「ここにいれば殺されるんだぞ!」
「私が逃げたら、別の人が殺されます!」
その一瞬のためらいが、決着をつけた。
後ろから飛びかかった男が、マティアスの両腕を押さえた。
さらに数人が身体へ組みつく。
マティアスは振りほどこうとしたが、相手を傷つけまいとしているため、思うように力を使えない。
「離せ!」
「杖を奪え!」
「押さえろ!」
杖が床へ落ちた。
銀輪の光が消える。
マティアスは五人がかりで床へ押さえつけられた。
頬を石床へ押しつけられながら、それでもリナへ叫ぶ。
「リナ!これは君の義務ではない!」
男の一人がマティアスの背中を殴った。
「黙れ!」
「やめて!」
リナが駆け寄ろうとすると、老女たちに両腕をつかまれた。
「離してください!」
「お前は下がっていなさい!」
マティアスは後ろ手に縛られ、無理やり立たされた。
額を床で切ったのか、こめかみから細い血が流れている。
それでも彼の目は、まっすぐリナへ向けられていた。
「まだ遅くない」
「……ごめんなさい」
リナはそれしか言えなかった。
「謝る必要はない。悪いのは君ではない」
グスタフが男たちへ命じる。
「納屋へ入れておけ。月返しの儀が終わるまで、外へ出すな」
「私は聖光教会の司祭だ。私を拘束すれば、教会が黙ってはいないぞ」
「儀式が終われば解放します。それまでは村の存亡が優先です」
「その儀式で娘が死んでも、同じことが言えるのか!」
グスタフは答えなかった。
マティアスは村人たちに引きずられ、祭殿の外へ連れ出されていく。
扉をくぐる直前、男は首をひねってリナを振り返った。
「君は死ぬために生まれたんじゃない!」
その言葉を最後に、扉が閉められた。
重い音が祭殿に響く。
外ではまだマティアスの声が聞こえていたが、それも次第に遠ざかっていった。
老女たちは倒れた長椅子を戻し、散らばった花びらを拾い始めた。
まるで、今の出来事などなかったかのように、清めの準備を続けていく。
リナはその場に立ち尽くしていた。
祭殿の床には、マティアスが流した血が一滴だけ残っている。
人の血や病に触れることは穢れだと、老女は言った。
けれど、リナには今、自分を救おうとした人の血よりも、この祭殿に満ちた白い花の香りのほうが、ずっと恐ろしいものに感じられた。
「さあ、奥へ戻りなさい」
老女が言った。
「悪い夢を見たと思えばいい」
リナは動かなかった。
扉の向こうには、自分を助けようとしたために捕らえられた人がいる。
それでもリナは、差し出された手を取らなかった。
自分で残ると決めた。
そのはずなのに、胸の奥には、何か大切なものを間違えたような感覚が残っていた。
リナは白い衣装の胸元を強く握った。
君は死ぬために生まれたんじゃない。
マティアス司祭の言葉が、いつまでも耳から離れなかった。
評価・ブックマークのほどよろしくお願いします。




