第2話 とても綺麗な手
生贄に決まった翌朝から、リナは薬師ではなくなった。
村長の命を受けた女たちが家を訪れ、薬草の棚や調合道具に白い布を掛けていった。
「月返しの儀が終わるまで、薬に触れてはいけない決まりだからね」
そう説明したのは、祭礼を取り仕切る老女だった。
「竜の花嫁は、俗世の仕事から離れなければならない。人の血や病に触れた手のままでは、お山へ上がれないから」
リナは、乳鉢に掛けられた白布を見つめた。
病は穢れではない。
傷ついた身体へ触れることも、人の命を救うために薬を作ることも、汚れた行いではない。
そう言い返したかった。
しかし老女たちは、すでに決められた手順をこなしているだけだった。リナの言葉で考えを改める様子もない。
「ミアの薬だけは、昨夜のうちに用意しました」
リナは言った。
「熱が上がったときの薬と、息が苦しくなったときの薬で、瓶を分けてあります。量も書いておきました」
「それはロベルトさんのところへ届けておくよ」
「症状が変わったときは、書いてある量をそのまま飲ませないでください。私を呼んで――」
言いかけて、リナは口を閉じた。
もう、自分を呼ぶことはできない。
たとえ儀式まで数日残されていたとしても、薬師の仕事を禁じられた以上、村人は彼女を患者のもとへ行かせないだろう。
老女は、困った子どもを見るような顔をした。
「後のことは、残る者に任せなさい」
その言葉を、リナは昨夜も聞いた。
お前がいなくなった後のことは、こちらで考える。
リナが死んだあとにも、村は続いていく。
その事実を思い知らされるたび、自分の足元だけが少しずつ消えていくようだった。
棚へ白布を掛け終えると、女たちはリナを家から連れ出した。
清めの儀式が終わるまで、リナは村の祭殿で暮らすことになっていた。
村の中央に建つ古い祭殿は、普段は守月祭の道具を収めるために使われている。今では守月祭という呼び名を口にする者はほとんどおらず、ただ「月返しの御堂」と呼ばれていた。
中へ入ると、石造りの床に冷気がこもっていた。
正面の壁には、月をくわえた竜の絵が描かれている。
黒い翼を広げた竜が、白い月へ牙を立て、その下で白衣の娘が跪いている。
幼い頃から何度も見た絵だった。
以前は恐ろしい昔話の一場面としか思っていなかった。
今は、月の下に描かれた娘が自分に見えた。
「こちらへ」
祭殿の奥には、湯気の立つ大きな桶が用意されていた。
湯には白い花びらと香草が浮かべられている。
女たちはリナの衣服を脱がせ、髪をほどいた。
普段なら自分でできると断るところだったが、竜の花嫁は清めの間、自分の身体に勝手に触れてはならないという。
リナは言われるまま、湯の中へ身体を沈めた。
温かいはずの湯が、ひどく冷たく感じられた。
老女たちは、祈りの言葉を唱えながらリナの髪を洗った。
「土の汚れを落とし」
肩へ湯が掛けられる。
「人の世の執着を流し」
腕を香草でこすられる。
「清き身体をもって、月の竜へ嫁ぎたまえ」
嫁ぐ。
その言葉が使われるたび、リナは胸の奥に鈍い痛みを感じた。
結婚する花嫁ならば、式のあとには新しい暮らしが待っている。
家を持ち、家族を持ち、歳を重ねていく。けれど、竜の花嫁に未来はない。戻ってきた者は一人もいない。
村人たちはそれを知りながら、死という言葉を避け、嫁入りという美しい言葉で覆い隠していた。
「痛くないかい」
髪をすいていた若い女が、小声で尋ねた。
リナより二つか三つ年上で、幼い頃には一緒に遊んだこともある娘だった。
「大丈夫」
「そう……」
女はそれ以上何も言わなかった。
助けたいとも、逃げてほしいとも言わない。
ただ、櫛を持つ手がかすかに震えていた。
清めが終わると、リナは真新しい白い衣装を着せられた。
胸元から足首までを覆う長い衣に、銀色の糸で月と花の模様が縫われている。腰には細い組紐が結ばれ、髪には白い花冠が載せられた。
鏡の前へ立たされる。
そこに映っていたのは、いつもの薬師のリナではなかった。
髪には薬草の粉もついていない。指先にも土の汚れはない。腰には薬袋も下がっていない。白く整えられた少女が、青ざめた顔で立っている。
「よく似合っているよ」
老女の一人が言った。
「これほど美しい花嫁なら、竜もきっと満足なさる」
褒められているはずなのに、リナは自分が家畜のように品定めされている気がした。
竜が喜ぶように身体を洗われ、髪を整えられ、美しく飾られる。
ここまで育てた娘を、最も価値のある状態で差し出す。
それが村人にとっての清めなのだ。
祭殿の扉が開かれた。
外には村人たちが集まっていた。
リナの姿を見ると、誰からともなく感嘆の声が漏れる。
「なんて美しい」
「本当に竜の花嫁にふさわしい」
「これで今年も村は救われる」
老女に促され、リナは祭殿の前へ進んだ。
村人たちは次々に彼女の前へやってくる。
畑で採れた野菜を分けてくれた老人。子どもの傷を何度も治療した母親。冬に薪を届けてくれた木こり。
顔を知っている者ばかりだった。
彼らはリナの手を握り、感謝の言葉を口にした。
「村のためにありがとう」
「お前のことは忘れない」
「立派な娘だ」
誰一人として、死なないでほしいとは言わなかった。
リナは微笑み、何度も頭を下げた。
自分でも、どうして笑えているのか分からなかった。
村のために死ぬと決めたのだから、泣いて困らせてはいけない。怖がれば、ほかの娘たちを不安にさせる。潔く受け入れると決めた以上、最後までその役目を果たさなければならない。
そう考えているうちに、リナ自身がどこにいるのか分からなくなっていった。
人々が見ているのは、薬師のリナではない。両親を失い、一人で薬草を覚え、病人を救ってきた十六歳の少女でもない。
彼らが見ているのは、村を救うために用意された竜の花嫁だった。
群衆の後ろに、ロベルトとエマの姿があった。
エマはミアを抱いている。
薬が効いたのか、少女の顔色は朝よりもよくなっていた。まだ少し眠そうではあるが、自分で母親の肩に頭を預けている。
リナの姿を見つけると、ミアは小さく手を伸ばした。
「リナさん」
リナも思わず一歩進みかけた。
しかし、付き添いの老女が腕を押さえた。
「清めのあとは、誰にも触れてはいけないよ」
「でも――」
「竜の花嫁を、人の情で穢してはいけない」
ミアは意味が分からないまま、母親の腕の中でもがいた。
「リナさん。おはな、つみにいくの」
元気になったら、一緒に花を摘みに行こう。
朝、二人で交わした約束だった。
リナは答えようとした。
けれど、声が出なかった。
花を摘みに行く頃には、自分はもうこの村にいない。
それを四歳の少女にどう説明すればよいのか分からない。
リナは無理に笑った。
「うん」
嘘だと分かっていながら、頷いた。
「ちゃんと薬を飲んで、早く元気になるんだよ」
「いっしょに?」
「……そうだね」
エマが顔を歪めた。
ロベルトはリナを見られず、視線を落としている。
老女に促され、リナは祭殿の中へ戻った。
重い扉が閉じられる。
ミアの声も、村人たちの祈りも、厚い扉の向こうへ遠ざかっていった。
清めの儀式が終わるまで、リナはこの祭殿から出ることを許されない。
食事は一日に二度、塩を入れない薄い粥だけ。
会話も必要最低限に限られる。
薬草へ触れることも、村人を治療することもできない。
竜へ捧げられるまで、リナは少しずつ人間の暮らしから切り離されていく。
夕方になると、祭殿の小窓から月冠山が見えた。
細かった月は、数日前よりも確かに満ちている。
あと何日かすれば、白く丸い大満月になる。
その夜、リナは山へ送られる。
祭殿の冷たい床に座り、リナは自分の両手を見つめた。
薬をすり潰してきた手。傷口を縫い、熱に苦しむ子どもの額を冷やしてきた手。
村人たちは、その手を清めたという。
けれどリナには、大切なものをすべて洗い流されてしまったように思えた。
やがて祭殿の外が騒がしくなった。
何人もの男が何かを叫んでいる。
続いて、扉を激しく叩く音が響いた。
「ここを開けなさい!」
聞き覚えのない男の声だった。
「人間を生贄にするなど、聖光教会の名において認めるわけにはいかない!」
リナは顔を上げた。
静まり返っていた祭殿の外で、怒号と足音が一斉に広がった。
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