第1話 竜の花嫁
薬は、正しく使えば人を救う。
けれど、量を少しでも誤れば、たちまち毒になる。
まして、相手が四歳の子どもならば、なおさらだった。
リナは小さな天秤の皿に乾燥させた薬草を載せ、針の揺れをじっと見つめた。ほんのひとかけらを指先で取り除くと、傾いていた針がゆっくりと中央へ戻る。
「これでいい」
誰に聞かせるでもなく呟き、薬草を乳鉢へ移す。
窓の外では、朝の光がフェルナ村の屋根を淡く照らしていた。しかし、村長グスタフの屋敷にあるこの部屋だけは、夜が明けきっていないかのように重苦しい空気に包まれている。
寝台では、幼い少女が浅い呼吸を繰り返していた。
「……おかあ、さん」
「ここにいるわ、ミア」
エマが寝台のそばに膝をつき、娘の小さな手を両手で包み込んでいる。
ミアの頬は熱で赤く染まり、額には汗が浮かんでいた。息を吸うたびに細い喉の奥から、ひゅう、ひゅうと苦しそうな音が漏れる。
傍らに立つ父親のロベルトも、顔を青ざめさせていた。
「リナさん。本当に、大丈夫なんでしょうか」
「昨日と同じ薬では効きません。熱は少し下がっていますけど、今朝は息苦しさのほうが強くなっていますから」
リナは答えながら、乳棒を一定の速さで回し続けた。
熱を下げる薬草は昨日より減らす。代わりに、気道を開き、呼吸を助ける葉を増やす。ただし多すぎれば、今度は幼い心臓へ負担がかかる。
同じ病であっても、昨日と今日では身体の状態が違う。
だから薬師は、処方を書き写すだけでは務まらない。
目の前の患者を見て、触れて、呼吸を聞き、その日の身体に合う量を見極めなければならない。
リナは粉末にした薬草を小鍋へ移し、温めておいた湯を注いだ。木べらで混ぜると、青臭さの中に強い苦みを含んだ匂いが立ちのぼる。
そのままでは、幼いミアには飲めないだろう。
リナは少量の蜂蜜を加えた。
「リナさん、それで苦くなくなる?」
寝台から、か細い声がした。
リナが振り返ると、ミアが熱に潤んだ目でこちらを見ていた。
「苦くなくなる、とは約束できないかな」
「……にがいの、やだ」
「そうだよね。私も苦い薬は嫌い」
「リナさんも?」
「もちろん」
リナは鍋の中身を小さな器へ移し、寝台のそばに腰を下ろした。
「でも、ミアが一口飲むたびに、悪い熱が一つずつ身体から逃げていくの。全部飲めたら、きっと今よりずっと楽になるよ」
ミアはしばらく器を見つめていた。
やがて小さく頷く。
「……のむ」
「偉いね」
リナは少女の背中へ腕を回し、身体をゆっくりと起こした。エマが枕を重ね、その身体を支える。
木匙で薬をすくい、息を吹きかけて冷ましてから、ミアの唇へ運ぶ。
少女は一口飲んだ途端、顔をくしゃくしゃにした。
「にがい……」
「うん。よく飲めたね」
「はちみつ、はいってる?」
「入ってるよ」
「ぜんぜん、わかんない」
弱々しい抗議に、エマが泣きそうな顔のまま笑った。
リナも口元をほころばせる。
「それじゃあ、もう少し蜂蜜を入れておけばよかったかな」
「いっぱい」
「いっぱい入れたら、薬が負けちゃうから駄目」
ミアは不満そうに眉を寄せたが、それでも差し出された二匙目を飲んだ。
三匙目。
四匙目。
途中で何度か咳き込んだものの、ミアは最後まで器を押し返さなかった。
飲み終えた頃には、疲れ果てたようにリナの胸へ額を預けていた。
「もう眠っていいよ」
「……リナさん、帰る?」
「ミアが眠るまではここにいる」
「ほんと?」
「本当」
安心したのか、ミアは目を閉じた。
リナは少女を寝台へ戻し、その胸元へ手を添える。速かった呼吸が、少しずつ長く、深くなっていく。
まだ熱はある。
すぐに治るわけでもない。
それでも先ほどまで喉の奥から響いていた、あの苦しそうな音は弱まっていた。
強張っていたミアの顔から力が抜けていく。
「呼吸が……」
ロベルトが声を漏らした。
「落ち着いてきています。薬が効き始めたんだと思います」
リナはミアの額へ触れた。
「今日はできるだけ眠らせてあげてください。汗をかいたら、身体が冷えないように着替えさせること。水は一度にたくさんではなく、少しずつ飲ませてください」
「分かりました」
「夜になってまた息が苦しそうになったら、すぐに私を呼んでください。時間は気にしなくていいですから」
エマは何度も頷いた。
それから、眠る娘の顔を見つめたまま、震える声で言った。
「この子が今日まで生きてこられたのは、リナさんのおかげです」
「そんなことはありません」
リナはすぐに首を振った。
「私は薬を作っただけです。苦い薬をきちんと飲んで、今まで頑張ってきたのはミアですから」
「それでも、あなたがいなかったら……」
エマはそれ以上、言葉を続けられなかった。
ロベルトが妻の肩を抱き、深く頭を下げる。
「本当に、いつもありがとうございます」
リナはどう答えればよいのか分からず、曖昧に微笑んだ。
感謝されることには、いつまでたっても慣れなかった。
自分は村に養ってもらった身だ。両親を失ったあとも、薬師だった母の家と道具を取り上げられずに済んだ。畑で採れた野菜を分けてもらうこともあれば、冬には薪を譲ってもらうこともある。
だから、村のために働くのは当然なのだと、リナは思っている。
返しきれない恩を、少しずつ返しているにすぎない。
寝台から、小さな手が伸びてきた。眠ったはずのミアが、目を閉じたままリナの指を探している。
リナが人差し指を差し出すと、少女はそれを弱い力で握った。
「……リナさん」
「ここにいるよ」
「おはな……こんど、いっしょに」
そこまで言うと、ミアの声は寝息へ変わった。
体調がよくなったら、一緒に花を摘みに行きたいのだろう。
リナは少女の小さな手を握り返した。
「うん。元気になったらね」
しばらくして、ミアの呼吸は穏やかなものになった。
もう大丈夫だと判断し、リナは静かに指を抜く。立ち上がって薬箱を片づけていると、開いた扉の向こうに村長グスタフの姿があった。
いつからそこにいたのかは分からない。
グスタフは眠る孫娘を見つめ、それからリナへ目を向けた。
「ミアはどうだ」
「薬は効いています。今夜、熱が上がらなければ心配はないと思います」
「そうか」
グスタフは短く答えた。
「世話になった」
「私は薬師として当然のことをしただけです」
リナは薬箱を抱え、頭を下げた。
部屋を出る前に、もう一度だけ寝台を振り返る。
ミアは穏やかな顔で眠っていた。その傍らでは、ロベルトとエマが寄り添い、娘の小さな胸が上下するのを見守っている。
守ってくれる父と母がいる。
病に苦しめば心配し、回復すれば涙を流して喜んでくれる人がいる。
その光景を眩しく感じた理由を、リナは考えないようにした。
屋敷を出ると、朝の光はすでに村全体へ広がっていた。
リナは空になった薬箱を抱え、自分の家へ続く道を歩き始める。
背後では、村長グスタフが黙ったまま、その小さな背中を見送っていた。
◇
その日の夕暮れ、リナは乾燥させた薬草を棚へ戻していた。
西の窓から差し込む赤い光が、狭い仕事部屋を染めている。壁際には薬草を詰めた瓶が並び、天井からは束ねた葉や根が吊り下げられていた。
ミアに飲ませた薬の残りを紙へ包み、瓶の蓋を閉じる。
今夜、熱がぶり返さなければ大丈夫だろう。
明日の朝にもう一度様子を見て、それから薬の量を減らしていけばいい。
そう考えていたとき、玄関の戸が三度叩かれた。
「はい」
返事をして戸を開けると、村長の家に仕える男が立っていた。
朝にも顔を合わせた男だったが、その表情は妙に硬い。
「村長がお呼びです」
「ミアの具合が悪くなったんですか?」
「いえ。お孫さまは眠っておられます」
リナは胸を撫で下ろした。
「では、何のご用でしょう」
「私からは、何も」
男はそれ以上答えず、村長の屋敷へ来るよう繰り返した。
リナは薬箱を持つべきか迷った。
ミアの件ではないという。それでも急な呼び出しである。念のため、熱冷ましと痛み止めだけを小さな鞄へ入れた。
家を出ると、太陽は山の向こうへ沈みかけていた。
村の背後にそびえる月冠山が、夕焼けを背負って黒い影になっている。
山頂は雲に隠れて見えなかった。
道を歩くリナへ、何人かの村人が視線を向けた。
声をかけてくる者はいない。
いつもなら畑仕事の帰りに挨拶をしてくれる老人も、井戸端に集まる女たちも、リナの姿を見ると不自然に顔をそらした。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
理由が分からなかったわけではない。
むしろ、分かりたくなかっただけだった。
今年は、十二年に一度の年だった。
大満月の夜、竜が月を食べるといわれる年。
フェルナ村では、その災いを鎮めるために、若く美しい娘を一人、月冠山の竜へ捧げる。
生贄に選ばれるのは、十六歳から二十歳までの、まだ夫を持たない娘と決められていた。
今年、条件に当てはまる娘は五人いる。
そのうち三人には両親がいて、一人には婚約者がいる。
そして残る一人には、誰もいなかった。
リナは吐きそうになって足を止めそうになった。
考えるな、と自分へ言い聞かせる。
まだそうと決まったわけではない。
村長は薬師として相談したいことがあるだけかもしれない。冬に備えて薬草を蓄える話かもしれないし、ミアの今後の治療について尋ねたいのかもしれない。
そう思おうとするほど、呼吸が浅くなった。
村長の屋敷へ着く頃には、空は紫色へ変わっていた。
朝に訪れたときとは違い、正面の広間へ通された。
部屋の中央には長い卓が置かれている。
その向こう側に、村長グスタフと三人の長老が座っていた。村の祭礼を管理する老人や、農地の分配を決める者たちである。
壁際には、ロベルトとエマも立っていた。
リナは二人の姿を見て、わずかに安堵しかけた。
だが、エマは目を合わせなかった。
ロベルトも俯き、固く唇を結んでいる。
朝にはあれほど感謝を述べていた二人が、今は何も言わない。
それだけで、リナの予感は確信に変わった。
「お呼びと伺いました」
声が震えなかったことに、自分でも驚いた。
グスタフが重々しく頷く。
「そこへ座りなさい」
示された椅子へ腰を下ろす。
薬の入った鞄を膝の上に置き、両手で抱えた。
部屋の中は静まり返っていた。
誰もが言葉を待っているはずなのに、誰も口を開こうとはしない。
やがてグスタフが、低い声で告げた。
「今年は、月返しの年だ」
「はい」
「十二年前の夜を、お前は覚えていまい」
「四歳でしたから」
当時の記憶はほとんど残っていない。
ただ、今は亡き母に抱かれながら、空から月が消えていくのを見たような気がする。
村の大人たちは戸を固く閉ざし、夜が明けるまで祈り続けていたという。
「我らの村が今日まで続いたのは、代々、月返しの儀を欠かさなかったからだ」
グスタフは言った。
「竜の怒りを鎮め、月を空へ返してもらう。そのためには、竜の花嫁を捧げなければならない」
リナは膝の上の鞄を強く握った。
革が指の下でわずかに軋んだ。
「長老たちと話し合い、古い定めに従って選んだ」
グスタフは一度、言葉を切った。
その目に迷いがあるように見えたのは、リナの願望だったかもしれない。
「今年の竜の花嫁は、お前に決まった」
その瞬間、窓の外で鳥が一羽鳴いた。
あまりにも日常的な音だった。
世界は変わらずに続いている。
畑では誰かが道具を片づけ、家々では夕食の支度が始まっている。寝室では、ミアが薬を飲んで眠っている。
けれど、リナに与えられた時間だけが、突然そこで途切れた。
「そうですか」
自分の口から出た声は、不思議なほど落ち着いていた。
長老の一人が、探るように尋ねる。
「異存はないのか」
異存。
そんなものが認められるのだろうか。
嫌だと泣けば、別の娘が選ばれるのか。
逃げれば、村中の者が追ってくるのか。
あるいは、生贄を出せなかったせいで災いが起きれば、すべて自分の責任になるのか。
リナは壁際へ視線を向けた。
エマが堪えきれなくなったように顔を伏せる。
その隣で、ロベルトが妻の肩を支えていた。
朝、二人は言った。
ミアが今日まで生きてこられたのは、リナのおかげだと。
それでも二人は、リナを守るために声を上げない。
責める気にはなれなかった。
二人にはミアがいる。
病弱で、薬がなければ命を落とすかもしれない大切な娘がいる。
もしリナが拒み、その結果として村に災いが降りかかれば、最初に犠牲になるのはミアのような弱い子どもかもしれない。
「覚悟はしていました」
リナは答えた。
それは半分だけ本当だった。
十二年に一度の年が近づくにつれ、村人の視線が変わっていくことには気づいていた。
誰もがリナを褒めるようになった。
美しく育った。母親によく似ている。これほど器量のよい娘は村にいない。
以前なら嬉しく思ったかもしれない言葉が、今年に入ってからはすべて、値踏みのように聞こえていた。
だから、いつか告げられると思っていた。
だが、予想していたことと、恐ろしくないことは同じではない。
「本当に、よいのか」
グスタフが尋ねた。
その問いに、リナは奇妙なものを感じた。
彼は自分でリナを選んだ。
長老たちと相談し、生贄にすると決めた。
それなのに、まるでリナ自身の同意を求めるような顔をしている。
リナが自ら受け入れたことにすれば、彼らの罪悪感が少し軽くなるのだろうか。
そんな考えが浮かんだが、口には出さなかった。
「私が行かなければ、誰が行くんですか」
部屋の中で、誰かが小さく息をのんだ。
「ほかの娘を選ぶことになるのでしょう」
誰も否定しなかった。
「それなら、私が行きます」
リナには両親がいない。
泣いて引き止める家族も、村の決定へ異を唱える者もいない。
薬師として村に必要とされているつもりだったが、代わりの薬師は町から呼ぶことができる。
けれど、娘を失った親の代わりはいない。
自分が選ばれるのが、一番ましなのだ。
そう考えることにした。
「私で村が救われるのなら、月返しの儀をお受けします」
グスタフは長く目を閉じた。
「立派な覚悟だ」
長老の一人が言った。
「お前の名は、村を救った娘として末永く語られるだろう」
リナは返事をしなかった。
語られる名前など、死んだ自分には何の意味もない。
「儀式までの間、お前は身を清めねばならない」
別の長老が説明を始める。
「食事も、着るものも、定めに従ってもらう。月返しの日まで、薬師の仕事からは離れなさい」
「ですが、ミアの薬は」
思わず口を挟んだ。
長老は眉をひそめたが、グスタフが手で制した。
「必要な薬は、今のうちに調合してもらう。町から新しい薬師を呼ぶ手配もする」
「ミアは、日によって薬の量を変えないといけません。作り置きだけでは――」
「分かっている」
グスタフの声が、わずかに強くなった。
「お前がいなくなった後のことは、こちらで考える」
お前がいなくなった後。
その言葉によって、リナは初めて、自分の死後にも村の日々が続いていくことを実感した。
ミアはやがて元気になり、花を摘みに行くだろう。
ロベルトとエマは娘の成長を見守る。
村人たちは畑を耕し、子どもを育て、十二年後にはまた誰かを選ぶ。
そこにリナだけがいない。
「……承知しました」
リナは頭を下げた。
話が終わり、椅子から立ち上がる。
ロベルトの前を通り過ぎようとしたとき、彼がかすれた声を出した。
「リナさん」
リナは足を止めた。
けれど、ロベルトはその先を言えなかった。
謝罪か、感謝か、それとも別の何かを口にしようとしていたのかは分からない。
エマは泣きながら俯いている。
リナは二人へ微笑みかけた。
「ミアの熱が上がったら、すぐに呼んでください。儀式までは、まだ私が診られますから」
エマが両手で口元を覆った。
リナはそれ以上何も言わず、広間を出た。
屋敷の外は、すでに暗くなっていた。東の空には細い月が浮かんでいる。やがて満ちていき、十二年に一度の夜を迎える月だった。
リナは月冠山を見上げた。
山頂は暗闇に沈み、その先に何が待っているのかは見えない。
恐ろしいはずだった。逃げ出したいはずだった。それなのに涙は出なかった。
ただ、朝に指を握ったミアの小さな手の感触だけが、いつまでも残っていた。
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