第10話 円が一本の線を描くように
月冠山を下りきった頃には、フェルナ村は深い夜の中に沈んでいた。
リナは森の縁に身を隠し、木々の間から村の様子を窺った。
家々の窓には、まだ明かりが灯っている。
月返しの儀を終えた夜、村人たちは月が完全に元の姿へ戻るまで眠らない。家族ごとに祈りを捧げ、無事に朝を迎えれば、村が救われたことを祝うのだ。
だが、今夜は祝いの歌も、楽器の音も聞こえなかった。
村人たちは家の外へ出て、不安そうに夜空を見上げている。
リナも木々の隙間から月を見た。
白く満ちた月の中央には、小さな黒い染みが浮かんでいた。
山頂で見たときよりも、わずかに大きくなっている。
蝕月獣ノクタルが、封印の向こう側から現世へ這い出そうとしているのだ。
時間は残されていない。
リナはアルヴェインから渡された銀色の鱗を胸に抱き、村へ続く道から外れた。
正面から入るわけにはいかなかった。
村人たちにとって、リナはすでに竜へ捧げられた存在である。
山へ送られた娘は二度と帰らない。
今頃は竜に食われ、村を救うために命を捧げたことになっている。
そんなリナが、白い衣装を血と泥で汚し、竜の鱗を抱えて戻ってくれば、騒ぎになるのは避けられない。
リナは畑の畦道を通り、家々の裏手を進んだ。
月明かりの届かない石垣の陰へ身を寄せ、夜番が通り過ぎるのを待つ。
生まれてから十六年を過ごした村だった。
どの柵なら音を立てずに越えられるか。どの家の裏庭が隣の道へ抜けているか。夜番が、どの順番で村を巡るのか。
薬師として夜中に呼び出されることの多かったリナは、暗い村の歩き方をよく知っていた。
だが、通い慣れた道は以前とはまるで違って見えた。
窓の内側には家族がいる。
眠る子どものそばに母親が座り、父親は何度も戸締まりを確かめている。
明日になれば畑へ出て、家畜へ餌を与え、昨日までと同じ暮らしを続けるのだろう。
リナも、つい数日前まではその中にいた。
今は、自分の家へ帰ることすらできない。
村人たちの中で、リナの人生はすでに終わっていた。
広場の近くまで来たところで、男たちの話し声が聞こえた。
リナは積み上げられた薪の陰へ身を伏せる。
「黒い部分が、さっきより広がっていないか」
「気のせいだ。月が完全に戻るまでには時間がかかる」
「だが、もし花嫁が竜に気に入られなかったら……」
「余計なことを言うな。儀式は定めどおりに行われた」
男たちは話しながら、何度も空を見上げていた。
その顔には、隠しきれない恐怖が浮かんでいる。
月を黒くしているのは、アルヴェインではない。
リナが花嫁として気に入られなかったからでもない。
彼は今も山頂に残り、村を守るためにノクタルと戦おうとしている。
その事実を伝えたい衝動を、リナは懸命に抑えた。
今ここで姿を現しても、信じてもらえるはずがない。
まず古文書を手に入れ、アルヴェインに読ませる。
勇者が残した可能性を確かめることが先だった。
男たちが立ち去るのを待ち、リナは広場の反対側へ進んだ。
村の共同納屋が見えた。
扉の前には、槍を持った男が一人座っている。
教会から村の儀式を止めるために送り込まれてきた使者――マティアス司祭は、今もあの中へ閉じ込められているはずだった。
助けを求めれば協力してくれるだろう。
だが、納屋へ近づけば見張りに気づかれる。
騒ぎになれば、村長の屋敷へ入ることはできない。
リナは迷った末、納屋から目をそらした。
「もう少しだけ、待っていてください」
誰にも届かない声で呟き、村長の屋敷へ向かった。
村長宅は村の北側に建つ、木造二階建ての大きな屋敷だった。
正門には松明が焚かれ、二人の男が見張っている。
リナは石塀に沿って進み、裏手へ回った。
そこには厨房へ通じる古い勝手口がある。
ミアの診療のために何度も訪れた際、薬草や水を運ぶために使っていた扉だった。
建てつけが悪く、少し持ち上げながら引けば、内側の掛け金が外れる。
以前、エマが苦笑しながら教えてくれたことがある。
まさか、その知識を使って屋敷へ忍び込むことになるとは思わなかった。
リナはアルヴェインの鱗を壁へ立てかけた。
扉の下へ指を掛け、慎重に持ち上げる。
古い金具が小さく軋んだ。
リナは動きを止め、屋敷の中へ耳を澄ませた。
足音は聞こえない。
もう一度力を込める。
内側で掛け金が外れ、扉が細く開いた。
リナは鱗を抱え直し、その隙間から厨房へ滑り込んだ。
竈の火は落とされていたが、鍋にはまだ温もりが残っている。
卓の上には、途中まで食べられたパンと、冷めたスープが置かれていた。
月の異変に気づき、誰かが慌てて席を立ったのだろう。
リナは静かに扉を閉め、廊下へ出た。
そのとき、二階から小さな咳が聞こえた。
身体が反射的に声の方角へ向きかける。
ミアだ。
乾いた咳だった。
昨日より熱は下がっているようだが、喉の炎症が残っているのかもしれない。
今すぐ部屋へ行き、額へ触れたかった。
薬を正しい量で飲ませているか、確かめたかった。
しかし、リナは足を止めた。
姿を見られるわけにはいかない。
「リナさんは?」
二階から、ミアの声が聞こえた。
続いて、エマの静かな声がする。
「リナさんは、遠いところへ行ったの」
「いつ、かえってくる?」
しばらく返事はなかった。
「……しばらくは、帰ってこられないのよ」
リナは口元を押さえた。
4歳のミアは、まだ死というものを理解していない。
エマも、娘へ本当のことを説明できずにいる。
リナは二階へ背を向け、地下書庫へ続く廊下を進んだ。
床には、踏むと音の鳴る板がある。
往診の際、眠っているミアを起こさないよう、何度も避けて歩いた道だった。
壁際を進み、軋む板をまたいで、廊下の奥へ向かう。
地下へ続く扉には、鍵が掛かっていなかった。
村長の屋敷へ侵入する者などいないと思われているのだろう。
まして、死んだはずの生贄が戻ってくるなど、誰も想像していない。
リナは扉を開き、狭い石段を下りた。
地下へ進むにつれ、空気が冷たく湿っていく。
階段の下には、以前使った燭台が置かれていた。
リナは火打ち石を取り出し、蝋燭へ火を灯した。
小さな炎が、地下書庫の内部を照らし出す。
壁一面に木製の棚が並んでいた。
革表紙の書物。
紐で束ねられた巻物。
古い祭具を収めた木箱。
色褪せた布や、欠けた銀杯。
フェルナ村の長い歴史が、忘れ去られたように積み重なっている。
リナが以前ここへ入ったのは、ミアが三歳だった冬のことだった。
高熱が続き、薬の調合に低温の場所が必要になったため、グスタフの許可を得て地下を使った。
そのとき、書庫の奥に奇妙な文字で書かれた書物を見つけた。
勇者の時代から伝わるものだが、村の誰にも読めない。
グスタフはそう話していた。
リナは燭台を掲げ、棚の背表紙を確かめながら奥へ進んだ。
『月返しの儀 式次第』
『歴代竜の花嫁名簿』
『月冠山入山記録』
『祭礼供物受払帳』
途中、一冊の古びた帳面が目に留まった。
表紙には『守月祭献納記録』と書かれている。
リナは頁を開いた。
『守月の竜へ麦十袋、干肉五籠、酒二樽を贈る』
『翼の傷深く、村の薬師、月白花を携えて山頂へ上る』
古い時代、村人たちはアルヴェインを守護者として扱い、戦いで傷ついた彼へ食料や薬草を届けていたらしい。
別の時代の記録には、それらが竜の怒りを鎮めるための供物と記されていた。
さらに後には、若い娘を竜の花嫁として送る記述が現れる。
感謝の祭が、長い年月の中で少しずつ別のものへ変わったのだ。
リナが山頂で知った真実と、古い記録の内容は一致していた。
「やっぱり、アルヴェインの話は本当だった」
リナは小さく呟き、帳面を閉じた。
儀式がどのように歪んだのかを詳しく調べている時間はない。
目的は、勇者が残した古文書だった。
最も奥の棚へ進み、積み上げられた木箱を一つずつ動かす。
その後ろに、何冊かの分厚い書物が隠れるように並んでいた。
革張りの表紙。
錆びついた留め金。
その中に、リナの記憶と同じ一冊があった。
「あった」
書物を引き出すと、積もっていた埃が舞い上がった。
咳を堪えながら、表紙を燭台の光へ近づける。
複雑な文字が刻まれていた。
円を一本の線が貫く印。
翼を折り畳んだような形。
アルヴェインが山頂の岩へ刻んだ竜文字と同じものだった。
リナは震える指で留め金を外した。
古い羊皮紙を開く。
頁には、誰にも読まれないまま百年以上眠り続けた竜文字がびっしりと並んでいた。
文章の間には、いくつもの図が描かれている。
一頭の竜と、一人の人間。
竜の胸から人間へ流れる光。
そして別の図では、人間から竜へ戻っていく光。
二人を囲む複雑な円形の術式。
リナには文字を読むことができない。
それでも、この書物が何について記したものなのかは想像できた。
勇者へ与えられた、アルヴェインの力。
そして、その力を返すための何か。
「これを持っていけば……」
アルヴェインなら読める。
勇者が本当に備えを残していたのか、確かめられる。
アルヴェインは死なずに済むかもしれない。
リナは古文書を閉じ、胸へ抱えた。
そのとき、頭上で床板が鳴った。
リナは息を止めた。
地下へ続く扉が開く。
一段。
また一段。
誰かが石段を下りてくる。
リナは燭台の火を消そうとした。
だが、焦った指が燭台へ触れ、金属が石机に当たって小さな音を立てた。
階段の足音が止まる。
「誰だ」
低い声が地下へ響いた。
グスタフだった。
リナは古文書を抱えたまま、書棚の陰へ下がった。
逃げ道は一つしかない。
その階段を、村長が下りてくる。
「そこにいるのは誰だ」
グスタフの灯りが地下書庫を横切った。
リナは息を殺した。
しかし、汚れた白い衣装の裾が、棚の陰から覗いていた。
灯りがそこへ向けられる。
「出てこい」
逃げられない。
リナは古文書を抱く腕へ力を込め、ゆっくりと書棚の陰から姿を現した。
血と泥に汚れた白い衣装。
乱れた髪。
胸に抱えた竜文字の古文書。
グスタフが目を見開いた。
手にした燭台が大きく震える。
「リナ……?」
その声に、再会への喜びはなかった。
死者を目にしたような、純粋な恐怖だけがあった。
「なぜだ」
グスタフは一歩後ずさりした。
「なぜ、お前が生きている」
やがて村長の視線が、リナの顔から古文書へ移る。
「それを置け」
腰から抜かれた短剣の切っ先が、リナへ向けられた。
「その書物を、どこへ持っていくつもりだ」
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