第11話 言えないし、言わない
「なぜ、お前が生きている」
グスタフは短剣を構えたまま、愕然とリナを見つめていた。
竜へ捧げたはずの白い衣装は、泥と血で汚れている。その腕には、地下書庫から持ち出した古文書が抱えられていた。
「村長、聞いてください。あの竜は――」
「誰か来い!」
グスタフの叫びが、地下書庫に響いた。
「この娘をひっ捕らえろ!」
リナの言葉を聞くつもりは、初めからなかった。
階段を駆け下りてきた男たちは、リナの姿を見て立ち尽くした。
「リナ……?」
「山へ送られたはずじゃ……」
「何をしている!早く捕らえろ!」
村長に怒鳴られ、男たちは我に返った。
リナの両腕がつかまれる。
「待ってください!月を黒くしているのは竜じゃありません!」
「抵抗するな、リナ」
「この本を山へ届けないと――」
古文書を抱えていた指が、一本ずつ引き剥がされた。
リナを押さえた男は、以前その妻を病から救ったことのある村人だった。強く腕をねじりながらも、痛めつけることを恐れるように何度も手を緩めている。
それでも、解放してはくれなかった。
古文書はグスタフの手へ渡り、リナの両腕は後ろで縛られた。
「広場へ連れていけ」
グスタフはそれだけを命じた。
何を見たのか。
なぜ戻ったのか。
竜が何を語ったのか。
何一つ尋ねなかった。
山へ送った生贄が帰ってきた。
ならば儀式は失敗した。
彼の中では、それですべてが決まっていた。
屋敷の外へ出ると、騒ぎを聞きつけた村人たちが集まり始めていた。
リナの姿を見た者たちは、一様に足を止めた。
「生きていた……」
「リナが戻ったぞ」
一瞬、安堵に似たものが人々の顔へ浮かんだ。
小さな頃から知っている少女だった。
熱を下げてもらった者も、傷を治してもらった者もいる。子どもの命を救われた親も、一人や二人ではない。
誰も、リナが生きていたこと自体を憎んではいなかった。
だが、一人が空を見上げた。
白い月の中央で、黒い影が広がっている。
「月が、戻っていない」
その声で、人々の表情が変わった。
「花嫁が逃げ帰ったからだ」
「儀式が失敗したんだ」
「このままでは村が……」
不安は瞬く間に恐怖へ変わった。
鐘が鳴らされ、家々からさらに人が集まる。
リナは広場の柱へ縛りつけられた。
「なぜ戻ってきたんだ」
「リナ、お前が怖かったのは分かる。だが、私たちにも家族がいる」
「頼むから、山へ戻ってくれ」
責める声には、怒りだけでなく哀願が混じっていた。
誰もがリナを知っている。
悪い娘ではないと分かっている。
それでも、自分たちが生き残るためには、彼女を再び差し出すしかないと思っていた。
泥が飛んできて、リナの足元へ落ちた。
続いて小石が肩へ当たる。
「やめろ!」
誰かが投げた者を止めた。
「この子には世話になっただろう!」
「だからって、村が滅びてもいいのか!」
さらに泥が飛んだ。
だが、投げる者よりも、黙って見ている者のほうが多かった。
投げようとした石を、途中で下ろす者もいた。
リナを責めたい。
けれど傷つけたくはない。
生きていてほしい。
けれど山へ戻ってほしい。
村人たちは、その矛盾の中で立ち尽くしていた。
リナは泥のついた顔を上げた。
自分を助けてほしいと訴えても意味はない。
言わなければならないのは、自分のことではなかった。
「私は、命が惜しくて戻ったんじゃありません」
リナの声が広場に響いた。
初めはまだ、村人たちのざわめきが残っていた。
「山の向こうへ行けば、私は生きられました。竜は私を食べなかった。町へ逃げろと言って、魔獣に襲われないよう、自分の鱗まで渡してくれたんです」
人々の声が、次第に小さくなった。
「これまで山へ送られた娘たちも同じです。誰一人、竜に食べられていない。みんな山の向こうへ逃がされていた。帰ってこなかったのは、戻れば役目を捨てた裏切り者として、今の私のように扱われると分かっていたからです」
リナは広場を見渡した。
もう誰も口を挟まなかった。
血の滲む額も、泥に汚れた顔も、その目の強さを隠せなかった。
「月を黒くしているのも、竜ではありません。別の怪物です。あの竜は十二年ごとに、その怪物と戦ってきた。身体中に傷を負って、翼を裂かれて、角を折られて、それでもずっとこの村を守ってきたんです」
リナの声に、怒りが滲んだ。
「なのに、誰も知ろうとしなかった」
村人たちの顔が強張った。
「どうして月が黒くなるのか。どうして酒や食べ物や薬草を山へ運ぶのか。どうして娘を差し出さなければならないのか。誰も確かめようとしなかった」
リナは縄に縛られた身体を前へ傾けた。
「昔からそうしてきたから。先祖が決めたから。決まりだから。皆さんはそれだけを繰り返して、何も考えようとしなかった!」
広場は静まり返った。
「竜は今も山の上にいます。皆さんが怪物だと恐れている間も、皆さんを守るために戦おうとしている。今度の戦いでは、自分が死ぬつもりなんです」
誰かが小さく息をのんだ。
「その竜に、私たちは何をしたんですか」
リナの声が震えた。
だが、勢いは止まらなかった。
「感謝もしなかった。傷を治そうともしなかった。話を聞こうともしなかった。ただ勝手に怪物だと決めつけて、必要のない生贄を送り続けた!」
何人かが目を伏せた。
「地下書庫に記録がありました。昔の人たちは、竜が村を守っていると知っていた。酒も食べ物も薬草も、戦いを終えた竜を労うために届けていたんです。それがいつの間にか、意味も分からない供物になった。感謝の祭りが、人を殺す儀式になった!」
リナはグスタフの抱える古文書を見た。
「あの書物に、竜を救う方法が書かれているかもしれない。だから私は戻ってきたんです。自分が助かるためじゃない。あの竜を、私たちの無知のために死なせないために!」
声が途切れた。
リナは荒い息をしながら、村人たちを睨むように見渡した。
「何百年も守ってもらいながら、何も知ろうとしなかった私たちが、今度もまた『昔からの決まりだから』と言って、あの竜を見殺しにするんですか」
広場に、音はなかった。
風が屋根を撫でる音だけが聞こえる。
村人たちはリナを見ていた。
彼女が嘘をついているようには見えなかった。
自分だけが生きたいのなら、村へ帰らず町へ逃げればよかった。
捕らえられると分かって戻ったこと自体が、その言葉を裏づけていた。
やがて、年老いた女が小さく呟いた。
「リナが、そんな嘘をつくとは思えないよ」
その隣にいた男も、目を伏せた。
「だが……もし間違っていたら」
沈黙の中に、恐れが戻り始める。
「儀式をやめて、村が滅びたらどうする」
「リナの言葉を信じたい。だが、今までこれで月は戻ってきたんだ」
「昔から続いていることには、理由があるはずだ」
「確かめる時間などない」
誰も、先ほどのように激しくリナを罵らなかった。
その言葉が心に届いたからこそ、苦しげな顔をしていた。
それでも、最後には伝統へ縋った。
真実かもしれない話を確かめるより、何度も繰り返してきた儀式を続けるほうが怖くない。
間違っているかもしれないと気づいても、今までどおりにすることを選ぼうとしている。
リナは唇を噛んだ。
怒りと悲しみで、胸が苦しかった。
そのとき、群衆の中に小さな少女の姿を見つけた。
エマの腕に抱かれたミアだった。
毛布に包まれ、まだ熱の残る赤い頬でリナを見つめている。
「リナさん……」
つい最近、リナが薬を飲ませた少女。はるか遠い昔のことのように思えるが、あれから永遠のように長い時間が過ぎている。
ミアは今四歳。次に封印が弱まる十二年後には、十六歳になる。それは今のリナと同じ年齢である。
ミアには両親がいる。
村長の孫でもある。
必ず選ばれるとは限らない。
けれど、「村で最も美しい未婚の娘を選ぶ」という掟が残れば、候補にならないとは言い切れない。
――身寄りのない私だから、村のためだと言えるんでしょう。
――十二年後、この子が選ばれたとしても、同じように山へ送れるの?
言葉が喉まで込み上げた。
だが、リナは口にできなかった。
ミアは何も悪くない。
幼い少女を、村人たちを追い詰めるための材料にはしたくなかった。
リナは唇を強く噛んだ。
その視線を追い、グスタフも孫娘へ目を向けた。
ロベルトとエマは、ミアを守るように抱き寄せる。
周囲の村人たちも、自分の娘や孫の姿を見た。
リナが口にしなかった問いは、沈黙のまま広場へ広がった。
それでも、誰も儀式をやめるとは言わなかった。
「月が!」
誰かが叫んだ。
黒い影が、さらに月を覆っていた。
村を照らす光が弱くなり、人々の顔へ暗い影が落ちる。
迷いは、再び恐怖に押し流された。
グスタフが低い声で命じた。
「リナを御堂へ入れろ」
その表情には苦悩があった。
だが、選んだ答えは変わらなかった。
「夜明けを待たず、もう一度山へ送る」
男たちがリナへ近づく。
今度は誰も石を投げなかった。
目を合わせることもできず、申し訳なさそうに腕をつかもうとする。
そのとき、広場の反対側で激しい音が響いた。
共同納屋の扉が、内側から弾け飛んだ。
「何だ!」
村人たちが振り返る。
壊れた扉の間から、灰色の外套をまとった男が飛び出してきた。
額には乾いた血の跡。
両手首には、引きちぎった縄が残っている。
巡回司祭であるマティアスだった。
広場へ人が集まり、見張りが手薄になった隙に脱出したのだ。
マティアスは群衆の向こうにリナを見つけた。
泥と血に汚れ、柱へ縛られながら、それでも村人たちへ訴え続けた少女。
「リナ!」
彼はその名を叫び、広場へ駆け込んだ。
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