第12話 ボロボロの翼で
「リナ!」
マティアスは群衆を押し分け、広場へ飛び込んだ。
村人たちが捕らえようと手を伸ばす。だが、マティアスは身を低くしてかわし、柱へ縛られたリナの前まで走り抜けた。
「司祭を押さえろ!」
グスタフの声が飛ぶ。
数人の男たちが背後から迫る。
マティアスは振り返り、地面へ片手を叩きつけた。
「退いてください!」
石畳が大きく盛り上がった。
低い土壁が、マティアスと村人たちの間へ突き出す。高さは人の腰ほどしかないが、突然現れた障害に男たちは足を止めた。
誰かを傷つけるための魔法ではない。
近づかせないための壁だった。
「司祭さま」
リナは驚いて彼を見た。
「私の話を、信じてくれたんですか」
「すべてを信じたわけではない」
マティアスはきっぱりと答えた。
「竜が村を守っていることも、過去の娘たちが生きていることも、今の私には確かめようがない」
リナの表情が曇る。
「だが、君の話が嘘だという証拠もない」
マティアスは柱の根元に手を伸ばした。
指先の下で、石畳から薄い石片がせり上がる。その縁が刃のように鋭く尖った。
「真実を確かめる前に君を殺すことも、もう一度生贄にすることも、私は認めない」
石の刃が縄へ押し当てられた。
何度か擦ると、固く結ばれていた縄が切れた。
リナの身体が柱から離れる。
「手を」
マティアスが腕を差し出す。
今度は、リナは迷わずその手を取った。
「古文書を取り戻さないと」
リナはグスタフを見た。
村長は数歩離れた場所で、竜文字の書物を両腕に抱えている。
「渡すわけにはいかん」
グスタフは後退した。
「それは村長家が代々守ってきたものだ」
「誰にも読ませず、意味も知らないまま閉じ込めていただけでしょう!」
リナが駆け寄ろうとする。
だが、土壁を回り込んだ男たちが、すでに迫っていた。
マティアスは素早く地面へ杖を突き立てた。
広場の石畳が波打つ。
「うわっ!」
村人たちは足元をすくわれ、その場へ尻餅をついた。
石が大きく隆起したわけではない。転倒しても怪我をしない程度に、地面の高さがずらされただけだった。
「申し訳ありません!」
マティアスは謝りながら、再び手を地面へ向ける。
グスタフの足元から、細い土の柱が突き上がった。
「なっ――」
村長の身体がよろめく。
抱えていた古文書が腕から滑り落ちた。
リナが駆け込み、地面へ落ちる直前に書物を受け止める。
「取りました!」
「走れ!」
二人は広場を飛び出した。
「追え!」
グスタフの命令に、村人たちが動き出す。
だが、先ほど倒れた者を起こそうとする者もいた。リナを本気で捕らえるべきか迷い、その場に立ち尽くす者もいる。
「待ってくれ、リナ!」
「本当に山へ行くのか!」
「司祭さま、考え直してください!」
背後から飛んでくる声には、憎しみよりも混乱が強かった。
リナは振り返らなかった。
古文書を胸へ抱え、暗い村道を駆ける。
マティアスは隣を走りながら尋ねた。
「これを竜へ届ければ、危機を止められるのか」
「分かりません」
「分からない?」
「竜にしか読めないんです。でも、ここに助かる方法が書かれているかもしれない」
「随分と心細い可能性だな」
「それでも、何もせずに死なせるよりはましです」
マティアスは一瞬、リナの横顔を見た。
「君がそこまでして助けようとする相手が、どのような竜なのかは見届ける必要がありそうだ」
二人は村の北側へ向かった。
そこには、月冠山へ続く山門がある。
門を抜ければ、昼間に歩いた山道へ出られる。
しかし、背後ではすでに複数の松明が動いていた。
追手が近づいている。
「リナ」
山門をくぐったところで、マティアスが足を止めた。
「先へ行け」
「司祭さまは?」
「ここを塞ぐ」
「一緒に山頂へ来てくれるのでは」
「二人で逃げれば、すぐに追いつかれる。君が古文書を届けることが最優先だ」
マティアスは山門へ向き直った。
その向こうから、村人たちの声と足音が近づいてくる。
「でも、一人では――」
「大丈夫だ。彼らは魔物でも敵兵でもない」
マティアスは杖を握った。
「傷つけずに足止めするくらいなら、私一人でできる」
地面へ杖の先を突き立てる。
低い地響きが起こった。
山門の内側から土と岩が盛り上がり、太い柱となって門を塞いでいく。
やがて、門全体を覆う巨大な土壁が完成した。
表面には、淡い光を放つ教会の印が刻まれている。
「結界も重ねた。壊すには時間がかかる」
土壁の向こうから、村人たちが門を叩く音がした。
「司祭さま!開けてください!」
「リナを山へ行かせてはならない!」
マティアスは振り返らずに答えた。
「あなた方も、今夜の恐怖に駆られているだけだとは理解しています」
声が土壁の向こうへ届く。
「だからこそ、朝になって後悔するようなことを、今してはなりません!」
リナは古文書を強く抱きしめた。
「必ず戻ります」
「戻れる状況ならな」
マティアスは苦笑した。
「行きなさい。真実を確かめてくるんだ」
リナは深く頷き、山道へ走り出した。
背後では、土壁を叩く音が続いている。
マティアスがどれほど耐えられるかは分からない。
アルヴェインがいつまで待てるかも分からない。
空を見上げれば、月の半分近くが黒い影に覆われていた。
リナは古文書を胸に抱き、一度も足を止めずに月冠山を駆け上がった。
◇
山頂へ近づくにつれ、霧は黒く染まっていった。
石段の隙間から、煙のような影が流れ落ちてくる。
空では月の半分以上が闇に覆われ、残された白い光も弱々しく揺らめいていた。
リナは息を切らしながら石段を登った。
脚は重く、肺が焼けるように痛む。
それでも古文書だけは、一度も手放さなかった。
「アルヴェイン!」
最後の石段を駆け上がり、山頂へ飛び込む。
石柱の中央に、巨大な竜が立っていた。
ボロボロの翼を広げ、黒い月を見上げている。
リナが巻いた傷当ては、すでに血で赤く染まっていた。胸元の呪いも強く脈打ち、黒い煙が全身を包んでいる。
その前方では、空間そのものが裂け始めていた。
月光の中に浮かぶ、縦長の黒い亀裂。
その奥から、無数の目のような光がこちらを覗いている。
リナの声に、アルヴェインが振り返った。
青い瞳が大きく見開かれる。
「なぜ、お前がここにいる」
驚きは、すぐに怒りへ変わった。
「町へ行けと言ったはずだ!」
咆哮に近い声が、山頂を揺らす。
リナは怯みながらも、古文書を掲げた。
「これを取りに戻ったんです!」
アルヴェインの視線が書物へ向く。
表紙に刻まれた竜文字を見た瞬間、その表情がわずかに変わった。
だが、すぐに牙を剥く。
「村へ戻ったのか」
「はい」
「俺の命令を無視して?」
「私はあなたの家来ではありません」
「捕まれば殺されていたかもしれんのだぞ!」
「捕まりました!」
リナが言い返すと、アルヴェインは一瞬言葉を失った。
「でも、逃げてきました。司祭さまが助けてくれたんです」
「愚か者が……」
アルヴェインは低く唸った。
「なぜそこまでして戻った」
「あなたを助けるためです」
「頼んでいない」
「知っています」
「ならば帰れ!」
アルヴェインの尾が地面を打った。
「これは俺の戦いだ。お前には関係ない!」
「関係あります!」
「ない!」
竜の声が、黒い霧を吹き散らした。
「ノクタルを封じるのは俺の役目だ。お前は生きて山を越えればよかった。それだけでよかったのだ!」
「あなたは死ぬつもりでしょう!」
「ああ」
アルヴェインは迷わず答えた。
「俺の命を使えば、ノクタルを異界へ押し戻せる」
「十二年間だけです」
「それで十分だ」
「十分なわけがない!」
「村はあと十二年生きられる」
アルヴェインの声は静かだった。
怒りを通り越し、すでに決めたことを告げているだけのようだった。
「十二年あれば、人間どもも逃げる準備ができる。危険を伝える者もいる。今夜ここで全員が死ぬよりはましだ」
「その危険を、私一人に伝えさせるつもりだったんですか」
「そうだ」
「誰も信じないかもしれないのに?」
「それでも、俺にできるのはそこまでだ」
「どうして勝手に限界を決めるんですか」
アルヴェインの瞳が鋭くなる。
「百年以上戦った俺に、何ができるかをお前が教えるつもりか」
「少なくとも、死ねば全部終わると思っている人よりは、ほかの方法を探そうとしています」
「時間がない」
「だから書物を持ってきたんです!」
リナは古文書を胸へ抱き直した。
「勇者が残したものです。ここに、あなたの力を取り戻す方法が書かれているかもしれない」
「確かめる必要はない」
「どうして!」
「お前が命を危険にさらして持ってくるほどのものではなかった」
アルヴェインはリナから顔を背けた。
「俺は死ぬ。ノクタルは十二年間封じられる。それで今夜は終わりだ」
「終わりません」
リナの声が低くなった。
「十二年後に、また始まるんです」
「だからそのとき俺はいないと言っているだろう」
その一言で、リナの中に積もっていたものが一気に燃え上がった。
村人たちは、何も知ろうとせずに儀式を続けようとした。
アルヴェインは、何も変えようとせずに自分の死を受け入れている。
どちらも、昔から決められた役目へ縋り、考えることをやめている。
「あなたも同じじゃない」
リナは呟いた。
アルヴェインが振り返る。
「何だと」
リナは古文書を抱えたまま、傷だらけの竜を睨み返した。
恐怖よりも、怒りのほうが強かった。
「村の人たちと、何も変わらないと言ったんです」
娘は激怒した。
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