第13話 100年の時を超えて
「村の人たちと、何も変わらないと言ったんです」
リナの言葉に、アルヴェインの瞳が鋭く細められた。
「俺を、あの連中と同じだと言うのか」
「そうです」
「何も知らず、娘を差し出し続けた者どもと?」
「生贄の話をしているんじゃありません!」
リナの声が、黒い霧の漂う山頂へ響いた。
「あなたは生贄なんて望んでいなかった。山へ送られた人たちを誰一人食べず、鱗を渡して逃がした。そのことについて、あなたを責めるつもりはありません」
アルヴェインは口を閉ざした。
リナは古文書を胸へ抱いたまま、一歩前へ出た。
「私が怒っているのは、あなたも自分の役目を疑おうとしないからです」
「俺の役目は、ノクタルを封じることだ」
「それを誰が決めたんですか」
「勇者と約束した」
「勇者は、あなたに死ねと言ったんですか」
アルヴェインの表情が固まった。
「自分が戻らなければ、百年以上一人で戦い続けて、最後には命を封印にしろと頼んだんですか」
「そんなことは言っていない」
「だったら、今あなたがしようとしていることは、勇者との約束じゃないでしょう!」
リナの声には、抑えきれない怒りが込められていた。
「十二年後はどうするの?」
「その頃には、俺はいない」
「だから何なのよ!」
リナは叫んだ。
「あなたが死んだあとに全部滅びるなら、それは村を守ったことにならないでしょう!」
アルヴェインの尾が岩の上を擦った。
「だが今夜を守らなければ、十二年後など訪れん」
「だから今夜死ぬしかないって、勝手に決めるの?」
「ほかに方法はない」
「方法があるかもしれないから、私はこれを持ってきたんです!」
リナは古文書を掲げた。
「でも、あなたは読もうとさえしなかった。村の人たちが何も知ろうとせず儀式を繰り返しているのと、何が違うんですか」
「俺は百年以上、この封印を守ってきた!」
アルヴェインの咆哮が霧を吹き飛ばした。
傷当ての布が揺れ、裂けた翼から新しい血が滲む。
リナは身体を竦ませながらも、その場を動かなかった。
「知っています」
震える声で答える。
「あなたの傷を見たから、知っています」
十二年前から塞がらない傷。
その下に重なる、さらに古い傷。
誰にも看病されず、感謝もされず、一人で積み重ねてきた年月。
「だから、生きてほしいと言っているんです」
アルヴェインの唸り声が止まった。
「あなたが何もしてこなかったなんて言っていません。あなたがこの村を守ったことを、私は誰よりも分かっています」
リナは息を整え、竜の青い瞳を見つめた。
「でも、あなたは人間の命なんてどうでもいいと言う」
「どうでもいい」
アルヴェインは吐き捨てるように答えた。
「俺が守っているのは勇者との約束だ。人間どものためではない」
「本当に?」
「ああ」
「だったら、どうして生贄にされた娘たちを助けたんですか」
アルヴェインの瞳が揺れた。
「食べたくなかったからだ」
「食べないだけなら、そのまま放っておけばよかった」
「山には魔獣がいる」
「だから鱗を渡した」
「目の前で死なれれば寝覚めが悪いだけだ」
「道を教えて、食料を持たせて、山を下りるまで見届けたのも?」
「……同じだ」
「百年以上も村を守り続けたのも?」
「約束のためだ」
「今夜、自分が死んだあとの危険を私に伝えようとしたのも?」
アルヴェインは答えなかった。
リナはさらに近づいた。
「村が本当にどうでもいいなら、十二年後のことなんて話さなくてもよかった。私を逃がす必要もなかった。何も教えず、一人で死ねばよかったでしょう」
「それは……」
「あなたは、この村のことが嫌いなのかもしれない。自分を怪物と呼んで、話を聞こうともしない人たちを、許せないのかもしれない」
リナ自身も、広場での村人たちの姿を思い出した。
知ろうとせず、考えようとせず、ただ伝統へ縋った人々。
それでも、彼らが全員悪人ではないことも知っている。
恐怖に負けただけの者。
家族を守りたかった者。
リナを傷つけながら、それを苦しんでいた者。
「それでも、あなたは見捨てられなかった」
アルヴェインは視線をそらした。
「長い間、ここで生きてきたからです」
「違う」
「村で子どもが生まれて、年を取って、死んでいくのを見てきた。十二年ごとに、前とは違う人たちが供物を運んでくるのを見てきた。だから、もう勇者との約束だけではないんでしょう」
「違うと言っている」
「では、どうして怒るんですか」
アルヴェインがリナを睨む。
「村人が死んでもどうでもいいなら、私に十二年後の危険を託す必要なんてなかった。私が村へ戻って殺されるかもしれないと知ったとき、そんなに怒る必要もなかった!」
言葉を返そうとしたアルヴェインは、結局何も言えなかった。
リナの指摘を否定する言葉が見つからないのだ。
「あなたは、この村に情が移っているんです」
「俺が、人間の村に?」
「はい」
「あり得ん」
「認めたくないだけです」
アルヴェインは顔を背けた。
巨大な身体が、先ほどまでよりも小さく見えた。
「人間は俺を恐れた」
低い声が落ちる。
「話そうとすれば逃げた。近づけば武器を向けた。何度伝えようとしても、聞こうとしなかった」
「分かっています」
「俺が山を下りれば、封印が弱まる。長く離れることもできなかった」
「それも分かっています」
リナは静かに答えた。
「でも、百年以上あったんです」
アルヴェインの耳が動く。
「町へ逃がした娘に、言葉を託すことはできたはずです。竜文字で記録を残すことも、人間の言葉を書ける誰かを探すこともできた。討伐に来た人たち全員が駄目でも、一人くらい話を聞く人がいるかもしれないと、試し続けることはできたはずです」
「何度失敗してもか」
「はい」
「裏切られても?」
「はい」
「また信じろと?」
アルヴェインの問いには、怒りよりも疲れが滲んでいた。
リナはすぐには答えなかった。
百年以上の孤独を、今日山へ来たばかりの自分が理解したとは言えない。
人間を信じろと、簡単に命じる資格もない。
「人間があなたを信じなかったから、あなたも人間を信じるのをやめた。それは仕方がないのかもしれない」
リナは古文書を抱きしめた。
「でも、諦めたまま死ぬことを、勇者との約束みたいに言わないで」
アルヴェインの瞳が、ゆっくりとリナへ戻った。
「勇者が戻らない未来を考えるのが怖かったんでしょう」
その言葉に、竜の身体がわずかに強張った。
「だから、約束を守ることだけを考えた。次の十二年も、その次の十二年も。ただ同じことを繰り返していれば、勇者が帰ってこなかったことを認めずに済んだから」
「黙れ」
声は低かったが、怒りに力がなかった。
「今度の戦いで死ねば、もう待たなくて済む。勇者のいない未来をどう生きるか、考えなくても済む」
「黙れ、リナ」
「嫌です」
リナの瞳に涙が滲んだ。
「死ぬ理由を勇者との約束にしないで。守り続けたから、もう死んでいいなんて言わないでください」
「ならば、どうしろと言う」
アルヴェインが絞り出すように尋ねた。
「勇者は戻らん。人間は俺を信じん。ノクタルは封印を破ろうとしている。この身体で、俺に何ができる」
「私を信じてください」
即座に答えた。
アルヴェインは言葉を失った。
「村の全員を信じなくていい。人間を好きにならなくてもいい」
リナは一歩ずつ、竜の前へ進んだ。
「今は、私一人を信じてください」
古文書を差し出す。
「私は逃げませんでした。村へ戻って、捕まって、それでもこの本を持ってきた」
アルヴェインは差し出された書物を見つめていた。
「あなたが生きる方法を探すためです」
「なかったらどうする」
「そのときは、最後まで一緒に考えます」
「月の獣が儀式が終わるのを待ってくれると思うか」
「待ってくれなくても考えます」
「死ぬかもしれんぞ」
「最初から死ぬつもりで山へ来ました」
リナは笑わなかった。
「でも今は、死ぬつもりはありません。あなたも死なせません。100年前の勇者の思いも、きっとそうだったに違いない!」
アルヴェインは長い間、何も言わなかった。
月を覆う黒い影は、さらに大きくなっている。
石柱の竜文字が明滅し、異界へ通じる亀裂の奥から低い唸り声が響いた。
それでも二人は、互いから目をそらさなかった。
「……あいつがいなくなったあとも」
やがて、アルヴェインが呟いた。
「村では、何人もの人間が生まれた」
リナは黙って聞いた。
「泣いてばかりいた子どもが、次に見たときには供物を運んでいた。その次に見たときには、白髪の老人になっていた」
淡い青色の瞳が、山の麓へ向けられる。
「同じ顔は一つも残らん。だが、村は同じ場所にあり続けた」
アルヴェインは苦々しそうに牙を噛み合わせた。
「気づけば、なくなることを想像すると……不快だった」
「それを、愛着と言うんです」
「人間の言葉で勝手に決めるな」
「違うんですか」
しばらくの沈黙のあと、アルヴェインは深く息を吐いた。
「……違わないのかもしれん」
それは、百年以上守り続けてきた竜が、初めて口にした本心だった。
アルヴェインはリナへ顔を向けた。
「お前の覚悟は分かった」
巨大な爪が、差し出された古文書の前へ置かれる。
「一度だけ、お前を信じる」
「一度だけ?」
「人間は欲深い。最初から多くを求めるな」
リナは泣きそうな顔で笑った。
「十分です」
アルヴェインは慎重に古文書を受け取った。
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