第14話 月を食べる竜
リナは胸に抱えていた古文書を、アルヴェインの前へ差し出した。
「読んでください」
アルヴェインはしばらく書物を見つめていた。
革の表紙に刻まれた竜文字を、懐かしむように目でなぞる。
「……あいつの字だ」
巨大な爪が、錆びた留め金を慎重に外した。
羊皮紙が開かれる。
アルヴェインは黙ったまま、並んだ文字を追っていった。
頁をめくる爪が、一度止まる。
次の頁へ進み、また初めの箇所へ戻る。
「何が書いてあるんですか」
リナが尋ねても、すぐには答えなかった。
やがてアルヴェインは、深く息を吐いた。
「残していた」
「勇者が?」
「ああ」
その声には、怒りとも安堵ともつかないものが滲んでいた。
「俺が戻らなかった場合に備え、この記録を残す、とある」
アルヴェインは古文書を地面へ置き、開かれた頁を爪で示した。
そこには一頭の竜と、一人の人間が描かれていた。
竜から人間へ、光が流れている。
「俺が勇者へ与えた力は、加護として契約に結びつけられていた。勇者が戻り、俺の前で契約を終えなければ、力は返らない」
「勇者が亡くなっても?」
「契約は残ったままだ」
次の図では、光が人間から竜へ戻っている。
「だが、勇者は自分が戻れない場合も考えていた。契約を人間の側から解除し、俺へ加護を返す手順が記されている」
「返還の儀式……」
「そうだ」
百年以上、誰にも読まれなかった書物。
勇者が残した備えは、失われていたのではない。
読める者のいない地下で、ただ眠り続けていたのだ。
「何が必要なんですか」
アルヴェインは文章へ目を戻した。
「加護を与えた竜。そして、その竜に守られてきた土地の人間」
リナはすぐに答えた。
「私はフェルナ村で生まれました」
「ああ」
「あなたに守られて育った人間です」
アルヴェインはリナを見た。
否定はしなかった。
「人間は、竜を古い役目から解放する意思を示さなければならない」
「勇者との約束を終わらせる?」
「正確には、俺を約束へ縛りつけている契約を解く。もう勇者を待つ必要はないと、この土地の人間が告げるのだ」
リナは古文書へ目を落とした。
勇者は、アルヴェインへ帰還を約束した。
同時に、自分が帰れなかったとき、いつか人間の側から彼を解放できる道も残していた。
「もう一つある」
アルヴェインが言った。
「返還される力は、今の俺には大きすぎる」
傷ついた身体へ、本来の力の大部分が一度に戻る。
その衝撃に耐えられなければ、加護が返る前に肉体が崩れる。
「儀式の間、身体を支える薬が必要だと書いてある」
「材料は?」
アルヴェインが読み上げた。
月白花。
銀針草。
止血草。
月冠山の湧き水。
そして、儀式を受ける竜自身の血。
「作れます」
リナは即座に答えた。
「最初にあなたの傷へ使った薬と、ほとんど同じです。比率を変えれば、身体を支える薬にできます」
「失敗すれば、お前も巻き込まれる」
「成功させます」
「簡単に言うな」
「一人で死のうとしていた竜には言われたくありません」
アルヴェインは不満そうに鼻を鳴らした。
それでも、もう町へ行けとは言わなかった。
「儀式が始まれば、俺は動けなくなる」
「では、私が薬を作って、手順を進めます」
「ノクタルが待つとは限らん」
「待たなくてもやります」
リナはアルヴェインの目を見つめた。
「今度は、一人で死なないでください」
長い沈黙の後、アルヴェインは目を伏せた。
「……分かった」
低く、しかし確かな声だった。
「お前を信じる」
それは勇者との約束ではない。
アルヴェイン自身が、今ここで選んだ答えだった。
――そのとき、山頂を覆っていた雲が裂けた。
十二年に一度の大満月が、月冠山の真上へ昇る。
本来なら山全体を白く照らすはずの光が、突然濁った。
月の中央から黒い影が染み出し、瞬く間に広がっていく。
森も、村も、山頂の石柱も、すべてが暗い影に呑まれた。
空にある月が欠けたのではない。
異界から押し寄せるノクタルの影が、月光を奪っている。
石柱に刻まれた竜文字が一斉に明滅した。
低い音が、地の底から響く。
山頂の空間が大きく歪んだ。
黒い亀裂が月光の中へ走り、裂け目の向こうから無数の影が蠢く。
十二年前よりも強い。
アルヴェインが言葉にするまでもなく分かった。
封印を押し広げるだけで、山全体が軋んでいる。
傷の治りきっていないアルヴェインでは、まともに戦うことさえできない。
「急ぐぞ」
アルヴェインが低く告げた。
「境界が完全に開く前に、儀式を始める」
リナは頷き、薬草を集めるために走った。
月白花は、黒い影の中でも淡く白く光っていた。
銀針草を根元から切り、止血草の葉を摘む。
岩の隙間から流れる湧き水を、供物として残されていた器へ汲んだ。
アルヴェインは爪で自らの鱗の隙間を浅く裂き、数滴の血を落とす。
リナは薬草を石の上で潰した。
最初に彼の傷を治療したときと同じ手順。
だが今度は、傷を塞ぐためだけの薬ではない。
戻ってくる膨大な力に、身体が耐えるための薬だった。
月白花の花弁を加える。
銀針草の汁が、竜の血と混ざる。
湧き水を少しずつ注ぎ、粘りを確かめる。
背後では、異界の亀裂がさらに広がっていく。
黒い何かが、裂け目の内側から表面を押した。
巨大な口のようにも見えた。
無数の脚のようにも見えた。
見るたびに形が変わる。
リナの手が震えた。
「そちらを見るな」
アルヴェインが言った。
「薬だけを見ろ」
リナは息を整え、手元へ意識を戻した。
薬師として何度もしてきたことだ。
病人が苦しんでいても、周囲が騒いでいても、薬を作る手だけは止めてはならない。
「できました」
完成した薬は、淡い銀色を帯びていた。
リナは器を両手で抱え、アルヴェインの前へ運んだ。
「全部飲んでください」
「ひどい匂いだ」
「死ぬよりはましです」
アルヴェインは器の中身を一息に飲み干した。
薬が喉を通ると、傷の周囲に淡い光が走る。
完全に治ったわけではない。
だが、崩れかけていた身体がわずかに安定した。
「始めるぞ」
アルヴェインが石柱の中央へ身体を伏せる。
リナは古文書を開き、人間側の手順を確かめた。
竜文字そのものは読めない。
アルヴェインが短く訳し、リナがその通りに動く。
石柱の間へ月白花を置く。竜の血を混ぜた薬で円を描く。その中央へ、竜と人間が向かい合う。
儀式の準備が整った瞬間、轟音とともに、空が裂けた。
黒い影が山頂へ溢れ出す。
最初に現れたのは、巨大な顎だった。
月光そのものを噛み砕くような、底の見えない口。
その周囲から無数の脚が伸び、さらに獣の頭や長い尾へ形を変えていく。
蝕月獣ノクタル。
定まった姿を持たない怪物が、半ば現世へ身体を乗り出していた。
リナは息をのんだ。
本能が逃げろと叫んでいる。
足が動かない。
喉から声も出なかった。
「リナ!」
アルヴェインの声で我に返った。
「儀式を続けろ!」
ノクタルの影が、リナへ向かって伸びる。
アルヴェインは傷ついた翼を広げ、その前へ立ちはだかった。
残された力で吐き出した銀色の炎が、黒い影を焼き払う。
だが、炎は以前のような勢いを持っていない。
ノクタルの一撃が翼へ直撃した。
治りかけていた傷が再び裂け、血が飛び散る。
「アルヴェイン!」
「こちらを見るな!」
竜は吠えた。
「お前の役目を果たせ!」
リナは震える手を古文書へ戻した。
術式の中央へ跪き、両手をアルヴェインの額へ触れる。
古い契約を終わらせる言葉を告げる。
「フェルナ村に生まれ、この土地で育った者として告げます」
黒い影が、再び結界を叩いた。
石柱の一本に亀裂が走る。
リナは術式の中央に跪き、両手をアルヴェインの額へ触れた。
「フェルナ村に生まれ、この土地で育った者として告げます」
アルヴェインの胸元から、白い光の鎖が浮かび上がる。
百年以上、彼を勇者との契約へ結びつけていたものだった。
「あなたは、もう勇者を待たなくていい」
竜の身体がわずかに震えた。
「勇者の代わりに、ここで死ぬ必要もない」
術式の光が強まっていく。
「この土地を守り続けるという古い役目から、あなたを解放します」
鎖が軋んだ。
しかし、まだ砕けない。
「最後の手順が残っている」
アルヴェインが苦しげに告げた。
「何をすればいいんですか」
アルヴェインは古文書へ視線を落とした。
「竜と人間の息を重ね、契約の境界を閉じる」
「息を重ねる?」
「人間の言葉で言えば、口づけだ」
リナは目を見開いた。
「それを今言うんですか!」
「俺が決めた儀式ではない!」
背後でノクタルが咆哮した。
黒い爪が結界を突き破り、アルヴェインの背を裂く。
白銀の鱗の隙間から血が散った。
「早くしろ!」
リナは巨大な竜の顔を見上げた。
人間とはまるで違う。
硬い鱗に覆われた長い鼻梁。
鋭い牙。
自分の身体など簡単に呑み込めるほど大きな口。
それでも、青い瞳だけは、初めて出会ったときから変わらなかった。
不器用で、頑固で、誰よりも優しい竜の目だった。
リナはアルヴェインの鼻先へ両腕を回した。
「少し、下げてください」
「何?」
「届かないんです!」
アルヴェインは戸惑いながらも、巨大な頭を地面近くまで下げた。
リナはつま先立ちになり、その硬い鼻先へ顔を寄せる。
竜の唇は人間のように柔らかくはない。
鱗の合間にある、わずかに薄い部分。
そこへ、そっと唇を重ねた。
ほんの一瞬だった。
けれど、触れた瞬間、世界から音が消えた。
リナの吐息と、アルヴェインの熱い息が重なる。
人と竜。
守られてきた者と、守り続けてきた者。
百年以上すれ違っていた二つの意思が、ようやく一つの場所で結ばれた。
そのとき、白い鎖が砕け散った。
古い契約が解除される。
遠い場所から、何かが呼び戻された。
空を越え、時を越え、勇者へ与えられたままだった加護が、巨大な光となって月冠山へ降り注ぐ。
アルヴェインの身体が白銀の輝きに包まれた。
衝撃に弾き飛ばされかけたリナを、巨大な前脚が包むように支える。
折れていた角の根元から光が伸びた。
新たな角が、夜空へ向かって再生していく。
剥がれていた鱗の跡を、眩い白銀の鱗が次々に覆った。
裂けていた翼がつながり、夜空を覆うほどの翼膜が大きく広がる。
古傷は消え、黒い呪いは煙のように剥がれ落ちていった。
濁っていた瞳にも、澄み切った青い光が戻る。
リナは、その姿を息を忘れて見上げた。
最初に出会ったとき、アルヴェインは傷だらけだった。
鱗を失い、角を折られ、呪いに蝕まれた姿は、恐ろしい怪物のように見えた。
だが、それは本来の姿ではなかった。
月光を映す白銀の鱗。
王冠のように天へ伸びる二本の角。
悠然と広げられた巨大な翼。
青い瞳には、夜空そのものを閉じ込めたような深い光が宿っている。
そこに立っていたのは、傷ついた怪物ではない。
古き時代に勇者と並び立ち、月冠山を守り続けてきた竜だった。
圧倒的に美しく、強大な存在。
アルヴェインが翼を一度打ち下ろす。
それだけで、山頂を覆っていた黒い霧が吹き飛んだ。
ノクタルが初めて、怯えたような声を上げる。
アルヴェインは蘇った青い瞳で、月の怪物を見据えた。
「俺は“月を食べる竜”アルヴェイン・エルシリオン。月の獣よ。百年越しに決着をつけようではないか」
その声には、もう衰えも迷いもなかった。
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