第15話 夜は明けて
美しく、そして圧倒的な白銀の翼が、夜空を覆った。
全盛期の力を取り戻したアルヴェインが飛び立つと、山頂を埋めていた黒い霧が一息に吹き散らされた。
異界の裂け目から、月の怪物――蝕月獣ノクタルが全身を現す。
獣とも虫ともつかない輪郭。
無数の脚と顎が絡み合い、月の光を喰らいながら膨れ上がっていく。
かつて、勇者とアルヴェインが二人がかりでも倒せなかった怪物。
百年以上封じられ続けたノクタルもまた、以前より強大になっていた。
だが、アルヴェインも同じではない。
力だけなら、百年前と変わらない。
しかし今の彼には、十二年ごとに怪物と戦い続けた経験がある。
どこから攻撃が来るのか。
どの影が囮で、どこに本体が潜んでいるのか。
そのすべてを知っていた。
ノクタルの脚が、山頂へ降り注ぐ。
アルヴェインは翼を傾け、その隙間を縫うように飛んだ。
白銀の炎が夜を裂く。
怪物の影が焼け落ちるが、すぐに別の形へ変わって襲いかかってくる。
アルヴェインは追撃せず、深く息を吸った。
次の瞬間、炎ではなく、眩い光が口から放たれた。
影を焼くのではない。
怪物を異界へつなぎ止める核そのものを射抜く一撃だった。
ノクタルが悲鳴を上げる。
それはこの世のものとは思えないような、不快感を凝縮させたようなけたたましい叫び声であり、リナは思わず耳を塞いで身体を丸め込んでしまうほどであった。
その奇妙な声によって、山全体は震え、岩が崩れ落ちた。
飛び散った破片がリナへ迫る。
アルヴェインは即座に身を翻し、翼で彼女を覆った。
「私なら大丈夫です!」
「黙って守られていろ!」
翼の隙間から、血が落ちた。
傷は癒えても、戦いの負担まで消えたわけではない。
リナは薬箱を開き、すぐに傷口へ薬を塗った。
「応急処置ですが長くは持ちません!」
「十分だ」
アルヴェインは再び飛び立つ。
以前なら、ここで怪物を異界へ押し戻していた。
封印を作り、次の十二年へ先送りしていた。
だが今回は違う。
山頂には、彼を信じて命を預けた人間がいる。
自分が死んだあとの未来ではなく、共に生きる未来を選んだ。
「もう眠っていろとは言わん」
アルヴェインはノクタルを見据えた。
「今夜、ここで終わらせる」
怪物が月へ逃れようとする。
アルヴェインはその進路を塞ぎ、鋭い爪で核を引きずり出した。
黒い影の奥に、濁った月のような球体が脈打っている。
百年前には見抜けなかった本体。
十二年ごとの戦いで、ようやく辿り着いた弱点だった。
ノクタルが無数の声で叫ぶ。
影がアルヴェインの身体へ絡みつき、翼を引き裂こうとする。
「アルヴェイン!」
リナの声が飛ぶ。
その声を聞いたアルヴェインは、逃げなかった。
守るべき者がいるからこそ、退くのではない。
必ず生きて戻るために、前へ出た。
白銀の炎が全身を包む。
アルヴェインは怪物の核を爪でつかみ、そのまま空高く舞い上がった。
月の中心で、白と黒の光がぶつかる。
やがて、黒い核に亀裂が入った。
「……勇者よ。俺は約束を果たしたぞ」
静かな声とともに、白銀の炎が夜空を呑み込んだ。
ノクタルの姿が崩壊していく。
無数の脚も、顎も、山を覆っていた影も、すべてが光の中で灰となった。
異界の裂け目が閉じる。
黒く染まっていた月が、ゆっくりと本来の白さを取り戻していく。
山へ月光が降り注いだ。
森も、村も、石柱も、淡い光に照らされる。
もう影は戻らない。
十二年ごとに繰り返された災厄は、今夜で終わった。
アルヴェインはゆっくりと山頂へ降り立った。
着地した途端、力が抜けるように身体を伏せる。
リナは駆け寄った。
「怪我は?」
「少し疲れただけだ」
「竜はすぐに強がるんですね」
リナは傷を確かめ、残っていた薬を塗った。
アルヴェインは黙って治療を受けていた。
空には、欠けることのない満月が輝いている。
二人はしばらく、何も言わずにその光を見上げた。
◇
夜が明け始める頃、アルヴェインの身体を淡い光が包んだ。
「何ですか?」
「力が戻ったことで、使えるようになったものがある」
巨大な輪郭が、光の中で縮んでいく。
翼が消え、前脚が腕へ変わり、白銀の鱗が肌の下へ溶けていった。
光が収まったとき、そこには一人の青年が立っていた。
長い銀髪。
澄んだ青い瞳。
鋭さを残しながらも、どこか人間離れした整った顔立ち。
リナはしばらく言葉を失った。
「……何だ」
「いえ」
「見すぎだ」
「初めて見るんですから仕方ないでしょう」
アルヴェインは居心地悪そうに顔を背けた。
「弱っていた頃には、この姿に変化する力がなかった」
リナは彼をじっと見た。
確かに、美しい姿だった。
けれど、彼女が信じたのはこの顔ではない。
傷だらけの身体で、自分を山の向こうへ逃がそうとした竜。
村人に憎まれながら、それでも百年以上守り続けた竜。
そのアルヴェインと、今目の前にいる青年は同じだった。
「人の姿になっても、アルヴェインはアルヴェインですね」
「当たり前だ」
「少し安心しました」
「何を心配していた」
「急に性格まで良くなったらどうしようかと」
「お前は俺を何だと思っている」
リナは笑った。
アルヴェインは不満そうだったが、怒りはしなかった。
山を下りる道は、人の足には長い。
だが、今の二人なら並んで歩ける。
アルヴェインが手を差し出した。
「足元に気をつけろ」
リナはその手を見た。
大きな爪ではなく、人間の手。
それでも、竜の姿で自分を守った同じ手だった。
リナは迷わず握り返した。
二人は手を取り合い、朝日の差し込む山道を下り始めた。
◇
月が元の光を取り戻したとき、フェルナ村の村人たちは大いに喜び、力強く鐘を打ち付けていた。マティアス司祭はあの後、再び捕らえられていたようで、縄でぐるぐる巻きにされて転がされていた。
村へ帰還したリナは、山で起きたことを告げた。
月を黒くしていたのは竜ではなかったこと。
アルヴェインが百年以上、村を守り続けていたこと。
これまで生贄にされた娘たちも、殺されたのではなく山の向こうへ逃がされていたこと。
そして、十二年ごとの怪物が完全に消滅したこと。
村人たちは、すぐには受け入れられなかった。
自分たちが災厄だと思っていた存在こそ、守護者だったこと。
尊い伝統だと信じていた儀式には、何の意味もなかったこと。
娘を失った者にとって、その事実は救いであると同時に、あまりにも残酷だった。
過ちを認められず、リナの話を否定する者もいた。
それでも月は白く輝き、怪物の影は二度と現れなかった。
マティアス司祭は、山で起きたことと古文書の内容を外部へ報告し、これによってフェルナ村の百年以上にわたる人身供犠は、教会と領主の名のもとに正式に禁止された。
村長グスタフや長老たちも、最後にはリナの前で深々と頭を下げた。首長であるグスタフは責任を問われて教会の裁判にかけられたが、リナの訴えもあって極刑には至らなかった。
謝罪だけで、傷つけたことが消えるわけではない。失われた年月も、恐怖の中で山へ送られた娘たちの人生も戻らない。
村に残された古文書は、再び地下へ閉じ込められることなく、真実の記録として保管されることになった。
長く続いた花嫁の儀式はこうして終わった。
◇
すべてを終えたあと、アルヴェインは月冠山へ戻ろうとした。
「どこへ行くんですか」
「山だ」
「どうして?」
「どうしてと言われても、俺はずっとあそこにいた」
怪物は倒れた。
勇者との契約も終わった。
もう封印を守る必要はない。
それでもアルヴェインには、ほかに行く場所が思いつかなかった。
「山へ戻って、何をするんですか」
「……考えていない」
「また一人で暮らすんですか」
「それが一番慣れている」
リナは呆れたように息を吐いた。
「ずっと勇者のために、あの山にいたんでしょう」
「ああ」
「今度は、あなたが見たいものを見に行けばいい」
アルヴェインは黙った。
百年以上、誰かとの約束のために生きてきた。
何をしたいかなど、考えたこともなかった。
「お前はどうする」
しばらくして、アルヴェインが尋ねた。
「村へ残るのか」
リナは村を振り返った。
生まれ育った場所。
薬師として人々を助けてきた場所。ミアや患者さんたちの顔が脳裏に少し浮かぶ。
だが同時に、身寄りがないという理由で生贄に選ばれた場所でもある。
憎んでいるわけではない。
だが、すぐに何もなかったように戻れるほど、傷は浅くなかった。
「私も、ここに残らなければならない理由はありません」
「では、どこへ行く」
「分かりません」
リナは山の向こうへ目を向けた。
「町も見たことがありません。その先にどんな国があるのかも、海がどれくらい広いのかも知らない」
「見たいのか」
「はい」
「危険だぞ」
「竜が一緒なら大丈夫でしょう?」
アルヴェインは眉を寄せた。
「俺を護衛にするつもりか」
「嫌なら別にいいです」
リナはわざと前を向いて歩き出した。
数歩進んだところで、背後から腕をつかまれる。
「嫌だとは言っていない」
振り返ると、アルヴェインが困ったような顔をしていた。
「お前が見たいと言うなら、連れていく」
「私のために?」
「そうだ」
「それでは、また誰かのために生きることになりますよ」
アルヴェインは言葉に詰まった。
リナは笑い、彼の手を取り直した。
「一緒に見に行きましょう」
「一緒に?」
「私も見たい。あなたも見たいものを探す。それなら、どちらか一人のためではありません」
アルヴェインはしばらく考えたあと、小さく頷いた。
「悪くない」
二人は村を離れた。
最初に目指したのは、山の向こうにある町だった。
その先の道は、まだ何も決まっていない。
竜と薬師。
守る者と守られる者ではなく、同じ道を歩く二人として旅が始まる。
その手がいつか、ただの旅の仲間以上の意味を持つようになることを、今の二人はまだ知らなかった。
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