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第45話 『白い朝と、残された名前』

 世界が、白く染まった。


 音が消えた。


 痛みも、熱も、重さも、全部が遠くなる。


 まるで、体だけじゃなく心まで光の中に溶けていくみたいだった。


「……ユウト」


 リゼの声が聞こえた。


 遠い。


 でも、確かに隣にいる。


「手、離さないで」


「……離すかよ」


 俺は握り返した。


 力なんてほとんど残っていない。


 それでも、リゼの手だけは分かった。


 温かい。


 ちゃんと生きている。


 俺も、まだここにいる。



 白い光の中。


 一人の男が立っていた。


 ハルト。


 一人目の異界適応者。


 世界を救おうとして、世界に飲まれた男。


 彼は、さっきよりずっと穏やかな顔をしていた。


『ありがとう』


 その声は、もう黒い影に歪められていなかった。


「……終わったのか?」


『全部ではない』


「そういうとこ、はっきり言うなぁ……」


 ハルトは少し笑った。


『でも、最悪の根は切れた』


「根?」


『魔力汚染を広げていた異物。世界の傷に寄生していたもの』


「じゃあ、これで世界は元通りに?」


『すぐには戻らない』


「だよな」


『傷跡は残る。汚染体も消えきらない。壊れたものは、すぐには治らない』


 それでも。


 ハルトは、俺とリゼを見た。


『でも、世界はもう“人を器にして治ろう”とはしない』


 その言葉で、胸の奥から何かが抜けた気がした。


 重いもの。


 ずっと、見えない手で押さえつけられていたもの。



「ハルトは……どうなるの?」


 リゼが聞いた。


 声が少し震えている。


 ハルトは笑った。


『やっと、休める』


「……」


『誰かに名前を呼ばれて終われるなら、十分だ』


「十分じゃねぇだろ」


 思わず言っていた。


「お前、ずっと一人で背負わされてたんだろ」


『そうだな』


「それで十分って言うなよ」


 ハルトは少し驚いた顔をした。


 それから、困ったように笑った。


『君は優しいな』


「違う」


 俺は首を振る。


「腹立ってるだけだ」


『それも優しさだ』


「やめろ。照れる」


 リゼが小さく笑った。


 こんな場所なのに。


 もう少しで消える相手を前にしているのに。


 なぜか、その笑い声は救いみたいだった。



 ハルトの体が、少しずつ光になっていく。


 足元から。


 指先から。


 ほどけるように。


「なぁ」


『何だ?』


「お前のこと、残す」


 ハルトが瞬きした。


「世界を救おうとして、壊された男じゃなくて」


 俺は息を吸った。


「ハルトって名前の、一人の人間がいたって」


「私も覚える」


 リゼが言った。


「絶対に」


 ハルトは、しばらく何も言わなかった。


 そして、静かに頭を下げた。


『ありがとう』


 その声は、今までで一番人間らしかった。



『ユウト』


「ん?」


『君は、世界を救おうとしなくていい』


「……」


『ただ、君の隣にいる人を守れ』


 ハルトの視線が、リゼへ向く。


『それで十分だ』


「それだけでいいのか?」


『それだけを続けられる人間は、案外少ない』


「……重いな」


『実感だ』


「だろうな」



 ハルトは最後に、リゼへ向いた。


『観測者の少女』


「リゼでいい」


『リゼ』


 ハルトは柔らかく言った。


『彼を、世界に渡さないでくれ』


「うん」


 リゼは即答した。


「絶対に渡さない」


『頼もしい』


 ハルトは笑った。


 そして——


 完全に光へ変わった。



 最後に、声だけが残った。


『次は、ちゃんと生きろ』



 白い世界が砕けた。



 現実に戻った瞬間、全身に痛みが戻ってきた。


「ぐっ……!」


 膝が崩れる。


 リゼも同時に倒れかけた。


「リゼ!」


 支えようとして、俺もバランスを崩す。


 結果、二人まとめて床に倒れた。


「痛って……」


「うぅ……」


 気づけば、俺の腕の中にリゼがいた。


 距離、近い。


 というか密着している。


「……」


「……」


 沈黙。


 リゼの顔がじわじわ赤くなる。


「ど、どいて……」


「いや、俺も動きたいんだけど体が動かない」


「じゃあ、見ないで」


「この距離で!?」


「見ないで!」


「無茶言うな!」



「戻って早々、元気そうねぇ」


 看守長の声。


 見ると、全員がこっちを見ていた。


 セリアは剣を支えに立っている。


 カインは呆れ顔。


 ミラはすでに診察モード。


 イヴは静かにこちらを見ている。


 そしてエレナは——


 動けずに立ち尽くしていた。



 世界核。


 白い球体に走っていた黒いひびは、消えていた。


 完全に綺麗ではない。


 細かい傷跡みたいなものは残っている。


 でも、さっきまでの禍々しさはない。


 黒い霧も薄れている。


「……本当に」


 エレナが呟いた。


「切り離した……」


 その声には、研究者としての驚きがあった。


 でも同時に、別のものも混じっていた。


 敗北感。


 困惑。


 そして、ほんの少しの安堵。



「ユウト!」


 セリアが駆け寄ろうとして、足元がふらつく。


「お前も動くな!」


「ですが——」


「怪我人!」


「あなたもです!」


「全員怪我人だなもう!」


 ミラが冷静に言った。


「事実」


「医者から見て?」


「全員、即休養対象」


「このパーティ終わってんな」



 リゼが何とか体を起こす。


 俺も壁に手をついて座り直した。


 腕の光は、かなり弱くなっていた。


 でも消えてはいない。


 静かに、奥の方で脈打っている。


「……終わったのか?」


 俺が呟く。


 イヴが首を横に振った。


「始まった」


「そういう不穏な返答やめてくれない?」


「でも、終わったものもある」


「何が」


「世界核への寄生は切れた」


「じゃあ」


「魔力汚染の拡大は止まる可能性が高い」


 カインが息を呑む。


「それ、すごいことだぞ」


「でも」


 ミラが続ける。


「既に広がった汚染は残る」


 イヴが頷く。


「浄化には時間がかかる」


 全員の視線が、俺に集まる。


「……おい」


 嫌な予感。


「また俺?」


 リゼがすぐに俺の前に立った。


「だめ」


 早い。


「まだ何も言われてない」


「だめ」


「いや、でも」


「だめ」


「はい」


 逆らえない。



 イヴは淡々と言った。


「ユウト一人に背負わせる必要はない」


「……そうなのか?」


「今回、世界核に記録された」


「何が?」


「浄化の仕組み」


 イヴは世界核を見上げる。


「一人の器ではなく、複数の人間が関わる浄化法」


「つまり?」


「研究すれば、再現できる可能性がある」


 その瞬間、エレナが顔を上げた。


「……再現可能?」


「可能性」


「資料は?」


「世界核に残っている」


 エレナの目が、研究者の目に戻る。


 でも、さっきまでの冷たさだけではなかった。



「エレナ」


 俺は呼んだ。


 彼女はこちらを見る。


「俺は研究材料にならない」


「……」


「でも、世界を見捨てる気もない」


 リゼが隣に座る。


 手を握ってくる。


 俺はその手を握り返した。


「だから、やり方を変えろ」


「……やり方」


「人を捕まえて、閉じ込めて、個体だの材料だの言うやり方は終わりだ」


 エレナは黙っていた。


 反論しない。


 でも納得した顔でもない。


 しばらくして、彼女は静かに言った。


「研究院は、簡単には変わりません」


「だろうな」


「国も同じです」


「分かってる」


「あなたの存在は、今後さらに狙われます」


「だろうな……」


 ため息が出た。


 結局、平和にはならない。


 でも、さっきまでとは違う。


 俺はもう、ただ逃げるだけの存在じゃない。



 エレナは、少しだけ視線を落とした。


「ですが」


「?」


「今回の結果は、無視できません」


「つまり?」


「私は、あなたを強制回収する方針を一時凍結します」


「……一時?」


「一時です」


「そこは言い切らないんだな」


「私は研究院の人間です」


「正直だな」


「嘘は言いません」


「お前らそればっかだな」



 エレナはリゼを見る。


「リゼリア様」


「私は戻らない」


「承知しました」


 リゼが驚いた顔をする。


「……え?」


「現時点で、あなたの自発的協力の方が価値が高いと判断します」


「言い方は相変わらず最悪だけど」


 リゼは少しだけ笑った。


「でも、戻らない」


「記録します」


「記録しなくていい」



 その時、塔全体が震えた。


 ゴォン——


 さっきとは違う。


 崩壊音。


「……おい」


 カインが上を見る。


「まさか」


 イヴが静かに言った。


「世界核の寄生解除により、塔の維持機能が停止した」


「つまり?」


 俺が聞く。


「崩れる」


「やっぱりかぁ!!」



 天井から石片が落ちてくる。


 床の魔導回路が次々に消えていく。


「全員撤退!」


 セリアが叫ぶ。


「お前は走るな!」


「でも指示は出します!」


「それは助かる!」


 カインがイヴを見る。


「出口は!?」


「上」


「遠い!」


「別ルート」


「あるのか!」


「ある」


「最初から言え!」


「聞かれてない」


「今そういうのいいから!」



 イヴが壁に手を当てる。


 白い光が走り、隠し通路が開いた。


 冷たい風が流れ込む。


「そこを抜ければ外」


「よし行くぞ!」


 俺は立とうとして、膝が笑った。


「……無理かも」


 リゼが肩を貸してくる。


「だから言った」


「お世話になります」


「素直でよろしい」


 近い。


 でも、今度は文句を言わなかった。


 言ったら怒られそうだから。



 セリアは看守長に支えられ、ミラは少女を連れて走る。


 カインが最後尾。


 エレナも、兵士たちへ撤退命令を出していた。


「全員、資料より人命優先」


 その声を聞いて、俺は少し驚いた。


 さっきまでのエレナなら、資料優先と言いそうだったから。


 看守長が小さく笑う。


「少しは変わったかもね」


「だといいけどな」



 通路を走る。


 塔が崩れていく。


 黒い石の壁が剥がれ、白い光が消えていく。


 長く封じられていた場所が、役目を終えようとしている。


 その途中。


 俺は一瞬だけ振り返った。


 最下層の奥。


 白い光の中に、誰かが立っている気がした。


 ハルト。


 もう声は聞こえない。


 でも、笑っていた気がした。


「……またな」


 俺は小さく呟いた。


 返事はなかった。


 でも、それでよかった。



 出口の光が見えた。


「飛び出せ!」


 カインが叫ぶ。


 全員が外へ転がり出る。


 次の瞬間——


 黒い塔が、ゆっくりと崩れ落ちた。


 轟音。


 土煙。


 風圧。


 俺たちは地面に伏せる。


 しばらく、何も聞こえなかった。



 やがて。


 静かになった。



 朝だった。


 白い朝日が、森の向こうから差している。


 黒い塔はもうない。


 ただ、瓦礫の山があるだけだ。


 リゼが空を見上げた。


「……朝」


「ああ」


「外の朝、初めて」


「そっか」


 リゼは笑った。


 疲れ切って、泥だらけで、傷だらけで。


 それでも、今までで一番綺麗に笑った。


「綺麗だね」


「……ああ」


 俺も空を見上げた。


 世界はまだ最悪だ。


 追手もいる。


 研究院も国も、そう簡単には変わらない。


 汚染体だって残っている。


 問題は山ほどある。


 でも。


 朝は来た。



 エレナが少し離れた場所から言った。


「ユウト」


「何だよ」


「あなたの名は、記録します」


「また記録か」


「ただし」


 エレナは少しだけ間を置いた。


「浄化個体ではなく」


「異界適応者でもなく」


 彼女は静かに言った。


「ユウトとして」



 俺は少し笑った。


「最初からそうしろよ」


「今後、努力します」


「堅いなぁ」



 リゼが俺の手を握る。


「これからどうする?」


「……」


 俺は朝日を見る。


 瓦礫を見る。


 仲間たちを見る。


 そして答えた。


「まず休む」


「うん」


「飯食う」


「うん」


「寝る」


「うん」


「それから考える」


 リゼが笑った。


「普通だね」


「ああ」


 俺は頷いた。


「普通が一番だ」



 その時。


 遠くの空に、白い鳥が飛んでいった。


 黒い塔の上を越えて。


 朝日の中へ。



 俺たちはまだ、逃亡者だ。


 世界を救ったかもしれないし、余計に狙われる存在になっただけかもしれない。


 でも。


 少なくとも今日だけは。


 誰かの器でも、材料でも、個体でもなく。


 俺たちは、自分の名前で立っていた。

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