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第44話 『器ではなく、名前』

『次の器か』


 黒い影の声は、頭の奥に直接響いた。


 低い。


 重い。


 人の声というより、地面の底から世界そのものが喋っているみたいだった。


「違う」


 俺はリゼの手を握り返す。


「俺は器じゃない」


『同じだ』


 黒い影が揺れる。


『一人目も、そう言った』


「……」


『俺は人間だ。俺には名前がある。俺を使うな』


 影の中に、白い光が浮かんだ。


 一人の男の姿。


 映像で見た、一人目の異界適応者。


 彼は笑っていた。


 でもその目は、もうほとんど人間のものじゃなかった。


『だが最後には、自ら差し出した』


『世界を救うために』


『人は、そうする』


『正しさの前では、個人など簡単に潰れる』


「……っ」


 嫌な言葉だった。


 エレナと同じだ。


 研究院と同じだ。


 世界を救う。


 未来のため。


 大勢のため。


 その言葉の重さで、一人を押し潰す。



「ユウト」


 リゼの声がした。


 隣にいる。


 ちゃんと。


 手を握っている。


「聞かないで」


「……ああ」


「その声、優しそうに聞こえるけど」


 リゼの瞳が淡く光る。


「嘘が混ざってる」


「分かるのか?」


「うん」


 リゼは黒い影を睨んだ。


「この影、世界そのものじゃない」


「……何?」


「世界の傷に入り込んだ、別のもの」


 黒い影が、初めて揺れた。


『観測者か』


 声が少し変わる。


『厄介だ』



 リゼが俺の手を強く握る。


「見える」


「何が」


「黒い糸」


 俺の視界にも、少しずつそれが見え始めた。


 世界核の白い球体。


 そこに走る黒いひび。


 その奥から、無数の黒い糸が伸びている。


 世界に絡みつくように。


 一人目の光に絡みつくように。


 そして——


 俺の腕にも、少しずつ伸びていた。


「……これが汚染の正体か」


『違う』


 黒い影が囁く。


『これは救済だ』


「救済?」


『壊れた世界を繋ぎ直す』


『弱い命を選別する』


『適応できないものを消し、適応するものだけを残す』


「それを汚染って言うんだよ」


『人間の言葉ではな』


 影が笑う。


『だが世界は望んだ』


『変化を』


『進化を』


『強い器を』


「俺は世界の願望器じゃねぇ」



 その瞬間。


 影から黒い腕が伸びた。


 速い。


 避けられない。


 俺の胸元に突き刺さる——寸前。


「だめ!」


 リゼが俺の前に出た。


「リゼ!」


 黒い腕がリゼに触れる。


 だが、リゼの瞳が光った。


 黒い腕の流れが、一瞬だけ止まる。


「今!」


「おう!」


 俺は右手を伸ばした。


 黒い糸に触れる。


 焼けるような痛み。


 でも、逃げない。


 白い光が走る。


 黒い糸が一本、弾けた。



『……切ったか』


 黒い影の声に、初めて怒りが混じった。


『一人目には、できなかった』


「俺一人なら無理だった」


 俺は息を吐く。


「でも、今は違う」


 リゼが隣で頷く。


「私が見る」


「俺が切る」


 二人の手が繋がっている。


 そこから光が流れる。


 俺だけの浄化じゃない。


 リゼの観測が、黒い糸の場所を暴く。


 俺の光が、それを断つ。



 その頃、現実の最下層。


 隔壁が砕けた。


 ドォン!!


「突入」


 エレナの声が響く。


 白い研究服の女が、兵士たちを従えて最下層へ入ってくる。


 だが、そこで足を止めた。


「これは……」


 世界核の前。


 ユウトとリゼが手を繋いだまま、白い光に包まれている。


 その周囲を、セリア、看守長、カイン、ミラ、イヴが守っていた。


「近づかせません」


 セリアが剣を構える。


 血が包帯に滲んでいる。


 それでも退かない。


「あなたの状態では、私たちを止められません」


 エレナが静かに言う。


「止めます」


「なぜそこまで」


「彼は、物ではありません」


 セリアの声は揺れない。


「名前があります」



 看守長が笑う。


「聞こえた?」


「何がです」


「名前よ」


 看守長の指先に黒紫の魔力が灯る。


「人を材料扱いする連中には、一番苦手な単語でしょ」


 カインが魔導銃を構える。


「同感だな」


 ミラも金属棒を握る。


「医者としても、本人の同意なしの回収は却下」


 イヴは静かにエレナを見た。


「王国研究院」


「あなたたちは、一人目の失敗を繰り返している」



 エレナの表情が、わずかに揺れた。


「……一人目を知っているのですか」


「私は、そのために作られた」


「観測核……」


 エレナの目が見開かれる。


「実在していたのですね」


「実在していた」


 イヴは言う。


「そして、あなたたちの方法は間違っている」



 エレナは世界核を見る。


 ユウトを見る。


 リゼを見る。


 初めて、その声に迷いが混じった。


「では、どう救うのです」


「一人を潰す以外に、世界を救う方法があるというのですか」



 セリアが剣を構え直す。


「あります」


「根拠は」


「彼らが今、やっています」



 白い光が、一段と強くなった。



 意識の奥。


 俺とリゼは、黒い影の前へ進んでいた。


 黒い糸を一本ずつ切るたび、影は小さくなる。


 でも同時に、俺の体も重くなる。


「……ぐっ」


「ユウト!」


「まだいける」


「嘘」


「バレたか」


「バレるよ」


 リゼの手が震えている。


 彼女にも負担がかかっている。


 俺だけじゃない。


 それが怖い。


「リゼ、きつかったら——」


「言わないで」


「でも」


「一人にさせないって言った」


 リゼは、泣きそうな顔で笑った。


「だから、最後まで一緒」


「……強くなったな」


「あなたのせいだよ」


「俺かよ」


「うん」


 こんな場所なのに、少しだけ笑ってしまった。



『なぜ拒む』


 黒い影が問う。


『力を使えば救える』


『世界が望む』


『人々が望む』


『英雄になれる』


「英雄になりたいわけじゃない」


『では何になりたい』


 俺はリゼを見る。


 現実で待っている仲間たちを思い出す。


 セリア。


 看守長。


 カイン。


 ミラ。


 イヴ。


 あの少女。


 そして、外の空。


 初めてご飯を食べて笑ったリゼ。


「普通に生きたい」


『……』


「飯食って、歩いて、笑って、怒られて」


「たまに無茶して」


「怒られて」


「また笑って」


「そういうのでいい」


 リゼが小さく言う。


「私は、それが見たい」


「だろ?」


 俺は黒い影を睨む。


「世界を救うために人間を捨てるなんて、順番が逆だ」



『愚かだ』


 黒い影が膨れ上がる。


『ならば、お前たちごと飲む』


 無数の黒い糸が、一斉に伸びた。


 逃げ場はない。


 リゼが叫ぶ。


「全部は見えない!」


「見えるやつだけでいい!」


「でも!」


「信じろ!」


 俺は両手を広げた。


 白い光が、全身から溢れる。


 熱い。


 痛い。


 体が崩れそうだ。


 でも——


 リゼの手だけは離さない。


「見えた糸を教えろ!」


「右!」


 切る。


「左上!」


 切る。


「足元!」


 切る。


 黒い糸が弾けるたび、影が叫ぶ。


 世界核の黒いひびが、少しずつ薄くなっていく。



 現実でも、異変が起きていた。


 白い球体に走る黒いひびが消え始めている。


 エレナは、言葉を失っていた。


「本当に……切り離している」


「吸収ではなく」


「同調でもなく」


「分解でもない」


「汚染構造のみを選択的に断っている……?」


 研究者としての声だった。


 恐怖と興奮と、理解できないものへの敬意が混ざっていた。



「エレナ」


 イヴが言う。


「これが、別の可能性」


 エレナは答えない。


 ただ、ユウトとリゼを見ていた。



 意識の奥。


 最後の黒い糸が見えた。


 太い。


 深い。


 世界核の中心に食い込んでいる。


 そしてその先に——


 一人目の異界適応者が囚われていた。


『……切るな』


 黒い影が初めて焦った。


『それを切れば、私はこの世界から剥がれる』


「だから切るんだろ」


『同時に、一人目の残滓も消える』


「……」


 手が止まった。


 一人目。


 俺と同じように、この世界へ来た男。


 世界を救おうとして、飲まれた人。


『彼は、ここで世界を支えている』


『切れば、彼は完全に消える』


 リゼが息を呑む。


「ユウト……」


 俺は、一人目の姿を見た。


 白い光の中で、彼は俯いている。


 すると。


 ゆっくり、顔を上げた。


『切れ』


 声がした。


 弱い。


 でも、はっきりと。


『もう、十分だ』


「……でも」


『頼む』


 彼は笑った。


 映像で見た、最初の頃の笑顔だった。


『次は、一人で背負うな』


 胸が熱くなる。


 喉が詰まる。


 俺は歯を食いしばった。


「……名前は?」


 一人目が、少し驚いたように瞬きする。


「名前、教えてくれ」


『……ハルト』


「ハルト」


 俺は頷いた。


「覚えた」


 リゼも言った。


「私も、覚えた」


 ハルトは、安心したように目を細めた。


『ありがとう』



 俺とリゼは、最後の黒い糸へ手を伸ばした。


「いくぞ」


「うん」


「ハルトを」


「終わらせるんじゃない」


 リゼが言う。


「解放する」


「ああ」


 白い光が集まる。


 黒い糸が震える。


 影が叫ぶ。


『やめろ』


『私は世界の進化だ』


『私は必要だ』


「うるせぇ」


 俺は叫んだ。


「人を器にする進化なんて、こっちから願い下げだ!」


 光が弾けた。


 最後の糸が——切れた。



 世界が、白く染まった。

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