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第39話 『発熱と最優先対象』

 夢を見た。


 黒い水の中で、誰かが俺の腕を掴んでいた。


 冷たい手。


 引きずり込もうとする力。


 でも、反対側からも誰かが手を握っている。


 温かい手。


 離すまいとする力。


「……戻って」


 声が聞こえた。


「こっちに戻って」


 誰の声か、すぐに分かった。


 リゼだ。



「……っ」


 目を開けた瞬間、全身が重かった。


 頭が熱い。


 喉が痛い。


 体の節々が軋む。


「起きた!」


 すぐ近くで声がした。


 リゼが俺の顔を覗き込んでいる。


 近い。


 めちゃくちゃ近い。


「……近い」


「今それ言う!?」


「いや、目覚め一発目に顔が近いと心臓に悪い」


「心配してたんだよ!」


「それは……すまん」


 起き上がろうとした瞬間、視界がぐらついた。


「うお……」


「だめ!」


 リゼが慌てて俺の肩を押さえる。


 そのままベッドへ戻された。


「寝てて」


「でも状況——」


「寝てて」


「はい」


 声の圧がすごい。


 監獄長より怖いかもしれない。



 礼拝堂の隠れ家。


 薄暗い部屋。


 割れた窓から朝の光が差し込んでいる。


 俺の体には包帯。


 腕にも肩にも脇腹にも。


 まるで失敗したミイラみたいだ。


「どれくらい寝てた?」


「二時間弱」


 答えたのはミラだった。


 白衣姿の医者。


 相変わらず眠そうな目だが、手元は妙に正確に動いている。


「発熱。魔力過負荷。出血。打撲。裂傷。あとたぶん精神疲労」


「盛り合わせだな」


「笑えない」


「はい」


 ミラは体温を測るように俺の額へ手を当てた。


「まだ熱い」


「そんなに?」


「普通なら動けない」


「その“普通なら”って言葉、最近めちゃくちゃ聞く」


「あなたが普通じゃないから」


「嬉しくない」



 リゼが濡れた布を絞っていた。


 水の音。


 それを俺の額に乗せる。


 冷たい。


「……助かる」


「もっと早く言って」


「ありがとう」


「うん」


 リゼは少しだけ安心したように笑った。


 その顔を見て、胸の奥が変に痛む。


 心配させた。


 かなり。



「で、外は?」


 俺が聞くと、カインが壁際から答えた。


「封鎖中」


「やっぱりか」


「街道、正門、地下水路、全部見張られてる」


「詰んでない?」


「だいぶ詰んでる」


「そこは否定してくれ」


「嘘つきたくない」


「正直すぎる情報屋だな」


 カインは地図を広げていた。


 赤い印がいくつもついている。


「ただ、完全包囲ではない」


「穴がある?」


「ある」


「どこ?」


「森」


「また森かよ……」


「森は追跡しづらい。ただし魔力汚染体がいる」


「外の世界、選択肢が全部嫌なんだけど」


「だから言っただろ。監獄島の方が平和だって」


「もうそれ言うの禁止な」



 セリアは入口付近に座っていた。


 包帯を巻かれ、剣を抱えている。


 顔色は悪い。


 でも姿勢は崩れていない。


「セリア」


「はい」


「休んでる?」


「座っています」


「それ休んでるって言わないんだよ」


「見張りです」


「怪我人だろ」


「あなたもです」


「俺は寝かされてる」


「正しい判断です」


「お前も寝ろ」


「拒否します」


「即答するな」


 セリアは少しだけ目を逸らした。


「……白鴉が来る可能性があります」


「だからって」


「来たら、私が止めます」


 静かな声。


 でも、決意は硬い。


「今の体で?」


「今の体でも」


「……無茶だろ」


「無茶には慣れています」


「それ、自慢にならないぞ」


 セリアは一瞬だけ黙った。


 そして、小さく言った。


「なら、あなたも無茶をやめてください」


「……」


 反論できない。


 完全にブーメランだった。



 看守長は奥の祭壇に腰掛けていた。


 行儀は悪いが、本人はまったく気にしていない。


「外、何か掴めた?」


 俺が聞くと、看守長は軽く肩をすくめた。


「研究院が動いたわ」


「研究院?」


 カインの元いた組織。


 男が消えた世界。


 魔力汚染。


 適応個体。


 俺の浄化反応。


 嫌な単語が全部繋がっていく。


「俺を狙ってる?」


「間違いなく」


 看守長はあっさり言った。


「しかも優先順位が上がったはず」


「リゼより?」


 その瞬間、リゼの手が止まった。


 看守長は少しだけ目を細める。


「たぶんね」


「……」


 部屋が静かになる。


 リゼが狙われるのも最悪だった。


 でも俺が狙われるのも、別の意味で最悪だ。


「俺、そんな大物じゃないんだけどな」


 そう言うと、カインが鼻で笑った。


「自覚しろ」


「嫌だ」


「男で、異界由来っぽくて、魔力汚染に耐えて、しかも浄化する」


「並べるな。怖くなる」


「怖いから言ってる」


 ミラも続けた。


「研究院から見れば、あなたは歩く国家機密」


「物扱いかよ」


「ええ」


 否定なし。


 むしろきっぱり。


「世界は優しくない」


「何回も実感してる」



 その時、リゼが俺の手を握った。


「渡さない」


 小さな声。


 でも、はっきり聞こえた。


「リゼ?」


「誰にも渡さない」


 顔を上げる。


 その目は、今までで一番強かった。


「私を外に連れてきてくれた人だから」


「……」


「今度は、私が守る」


 言葉が出なかった。


 嬉しいとか、困るとか、危ないとか。


 全部が混ざって、何も言えない。


「……お前が守られる側じゃないのかよ」


「もう、それだけじゃ嫌」


 リゼは俺の手を強く握った。


「私も、一緒に逃げる。一緒に戦う」


「……」


「だから、勝手に一人で傷つかないで」


「はい」


 これは逆らえない。


 本日三度目の敗北。



「いい雰囲気のところ悪いけど」


 カインが地図から顔を上げた。


「そろそろ動かないとまずい」


「三時間休めって言ってなかったか?」


 俺がミラを見る。


 ミラは無表情で答えた。


「本当は休んでほしい」


「でも?」


「外がうるさい」


「外?」


 その瞬間。


 遠くで鐘が鳴った。


 低く、重く。


 一回。


 二回。


 三回。


 カインの顔が歪む。


「捜索区域が広がった」


「ここも?」


「時間の問題」



 ミラがすぐに動いた。


 棚から薬瓶と包帯を取り出し、袋に詰めていく。


「応急薬。止血布。熱冷まし。魔力安定剤」


「そんなに?」


「死にたくないなら持っていって」


「ありがとう」


「感謝は生き延びてから」


「みんなそれ言うな……」



 リゼが俺を支えようとする。


「立てる?」


「立てる」


 ベッドから足を下ろす。


 床に足がついた瞬間、膝が笑った。


「……おっと」


「ほら!」


 リゼが支える。


 体が近い。


 肩を貸される形。


 横から柔らかい感触が当たって、反射的に固まる。


「……」


「どうしたの?」


「いや、その」


「熱上がった?」


「別方向で」


「?」


 純粋に首をかしげるな。


 余計に困る。


 看守長がニヤニヤしている。


「元気そうね」


「黙れ」


「発熱してても反応はするのね」


「黙れって!」


 リゼがようやく気づいたのか、顔を真っ赤にした。


「ご、ごめん!」


「いや、助かってる。助かってるんだけど」


「見ないで!」


「何を!?」


「分からないけど!」


 もう会話が崩壊している。


 セリアが真面目に言った。


「支える位置を変えますか?」


「お前は真面目にラッキースケベへ介入するな」


「らっきー……?」


「忘れてくれ」



 その時。


 礼拝堂の外で、小石が転がる音がした。


 全員が止まった。


 空気が変わる。


 セリアが剣を握る。


 カインが魔導銃を抜く。


 看守長の指先に光が灯る。


「……来た?」


 リゼが小声で聞く。


 俺は息を殺した。


 扉の向こう。


 足音はない。


 でも、何かがいる。



 コン、コン。


 扉が叩かれた。


 カインが顔をしかめる。


「合図が違う」


「敵か?」


「たぶん」


 もう一度。


 コン、コン。


 そして、女の声。


「ミラ先生」


 ミラの表情が変わった。


「……この声」


「知り合い?」


 俺が聞くと、ミラは小さく頷いた。


「患者」


「開けるのか?」


「……」


 ミラは迷った。


 その一瞬が、答えだった。


 見捨てられない人間なのだ、この医者は。



 カインが銃を構えたまま扉へ近づく。


「罠なら撃つ」


「分かってる」


 扉を少しだけ開ける。


 隙間から入ってきたのは、小さな少女だった。


 いや、十代後半くらいか。


 息を切らしている。


 服は泥だらけ。


 肩に傷。


「ミラ先生……!」


「どうしたの」


「研究院が……」


 少女は震える声で言った。


「この礼拝堂を、もう特定しています」


 空気が凍る。


「あと、伝言を預かっています」


「伝言?」


 少女は俺を見た。


 正確には——俺の腕を。


 そして、怯えたように言った。



「浄化する男へ」


「逃げても無駄」


「あなたは、世界を救うための材料だ」



 その瞬間。


 礼拝堂の外に、白い光の輪が広がった。


 地面に魔法陣。


 壁に紋章。


 空気が重くなる。


 ミラが呟く。


「封鎖結界……」


 カインが舌打ちした。


「完全に囲まれた」


 看守長が笑う。


 でも目は笑っていない。


「休憩終了ね」


 セリアが剣を抜く。


 リゼが俺の手を握る。


 俺は熱でふらつく体を、無理やり立たせた。


 礼拝堂の扉の向こう。


 静かな女の声が響く。


「王国研究院、特務執行官エレナ」


「浄化個体を回収します」



 逃げ場はない。


 休む暇もない。


 世界はもう、俺を“人間”として見ていなかった。

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