第38話 『赤い信号と夜明けの隠れ家』
遠くの空に、赤い光が上がっていた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
夜明け前の薄暗い空に、血みたいな色が滲んでいく。
「……あれ、かなりまずいやつか?」
俺が聞くと、カインは低く答えた。
「かなりどころじゃない」
「じゃあ最悪?」
「最悪の一歩手前」
「一歩あるだけマシか……?」
「その一歩も今消えかけてる」
「マシじゃなかった」
看守長の顔からも、さっきまでの余裕が消えていた。
「赤信号三発。都市封鎖級ね」
「都市封鎖?」
「この街から出る道、検問だらけになるわ」
「終わってんじゃねぇか」
「まだ終わってない」
カインが歩き出した。
「封鎖が完了するまで少しだけ時間がある。今のうちに隠れる」
「逃げるんじゃなくて?」
「今動いたら捕まる」
「隠れたら?」
「見つかったら捕まる」
「どっちも捕まるじゃねぇか!」
「だから見つからない場所に行く」
カインは当然みたいに言った。
頼もしいのか、胡散臭いのか、まだ分からない。
でも今は——こいつに頼るしかなかった。
⸻
俺たちは丘を降り、街道から外れた。
草むら。
古い石垣。
崩れかけた道。
普通なら絶対に通らないような場所を、カインは迷いなく進んでいく。
「お前、こういう道詳しすぎない?」
「逃げ慣れてるからな」
「誇れることか?」
「外の世界では才能だ」
「嫌な世界だなぁ……」
セリアは無言で歩いていた。
でも明らかに足取りが重い。
「セリア」
「問題ありません」
「まだ何も言ってない」
「問題ありません」
「それ問題ある時の返事だって何回言わせるんだよ」
セリアは少しだけ目を逸らした。
「……少しだけ、出血しています」
「少しだけの量じゃないだろ」
肩から血が滲んでいる。
白鴉との戦い。
地下水路。
追跡。
無理をしすぎだ。
俺も人のこと言えないけど。
「休める場所まであと少しだ」
カインが振り返らずに言う。
「そこなら治療もできる」
「医者いるのか?」
「いる」
「信用できる?」
「俺よりは」
「基準が不安すぎる!」
⸻
リゼが俺の横を歩いていた。
何度も俺の肩を見る。
短剣がかすめた傷。
服の布で押さえているけど、血は完全には止まっていない。
「痛い?」
「痛い」
「……」
「でも歩ける」
「そういう問題じゃないよ」
「じゃあどういう問題だよ」
「心配する側の問題」
「……」
言い返せなかった。
リゼは怒っている。
でも、それ以上に心配している。
それが分かるから、妙に胸が痛い。
「次からは」
「うん」
「庇う前に一回相談して」
「戦闘中に?」
「うん」
「無茶言うな」
「じゃあ勝手に怪我しないで」
「それも無茶だな」
「もう……!」
リゼが頬を膨らませる。
こんな状況なのに、その顔は少しだけ可愛かった。
いや、今それ考えてる場合じゃない。
⸻
「着いた」
カインが足を止めた。
目の前にあったのは、古い礼拝堂だった。
屋根は一部崩れ、壁には蔦が絡んでいる。
どう見ても廃墟。
「……ここ?」
「そう」
「隠れ家っていうより廃墟だな」
「だから隠れ家になる」
「なるほど……?」
カインが扉を三回叩く。
コン、コン、コン。
少し間を置いて、さらに二回。
コン、コン。
すると——
中から小さな声がした。
「合言葉」
カインは面倒くさそうに答えた。
「金がない」
「いつものことね」
ギィ、と扉が開く。
中から現れたのは、白衣姿の女だった。
銀縁の眼鏡。
眠そうな目。
けれど、その視線は鋭かった。
「……カイン」
「ああ」
「今度は何を拾ってきたの?」
「世界を揺らす面倒ごと」
「帰って」
「冷たいな」
「あなたが来る時は大体、壁が壊れるか人が死にかけてる」
「今日は両方未遂だ」
「最悪」
女はため息をつき、俺たちを見た。
リゼを見て。
セリアを見て。
看守長を見て。
最後に俺を見る。
そして、目を細めた。
「……男?」
「そこから説明か」
「しかも怪我人」
「それは見れば分かる」
「それに」
女の視線が、俺の腕に止まる。
まだほんの少し、白い光が残っていた。
「……魔力汚染浄化反応」
空気が変わった。
カインが低く言う。
「ミラ」
「分かってる」
ミラと呼ばれた女は扉を大きく開けた。
「入って。全員。今すぐ」
⸻
礼拝堂の中は、外見と違って整っていた。
奥には簡易ベッド。
薬瓶。
魔導具。
隠し診療所みたいな空間だ。
「服を脱いで」
ミラが俺に言った。
「……は?」
「治療するから」
「いや、急に言われると」
「肩。腕。脇腹。全部見ないと処置できない」
「それはそうだけど」
視線を横に向ける。
リゼ、セリア、看守長。
三人ともこっちを見ている。
「……見ないでくれる?」
俺が言うと、看守長がにやっと笑った。
「今さら?」
「今さらでも恥ずかしいもんは恥ずかしいんだよ!」
リゼが慌てて顔を背ける。
「み、見ない!」
でも指の隙間から見えてる。
「リゼ」
「見てない!」
「指」
「……っ!」
さらに真っ赤になった。
セリアは真面目な顔で言う。
「医療上必要ならば、確認します」
「お前は真顔で怖いこと言うな」
「怪我の状態把握は重要です」
「分かったから向こう向いてくれ!」
ミラが無表情で言った。
「騒ぐ元気があるなら死なないわね」
「医者の判断が雑!」
⸻
結局、俺は上着を脱がされた。
肩。
腕。
脇腹。
どこもひどい有様だったらしい。
ミラが眉をひそめる。
「普通なら歩けない」
「歩いてたけど」
「普通じゃないからでしょうね」
「それ、最近よく言われる」
ミラは俺の腕に触れた。
ひやりとした指先。
その瞬間、腕の白い光がわずかに反応した。
「……やっぱり」
「何が?」
「あなたの体内で、魔力汚染が分解されてる」
「分解?」
「毒を無毒化するみたいに」
ミラの声は静かだった。
「ただし、代償がある」
「代償?」
「体に負荷がかかる。今は興奮状態と適応反応で動けてるだけ」
「つまり?」
「寝たら高熱を出すか、最悪倒れる」
「最悪すぎる」
リゼがすぐ近づいてきた。
「治せるの?」
「応急処置なら」
ミラは俺を見る。
「完全な治療は無理。あなたの体が特殊すぎる」
「またそれか」
「あと、もう一つ」
「まだあるのか」
「この力、使いすぎない方がいい」
「なんで」
ミラは真顔で言った。
「あなた自身が、魔力汚染に“適応しすぎる”可能性がある」
「……どういう意味だよ」
「浄化してるつもりで、逆に汚染と深く繋がるかもしれない」
沈黙。
その言葉だけで、部屋の温度が下がった気がした。
「……俺が化け物になるってことか?」
「可能性の話」
「否定しろよ」
「医者は嘘をつかない」
「そこは優しくしてほしかったな……」
リゼが俺の手を握った。
強く。
「なら使わないで」
「……」
「お願い」
まっすぐな目。
でも俺は、すぐには頷けなかった。
使わなければ助けられない場面が、もう何度もあった。
これからも多分ある。
「約束はできない」
「……っ」
「でも、無茶は減らす」
「信用できない」
「だよな」
リゼが泣きそうに睨んでくる。
正直、白鴉より怖い。
⸻
セリアの治療も始まった。
肩、脇腹、太もも。
全部、白鴉との戦闘で負った傷だ。
ミラが包帯を巻きながら呟く。
「よく生きてたわね」
「訓練の賜物です」
「訓練でどうにかなる傷じゃない」
「気合いです」
「医療現場で一番嫌われる言葉」
セリアが少し困った顔をした。
「……すみません」
俺は思わず笑った。
「セリアにも弱点あったんだな」
「何ですか」
「医者に怒られること」
「あなたも怒られています」
「仲間だな」
「不本意です」
セリアが少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、その顔を見て安心した。
生きてる。
ちゃんと、ここにいる。
⸻
看守長は壁にもたれながら、外を見ていた。
ふざけた雰囲気はない。
目が鋭い。
「封鎖、進んでるわね」
カインが頷く。
「街道はもう無理だ」
「地下は?」
「白鴉が水路を押さえる」
「空路は?」
「金が足りない」
「あなた本当に情報屋?」
「金欠の情報屋だ」
看守長はため息をついた。
「となると、森抜けね」
「一番危険だけどな」
「追跡魔導は?」
「さっきの浄化反応がデカすぎた。消えるまで時間がかかる」
「つまり俺が発信機みたいになってる?」
カインは気まずそうに言った。
「まあ、だいたい」
「やっぱり最悪じゃねぇか!」
ミラが処置を終え、手袋を外す。
「三時間」
「?」
「最低三時間はここで休んで。それ以上は危険」
「三時間もいたら見つからないか?」
「見つかる可能性はある」
「じゃあ——」
「でも今動いたら、あなたが倒れる」
言葉を失う。
リゼが即座に言った。
「休む」
「でも」
「休む」
「……はい」
逆らえなかった。
⸻
簡易ベッドに座る。
体が急に重くなってきた。
言われた通り、緊張が切れたのかもしれない。
リゼが隣に座る。
「寝て」
「見張りは?」
「私たちがやる」
「でも」
「寝て」
「……はい」
本日二度目の敗北。
俺は横になった。
天井の割れ目から、夜明けの青い光が差し込んでいる。
「なぁ、リゼ」
「何?」
「外、どう?」
リゼは少しだけ考えた。
「怖い」
「だよな」
「痛いし、寒いし、追われるし、お腹も空くし」
「散々だな」
「でも」
リゼは小さく笑った。
「空が広い」
「……」
「ご飯がおいしい」
「うん」
「花もあった」
「うん」
「だから、まだ見たい」
その声は柔らかかった。
でも、強かった。
「もっと外を見たい」
「……そっか」
「うん」
俺は目を閉じる。
「じゃあ、逃げ切らないとな」
「うん」
「全員で」
「うん」
リゼの手が、そっと俺の手に重なった。
「だから寝て」
「……はい」
今度は素直に従った。
⸻
意識が落ちる直前。
遠くで鐘の音が聞こえた気がした。
低く、重い鐘。
一回。
二回。
三回。
⸻
同じ頃。
街の中央、行政塔。
赤い魔導信号を受け取った女が、静かに報告書を読んでいた。
「監獄島脱走者」
「元王女リゼリア」
「元戦闘部隊セリア」
「元看守長」
「研究離反者カイン」
女はページをめくる。
そして、最後の項目で手を止めた。
「異界由来と思われる男」
「魔力汚染適応」
「浄化反応確認」
女の口元が、わずかに笑った。
「……見つけた」
机の上には、王国研究院の紋章。
女は部下へ命じた。
「白鴉へ伝達」
「捕獲優先順位を変更する」
部下が跪く。
「第一対象はリゼリア様では?」
「変更よ」
女は報告書を閉じた。
「最優先捕獲対象は——」
⸻
「浄化する男」
⸻
夜明けの街で。
俺たちの知らないところで。
世界は、俺を中心に動き始めていた。




