29 虚空より
昔から夜は嫌いだ。
考えなくてもいいようなことに強制的に向き合わされることになる。
だけどたぶん、今はもうありとあらゆることを「考えなければならない」段階に入ってきているのだろう。これまで深く考えないようにしてきたツケだ。
でも、言い訳させてほしい。現代日本において大体の出来事は杞憂で、考えるだけ無駄なことばかりだった。現代日本の常識やら感覚を異世界に持ち込んでしまった私の愚かさはそれはそうだが、そう簡単に切り替えができるような人間ばかりではない。私もその一人だった。それだけだ。
__私はどうするべきなのだろう。
問いはそれだけ。
トラニ様の覚悟が決まるのを待つ?私一人で逃亡を企てる?これが人生とすべてを諦めて私の運命を甘受する?
一番ないのは最後の選択肢だろう。私は死にたくない。死なないのかもしれないが、近しいなにかを体験することは間違いない。それを指を咥えて見ているのは……さすがに耐えられない。考えることの負荷よりも、なにもしないことへの恐怖の負荷で押しつぶされてしまう。
そうなると選択肢は二つだけ。
ただ個人的には、トラニ様の覚悟を待つのは、最後の選択肢と近いものを感じる。これはトラニ様のことを嫌いだからでも信じていないからでもない。間違いなく好きだし、信じている。ある意味では「トラニ様のそういうところが好きで信じているから」こそだ。
トラニ様は誠実で、賢く、道徳的だから、私を殺す決断をできない。それは、このまま私が神のもとに行くのをなにもせずに受け入れることはないという意味であり、「脱出」のためのリスクが高い計画に私を送り出すことができないという意味でもある。それじゃあ板挟みじゃあないかという感じだが、これがどちらに傾くかはトラニ様と神のみぞ知る。私にできることはとても少ない。
ただ、なんとなく、なんとなくではあるが。脱出の方がよりトラニ様の責任というか、精神的負担の割合が大きいような感じがあって、それを避けるような予感がある……気もしている。これはあくまで私の直感であって正確なところはわからない。なんであれやはり、あまりにもトラニ様頼み過ぎであることは間違いない。
でもだからといって、私一人の計画はリスクが高すぎる。
逃げたところで私はどこに向かえばいい?どこかに向かって、その後どうすればいい?
そもそも逃げられるのかも大概疑問だ。魔法があるこの世界で、魔力もなければ筋力も権力もない。一般的な知識はもちろん人脈もない私は、あまりにも無力だ。
一度脱走チャレンジをやってみてトラニ様に本気度を見せつける?……いや、あまりにも命がけすぎるし、殺されなかったとてその後に起こりうるであろうことが私にとって不利益が多すぎる。
___詰んでいる。
端的にいってコレなのではないだろうか。
一番マシなのは、自分なりに計画を考えてトラニ様に提案しながら、トラニ様を信じて待つこと……な気がする。
諦める選択肢はない。ないが、これは結局、人事を尽くしてトラニ命を待つ状態だ。
できることはする。考えられることは考える。でも、最後の最後に私がどうなるのかを決めるのは私じゃない。トラニ様が覚悟を決めてくれるのを待つ。
それって、すべてを受け入れて天命を待つことと、どこまで違うんだろうか。
コンコン コンコン
思考が宇宙に飲み込まれかけたときのこと。
それは、たしかに聞こえた。
「……トラニ様?」
声をかけるがその声に対して応答はなく、一定間隔のノックの音だけが部屋に響く。
ドアの前に立つが、むしろそのノックの音は遠のく。一応ドアの向こうを確認してみたい気持ちもあるが、基本夜間は外から鍵が閉められている。
__コンコン コンコン
いったい、この音はどこから?
〈こっちだよ、こっち〉
クリスタルの精のような透明感のある、でも金糸雀のように軽やかな声がベッドのあたりから響く。
一応布団はめくってみるが、もちろんそこにはなにもない。当然だ、私が先ほどまで眠っていた。
〈下だよ、下〉
下?と考えて思考が一瞬止まる。
ベッドの下ということか?いやでも、誰かが入れるようなスペースはない。
ただたしかに、そこには暗闇が広がっていて、なにもないはずの小さな虚空があるはずだ。
正直__覗き込むことすら嫌だ。
しかし、ノックの音はやまず、声は変わらず私に語り掛けてくる。
ホラーすぎる。しかし、このノックの音と声を一晩中無視できるほど図太くもない。
「……ッ!!」
意を決して覗き込んでみる……が、そこにはやはりただの暗闇が広がっている。
月明りが照らさないそこは、「なにもない」はずだ。
はず、だが…………
「ん……??」
白いなにかの破片が月光を反射している。
いや、あれは、ほんとうに……月光……?
__一生、あの"瞳”をみていたい。
私は、あの光が、ほしい。
あれが、ほしい。ほしくてほしくてたまらない。
ぜったいに、ぜったいにてにいれないといけない。
〈こんばんは〉
「こんばん……はっ!?」
驚きのあまり、いつの間にか持っていた白い陶磁器の破片を手から落とす。
その破片は床に吸い込まれるように落ちていき、その白は当然粉々に砕ける……が、それらの破片たちはなにかの文字のような形を一瞬にして成した。
そして、真ん中を陣取った欠片が、ガチャガチャと金属が擦りあうような不快な音をたてながら膨張していく。
白がその色さえ失って透明に変わる。
やがて白い陶器の破片は、水晶のような大きな氷の塊へと姿を変えた。
「は???」
氷に、私ではない誰かの影が映りこむ。
赤い血のような色が、こちらを覗き込む。
その刹那、氷は人の形を成し、驚くほど冷たく白い手で私の手をつかんでいた。
私は、檻のように長い黒髪に囲まれながら、ぐつぐつと煮立つ苺ジャムのようなあるいは血のように赤いその瞳をぽかんと口を開けて見上げていた。
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