実行忍者 其の四
師匠は、船の前方を指差す。そこには結局海が広がっているだけに見え、水平線上の端まで見ても何かあるようには思えない。
だが、師匠にとってはそこで充分だった。
「魔界の魔力圏に入った」
魔界。
千年前、大規模な侵攻がなされた場所だ。
魔王の討伐に際して、人類は魔族の残党狩りを始めた。それにより故郷を追われ、以降何世紀にもわたって逃げ回る者は多いのだ。
公には絶滅したとされる魔族は、人知れず世界の片隅で身を隠す。
その正体が知られる事を何よりも恐れ、今日も彼らは震えている。
そんな魔族達の、忘れられた故郷が魔界だ。
この場所は非常に魔力が濃く、ジョージも食べ物に困る事はないだろう。なにせ、元々クラーケンは魔界に生息する魔物だったのだから。
「私の魔力を放った。このまま進めば、人間の勢力圏を抜けよう」
「……人間はまだ世界の端に到達してなかったんだな。千年も経つのに」
「それを言うなら魔族もそうじゃったろう」
世界の端。
永遠に続くように思われる地平の終わりを、仮にそう呼ぶ事がある。
未だかつて誰一人として到達した事のない場所であり、どのようになっているのか想像もつかない。
人類は千年もの間その勢力を伸ばし続けているが、世界の端に達した記録はただの一度もない。まして、魔界側の端などまともな調査すらされていないのが現状だった。
「人類に滅ぼされるよりもさらに千年遡ろうとも、魔族は世界の端には到達できなんだ。魔界は比較的過酷な環境にある事もあるし、人類の調査もそうは進まんじゃろう」
故郷が焼き払われた記憶をもつ魔族達は、魔界を避けて生活する道を選んだ。中には裏をかいて人類に紛れるクラークのような者もいるが、さらに裏をかいて魔界に行く考えは浮かばなかったらしい。
「魔界……か。確かに盲点だ。千年間ずっと魔族狩りが行われているわけねえってのにな」
ジョージは、驚くような速さで魔界の奥へと進む。
クラークが寂しそうな顔をしているのは、友との別れのためだろうか。
自らの故郷に泳いでいくジョージを見ながら、クラークは何を考えているのだろう。
僕は、故郷に未練などない。追放された時も、別れて寂しいと思うような相手は思い浮かばなかった。
それだけ、僕と他人の関係性が希薄だったのだろう。あまりに残酷に突き付けられた追放という仕打ち以外に、僕が悲しむ理由はなかったのだ。
だが、もしも今ならば。
もしも今、師匠と別れるような事があるのならば、僕は何を感じるのだろう。
大恩人で、頼れる師匠で、信頼できる仲間で、そんな師匠と離れなければならなくなった時、僕は追放された時と同じように何も思わないのだろうか。
「……寂しくない?」
「いや、まあ……確かに少しな」
先程まで喧嘩腰だった僕らだが、クラークは肩を竦めて薄く笑う。
その表情が、クラークの心根を如実に表していた。
寂しい。
その言葉が出るという事は、彼の心はもう決まっている。
この場でジョージを追いかけて、魔界へと行く事もできるというのに。
「オレには嫁さんもいるしな。ジョージは別にオレがいなくてもいいが、こればっかりは見捨てられねえよ」
「……そっか」
酷い旦那に傷付けられた女性の支えが、きっとクラークなのだ。彼らの出会いは完全に偶然だったのだろうが、それでもそこにある感情に偽りはない。
だから、決断できるのだろう。遠ざかる友を見ていながら、涙を流さずにいられるのだろう。
僕には、そんな相手はいない。
家族も、友も、昔馴染みも、僕にはもう無くなってしまったものだ。
もしもクラークのようになった時、このように決断する事はできないのだろう。
「おい、辛気臭えぞ小僧! オレの用は済んだんだ、さっさと王都に行こうぜ!」
「……そうだね。っていうか、なんでお前が指揮とってんだよ!」
「ぬしら、元気なのは良いが、この軋んだ船の心配をするべきじゃの」
「ああ!?」
「オレの船が!?」
その後は、僕と師匠の二人掛かりで船の補強に努めた。
魔法でどうにか持ち堪えさせている間に、クラークが応急処置をするのだ。
ただ、それでも万全とはいかない。僕達は予定よりも遥かに忙しなく、王都への航路を進む必要があった。




