【第77話】『大地の湯宿』
研修が始まって数日後。
温泉旅館の朝は、以前にも増して慌ただしくなっていた。仮想の客を迎え入れ、接客の確認を繰り返す。
「いらっしゃいませ!」
ミーナの明るい声が館内に響く。
「こちらのお部屋へご案内いたしますね」
お客様に笑顔で声をかけ、歩く速度を合わせながら先導していく練習だ。
その動きには、最初の頃の緊張はほとんど見られなかった。
一方、厨房では――。
「リゼさん、こちらのお皿で大丈夫ですか?」
「……うん。綺麗」
「ありがとうございます」
リリィが料理を確認しながら、丁寧に盛り付けを進めている。
リゼとの呼吸も、すっかり合っていた。
そして――。
「フォルナさん、こちらのお盆をお願いします」
「はい!」
エレナから頼まれたフォルナが、慎重にお盆を持ち上げる。
一歩。
二歩。
「……よし」
三歩目。
「……!」
尻尾が近くの椅子に当たりそうになる。
「ひゃっ!」
フォルナは慌てて身体をひねる。
しかし――。
今度はぶつからなかった。
「……できた!」
小さく拳を握る。
「ふふっ」
それを見ていたエレナが微笑む。
「上手になりましたね」
「本当ですか!?」
「はい」
「やったぁ!」
喜んだ瞬間。
「わっ!」
今度は自分の足につまずいた。
「きゃっ!」
「フォルナさん!?」
「だ、大丈夫です!」
なんとか転ばずに踏みとどまる。
「……」
ミーナとリリィが顔を見合わせる。
「相変わらずだね」
「でも、前よりずっと上手になりました」
「うん!」
フォルナは少し恥ずかしそうに笑った。
◇
それから、さらに数日。
三人は旅館の仕事を一通り覚えていった。
お客様の出迎え。
館内の案内。
客室の清掃。
布団の準備。
食事の配膳。
温泉の説明。
そして、簡単な調理補助。
最初は一つ覚えるだけでも大変だった仕事が、今では自然と身体に馴染み始めている。
「では、最後に確認しましょう」
エレナが三人の前に立つ。
「お客様をご案内する時は?」
「笑顔で、相手の歩く速度に合わせます!」
ミーナが答える。
「素晴らしいです」
エレナが頷く。
「温泉の説明を求められた場合は?」
「効能を正確に説明して、分からないことは勝手に答えず、エレナお姉様や旦那様に確認します」
リリィが答える。
「はい。完璧です」
そして――。
「では、フォルナさん」
「は、はい!」
「お客様が廊下で転んでしまった場合は?」
「まず怪我がないか確認して、それから必要なら他の従業員を呼びます!」
「正解です」
「よかった……」
フォルナが胸を撫で下ろす。
エレナは三人を見渡した。
「皆さん、よく頑張りました」
「……!」
三人の顔が明るくなる。
「もう、旅館の仲居として十分に仕事を任せられると思います」
「本当ですか!?」
ミーナが目を輝かせる。
「はい」
エレナは微笑んだ。
「もちろん、まだまだ覚えることはあります。でも、これなら営業を始めても問題ないでしょう」
「やったぁ!」
ミーナが両手を上げる。
リリィも嬉しそうに微笑んだ。
フォルナは――。
「私も……?」
「もちろんです」
エレナが頷く。
「フォルナさんも、よく頑張りました」
「……!」
フォルナの目に、少しだけ涙が浮かぶ。
「ありがとうございます……!」
そこへ、リゼもやってきた。
「三人とも、料理の手伝いも問題ない」
「リゼさん……!」
「特にリリィは、もう少し任せても大丈夫」
「本当ですか?」
リリィが嬉しそうに尋ねる。
「うん」
リゼは頷いた。
「ミーナは配膳が上手。フォルナも……」
「……!」
フォルナが緊張した顔になる。
「失敗はするけど」
「うっ……」
「かわいいから問題なし」
「……!」
フォルナは顔を上げた。
「だから、大丈夫」
「はい!」
三人は顔を見合わせる。
そして――。
「私たち、もっと頑張ります!」
「はい!」
「私も頑張ります!」
旅館に、三人の元気な声が響いた。
◇
その日の夕方。
「……あ」
大地は旅館の玄関前で、ふと立ち止まった。
「どうしました?」
隣にいたエレナが首を傾げる。
「いや……」
大地は建物を見上げた。
立派な木造建築。
綺麗に整えられた庭。
温泉。
食事処。
客室。
そして、これから働いてくれる仲間たち。
「俺たち、旅館の名前決めてなかったよな?」
「……」
エレナも建物を見る。
「……そういえば」
「完全に忘れてた」
「ふふっ」
エレナが笑う。
「でも、今から決めても遅くはありませんよ」
「そうだな」
大地は腕を組んだ。
「せっかくだし、エレナも一緒に考えてくれないか?」
「私ですか?」
「ああ」
エレナは少し考える。
「温泉旅館……ですから、やはり温泉を表す名前がいいでしょうか」
「うん」
「皆さんが集まる場所でもありますよね」
「そうだな」
二人は並んで建物を眺める。
しばらく考えた後――。
大地が口を開いた。
「……大地の湯宿」
「大地の湯宿……?」
「ああ」
大地は少し照れながら笑う。
「俺の名前も入ってるけど……この温泉が湧き出る大地の恵みって意味合いもある。みんなが温泉で繋がる場所になると良いんだけどな」
エレナはその名前を何度か口の中で繰り返す。
「大地の湯宿……」
そして――。
「素敵です」
「本当か?」
「はい」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、これでいくか」
「はい」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
「というわけで」
夕方。
全員が集まった食事処で、大地が発表した。
「この旅館の名前を決めました!」
「おっ!」
ミレッタが身を乗り出す。
「なんて名前だ?」
「大地の湯宿」
「……いいじゃねえか」
ミレッタが笑う。
「ダイチらしい名前だな」
「私も素敵だと思います」
リリィが微笑む。
「温かい感じがします」
「わたくしも賛成ですわ」
セリーナも頷く。
「覚えやすく、親しみやすい名前ですわね」
リゼも小さく頷いた。
「……いいと思う」
「ありがとうございます」
そして――。
「じゃあ、看板が必要だな」
ミレッタが立ち上がった。
「任せろ」
「え?」
「せっかく名前が決まったんだ。旅館の顔になる看板くらい、私が作ってやるよ」
「ミレッタ……」
「魔道具だけが私の仕事じゃねえからな」
ミレッタはニヤリと笑った。
「こういう職人仕事も、嫌いじゃないぜ」
◇
翌日。
旅館の作業場。
そこには、一枚の大きな木の板が置かれていた。
「……これを使う」
ミレッタが選んだのは、木目の美しい一枚板だった。
「この旅館には、これくらいのほうが似合う」
「すごい……」
ミーナが目を輝かせる。
ミレッタは板を固定すると、工具を手に取った。
「まずは文字を削り出す」
ギィ……。
木を削る音が響く。
少しずつ。
少しずつ。
板の表面に文字が浮かび上がっていく。
『大地の湯宿』
「……綺麗」
リリィが呟く。
「まだ終わってねえよ」
ミレッタは笑った。
削り終えた文字へ、今度は墨を入れていく。
筆先がゆっくりと動く。
黒い墨が木目に沿って染み込んでいく。
「完成だ」
ミレッタが一歩下がる。
そこには――。
堂々とした文字で、
『大地の湯宿』
と刻まれていた。
「すごい……!」
ミーナが声を上げる。
「立派です!」
リリィも目を輝かせる。
フォルナは尻尾をぶんぶん振っている。
「かっこいいです!」
「……気に入ったか?」
「はい!」
「そりゃよかった」
ミレッタは満足そうに笑った。
◇
そして。
完成した看板は、旅館正面の門へ運ばれた。
大地。
エレナ。
ミレッタ。
リゼ。
セリーナ。
ミーナ。
リリィ。
フォルナ。
そしてユズキまで、全員が見守っている。
「よし」
ミレッタが最後の固定を確認する。
「これで完成だ」
大地が看板を見上げる。
木の板に刻まれた文字。
『大地の湯宿』
その文字が、夕暮れの光を受けて静かに輝いていた。
「……なんか」
大地が呟く。
「本当に旅館になったんだな」
「はい」
エレナが隣に立つ。
「私も、そう思います」
ミーナが笑う。
「私たちも、この旅館の一員なんですよね」
「もちろん」
大地が頷く。
「ミーナも」
「はい!」
「リリィも」
「はい!」
「フォルナも」
「はい!」
三人の返事が重なる。
フォルナの尻尾が大きく揺れた。
「わっ!」
看板にぶつかりそうになり――。
「危ない!」
ミーナが慌てて止める。
「ご、ごめんなさい!」
「ははは!」
大地が笑う。
「最後までフォルナらしいな」
「うぅ……」
フォルナは恥ずかしそうに俯く。
けれど、その顔には笑顔が浮かんでいた。
「それじゃあ」
エレナが静かに言った。
「改めて――」
全員が看板を見上げる。
「大地の湯宿の門出を祝って」
セリーナが微笑む。
「乾杯……といきたいところですわね」
「また宴会か?」
大地が苦笑する。
「いいじゃねえか!」
ミレッタが笑う。
「名前が決まった記念だ!」
「賛成です!」
ミーナが手を上げる。
「私も!」
リリィも笑う。
「私もです!」
フォルナも続く。
ユズキが、
「わん!」
と鳴いた。
「お前も参加するのか?」
大地が笑う。
「わん!」
「はいはい」
大地はユズキの頭を撫でる。
そして、もう一度看板を見上げた。
『大地の湯宿』
それは、ただの旅館の名前ではない。
大地が日本で得た知識。
エレナたちとの出会い。
ミレッタたち職人の技術。
リゼの料理。
そして――。
新しく仲間になったミーナ、リリィ、フォルナ。
これまで積み重ねてきたものすべてが、この一枚の看板に込められているように思えた。
「……よし」
大地は小さく頷く。
「ここからだな」
「はい」
エレナが微笑む。
夕暮れの中。
『大地の湯宿』の看板が、静かに風に揺れていた。
そして――。
温泉旅館はついに。
その名を掲げ、新たな一歩を踏み出した。




