【第69話】セリーナの本気
「これから忙しくなりますわ。ひとまず中で、ゆっくりお話しいたしましょう」
セリーナに促され、大地は旅館のフロント前のラウンジにあるソファへと案内した。
まだ正式な営業前ということもあり、広々とした店内には誰もいない。
新しく設置されたテーブルとソファ
磨き上げられた床。
大きな窓から差し込む陽射し。
そのすべてが、数日前までただの森だったとは思えないほどだった。
セリーナは席に腰を下ろす。
その後ろには、アーベル商会の商人たちが数名控えていた。
「では、改めまして」
セリーナは扇子を閉じ、膝の上に置く。
先ほどまでの柔らかな笑みとは違う。
商人としての、鋭く落ち着いた表情だった。
「本日は、アーベル商会の代表として、ダイチ様に一つお願いがございます」
「お願い?」
「はい」
セリーナはまっすぐ大地を見る。
「この温泉旅館の経営に、アーベル商会を関わらせていただけませんでしょうか?」
「……経営に?」
大地は目を瞬かせた。
「ええ」
セリーナは頷く。
「もちろん、温泉そのものの運営や料理、設備について口を挟むつもりはございません」
「じゃあ、具体的には?」
「まずは経理ですわ」
「経理?」
「売上、仕入れ、人件費、設備維持費など――宿を運営するには、温泉や料理以外にも大量のお金が動きます」
セリーナは指を一本立てる。
「そして二つ目が、宣伝と広告」
二本目。
「この旅館の価値を、クレーベルだけでなく周辺の街へ広めること」
三本目。
「そして三つ目が、街や商人との調整ですわ」
「……」
大地は黙って聞いていた。
「例えば、旅館へ続く街道を整備する場合。必要なのは職人だけではありません」
セリーナは穏やかに説明を続ける。
「街の有力者、商人、運送業者、場合によっては領主側との調整も必要になります」
「なるほど……」
「アーベル商会には、これまで長年商売を続けてきたことで築いた人脈がございます」
セリーナは微笑む。
「その人脈を、この温泉旅館のために使わせていただきたいのです」
大地は腕を組んだ。
これまで大地は、温泉を作ることばかりを考えていた。
土地を買い。
建物を建て。
温泉を整備する。
料理やアメニティを用意する。
そこまでは何とか形になってきた。
だが――。
「経営か……」
大地は小さく呟いた。
旅館を作ることと、旅館を経営することは違う。
客を集める。
金を管理する。
仕入れをする。
従業員を雇う。
他の商人と交渉する。
街との関係を作る。
それらを全部、自分一人でやるのは現実的ではない。
「……正直に言うと」
大地はセリーナを見る。
「俺には、商売の経験がほとんどない」
「存じておりますわ」
「……やっぱり?」
「はい」
セリーナは微笑んだ。
「ダイチ様は、温泉に関することなら驚くほど多くの知識をお持ちです」
「それはまあ……」
「ですが」
セリーナの表情が少しだけ柔らかくなる。
「商売については、まだ勉強中でいらっしゃる」
「……耳が痛いな」
大地は苦笑した。
セリーナはそんな大地を見て――。
「ですから」
ゆっくりと立ち上がる。
そして、大地の隣へ歩いてきた。
「私たちがお手伝いします」
「……セリーナさんが?」
「ええ」
セリーナは大地の隣に腰を下ろした。
近い。
かなり近い。
「……」
大地は思わず身体を少しだけ離す。
すると――。
セリーナも、ほんの少しだけ距離を詰めた。
「ダイチ様?」
「……何ですか?」
「そんなに離れなくてもよろしいのでは?」
「いや……」
大地は視線を逸らす。
セリーナは普段から、どこか人を惹きつける雰囲気を持っている。
それは大地にも分かっていた。
だが。
今日のセリーナは、いつもと少し違う。
優雅な笑顔。
落ち着いた話し方。
相手の反応を見ながら言葉を選ぶ姿。
そして何より――。
商売の話をしている時の、鋭い目。
「……すごいな」
「何がでしょう?」
「いや」
大地は素直に答えた。
「セリーナさんって、本当に商人なんだなって」
「ふふっ」
セリーナが嬉しそうに笑う。
「ようやくお気づきになりました?」
「今までは……」
大地は少し考える。
「なんというか、俺をからかったり、誘惑したりするお嬢様って感じだったから」
「あら」
セリーナは口元を扇子で隠す。
「それは今も変わりませんわよ?」
「……え?」
「魅力的な男性であるダイチ様を誘惑するのも、私の趣味ですもの」
「趣味なんですか……」
大地は苦笑する。
だが、セリーナはすぐに真剣な表情へ戻った。
「ですが、商売に関しては別です」
その声には、確かな自信があった。
「代行として、利益のパーセンテージはいただきますが、ダイチ様が苦手とする煩わしい業務は私共が担当させていただきます。アーベル商会の名を背負う以上、私は一切妥協いたしません」
「……」
「この旅館が成功するために必要なことなら、何でもいたします」
大地はしばらくセリーナを見つめた。
――信頼できる。
その言葉が、自然と頭に浮かんだ。
今までのセリーナは、どこか掴みどころのない女性だった。
美しく。
優雅で。
時々、大地をからかう。
だが――。
商人としての彼女は違う。
自分の仕事に誇りを持ち。
必要なことを冷静に考え。
そして、自分の持つ人脈や知識を惜しみなく使おうとしている。
「……セリーナさん」
「はい」
「お願いしたい」
「……!」
セリーナの目が少しだけ見開かれた。
「本当によろしいのですか?」
「ああ」
大地は頷く。
「俺一人じゃ、絶対に手が回らないと思う」
「それでは――」
「アーベル商会に、この旅館の経営を手伝ってもらいたい」
「……ありがとうございます」
セリーナは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、商人のものではなく――。
一人の女性のものだった。
「では、早速ですが」
「ん?」
「当面、こちらに滞在させていただきますわ」
「……え?」
大地が固まる。
「滞在?」
「はい」
「誰が?」
「私が」
「…………」
大地は数秒、言葉を失った。
「セリーナさんが?」
「ええ」
「アーベル商会の人たちじゃなくて?」
「私も参ります」
「……」
大地は後ろに控えている商人たちを見る。
彼らは一斉に頭を下げた。
「セリーナお嬢様より、そのように伺っております」
「お嬢様……」
大地は額に手を当てた。
まさか、本人が来るとは思っていなかった。
「いや……でも、アーベル商会の代表がここに滞在して大丈夫なのか?」
「問題ございません」
セリーナは即答する。
「必要な者には指示を出してありますし、こちらにも定期的に報告を届けさせます」
「……本気なんだな」
「もちろんですわ」
セリーナは立ち上がる。
そして、大地の正面へ回った。
「それに――」
少しだけ身を屈める。
「ダイチ様のすぐそばにいられるのは、私にとっても都合がよろしいですから」
「……」
「何か問題でも?」
セリーナが微笑む。
「いや……」
大地は視線を逸らした。
「問題というか……」
「というか?」
「……俺、女性に弱いんですよ」
「存じております」
「知ってるの!?」
セリーナが楽しそうに笑う。
「ですから――」
一歩、近づく。
「私がここに滞在するのは……お嫌ですか?」
「……」
大地は黙った。
セリーナの顔が近い。
甘い香りがする。
いつものような優雅な微笑み。
けれど、その目には少しだけいたずらっぽい光が宿っている。
「……セリーナさん」
「はい」
「そうやって聞かれたら……」
「はい」
「断りにくいじゃないですか」
「まあ」
セリーナは嬉しそうに微笑んだ。
「では、決まりですわね」
「……やっぱり、最初からそのつもりだったんじゃないですか?」
「さあ?」
セリーナは扇子を開く。
「商売人は、少々先のことまで考えて動くものですわ」
「……怖いな、この人」
大地は苦笑する。
けれど――。
嫌ではなかった。
むしろ。
これから本格的に始まる温泉旅館の経営を考えれば、これほど心強い人はいない。
温泉やアイデアは大地。
魔道具はミレッタ。
アメニティや土地の整備はエレナ。
料理はリゼ。
そして――。
商売と経営をセリーナが支える。
それぞれの得意分野が、少しずつ噛み合っていく。
「……これなら、本当に旅館を始められそうだな」
大地が呟く。
セリーナはその横で微笑んだ。
「ええ」
そして。
「これからが、本番ですわ」
大地は完成間近の旅館を見渡した。
まだ準備することは山ほどある。
けれど。
もう、ただの夢ではない。
ここには、人が働き。
人が集まり。
人が泊まり。
そして――。
新しい商売が始まろうとしている。
「よし」
大地は立ち上がった。
「じゃあ、よろしくお願いします。セリーナさん」
「こちらこそ」
セリーナは優雅に頭を下げる。
「末永く、よろしくお願いいたしますわ」
「……なんか、その言い方だと別の意味に聞こえるんだけど」
「ふふっ」
セリーナは楽しそうに笑った。
「ダイチ様は、考えすぎですわ」
「絶対違うだろ……」
こうして。
アーベル商会が、温泉旅館の経営に本格的に関わることになった。
そして同時に――。
セリーナ・ロア・アーベルという女性が、しばらくの間、この温泉旅館に滞在することも決まったのだった。




