【第67話】温泉旅館と新しい日常
午後の温泉宿。
厨房での日本料理の料理談義から始まったはずの一日は――。
気づけば、大地にとって濃厚で忘れられない一日になっていた。
そして。
「……」
「……」
「……」
食堂に戻ってきた大地の隣には、少し頬を赤らめたリゼがいる。
その様子を見ていたエレナとミレッタは、何かを察したように顔を見合わせた。
「……なるほど」
エレナが小さく呟く。
「……上手くいったみたいですね」
「……」
大地は何も言わない。
リゼも何も言わない。
ただ――。
二人の距離は、以前より少しだけ近くなっていた。
エレナはそんなリゼを見つめると、ふっと微笑む。
「リゼさん」
「……うん」
「改めて――」
エレナはリゼの手を取った。
「よろしくお願いしますね」
「……エレナ」
「大地さんのことを好きになったからといって、遠慮する必要はありません」
「……うん」
「私も、負けるつもりはありませんから」
エレナは柔らかく笑う。
その隣から、ミレッタも歩いてきた。
「私も同じだ」
「ミレッタ……」
「リゼがダイチのことを好きなら、それでいい」
ミレッタはリゼの肩を軽く叩く。
「これからは仲間だろ?」
「……うん」
リゼは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう」
「礼なんかいらないって」
ミレッタは笑う。
「その代わり――」
「……?」
「これからは遠慮なしだからな」
「……うん」
三人の間に、穏やかな空気が流れる。
大地はその光景を見て、胸を撫で下ろした。
「よかった……」
三人が仲良くしてくれるなら、それに越したことはない。
――そう思った。
しかし。
「ところで、リゼさん」
エレナが突然、リゼへ顔を近づける。
「ダイチさんは……どうでした?」
「……え?」
「その……」
エレナが少しだけ頬を赤くする。
「私たちの知らない、ダイチさんの一面を見たわけですよね?」
「エレナ!?」
大地が慌てて声を上げる。
しかし。
リゼは少し考えたあと――。
「……優しかった」
「……!」
エレナの目が少し細くなる。
「そうですか」
「うん」
「……私の時も優しいですよ」
「知ってる」
「……」
エレナとリゼの視線が交差する。
そして。
「でも、ダイチさんは私のことが一番大好きですから」
「……ダイチは私の方が好きだと思う」
「……」
「……」
ミレッタが腕を組む。
「おいおい」
「二人ともどうしたんだ?」
「なんか話が怪しい方向に行ってないか?」
しかし、二人は止まらない。
「ダイチさんは、私といる時は、すごくえっちになるんですよ。私が恥ずかしがることばかりして苛めてくれるんです」
「エレナさん?」
「ダイチは私の胸に夢中。ダイチは従順な私を大きな胸と口を使って自分に奉仕するように命令する。」
「リゼさん?」
「……ちょっと待て!ダイチはあたしの小さい体が本当は好きなんだぞ!こ、この前なんか一晩中、乱暴にーーーごにょごにょ」
「ミ、ミレッタさん?」
エレナがにっこりと笑う。
「……私です」
リゼは無表情で呟く。
「……私」
ミレッタが身振り手振り付けて主張する。
「……あたしだ!」
「……」
そして。
「いや、何の勝負だよ!?」
大地が叫ぶ。
だが、女性陣は聞いていない。
「ダイチさんは私のことを――」
「ダイチは私といる時――」
「しかたねぇけどダイチはーー」
「だから何の話をしてるんだよ!」
大地は頭を抱えた。
真昼間から何を聞かされているのだ。
しかも。
自分のことを題材に、女性三人が張り合っている。
「俺、ここにいていいのか……?」
大地が小さく呟く。
しかし、三人は完全に自分たちの世界に入り、朱雀と青龍と白虎さながら、睨み合っている。
「私はダイチさんのこういうところが――」
「ダイチは意外と――」
「……私が一番好き」
「…………」
大地は静かに立ち上がった。
そして。
三人へ向かって、にっこりと笑う。
「あ、あの…み、みんな仲良くね」
「ーーーーーーーーッ!」
「ーーーーーーーーッ!」
「ーーーーーーーーッ!」」
大地の言葉が届かないのか、それだけ言い残す。
大地は気付かれないように、そっと食堂を出ていった。
◇
「……逃げてきた」
温泉宿から少し離れた森の中。
大地はユズキと並んで歩いていた。
「なあ、ユズキ」
「わふ」
「お前は俺の味方だよな?」
「わふぅ?」
「……いや、何でもない」
ユズキは尻尾を振りながら、大地の横を歩いている。
静かな昼の森は気持ちがいい。
木々の間から差し込む陽射し。
鳥の声。
少しひんやりとした空気。
そして――。
少し歩いたところで、大地は足を止めた。
「……」
目の前に広がっていたのは。
完成したばかりの温泉旅館だった。
「……すごいな」
大地は思わず呟く。
土地の中心。
そこに堂々と建つ、日本風の温泉旅館。
木材をふんだんに使った建物。
瓦を使った屋根。
大きな玄関。
そして、その周囲に広がる庭。
「これ……本当に異世界なんだよな」
大地は苦笑した。
庭には池が造られている。
水面には朝の光が反射し、その周囲には針葉樹や岩が配置されていた。
砂利も丁寧に整えられ、まるで日本の庭師が手掛けたような景観になっている。
「俺が頭の中で思い描いていたものが……本当に形になったんだな」
大地はゆっくりと歩く。
旅館の縁側には、足湯まで設置されている。
「ここで宿泊客が庭を眺めながら足湯に浸かる……」
想像するだけで、なんとなく楽しくなってくる。
「いいな」
ユズキが隣で尻尾を振った。
「お前も気に入ったか?」
「ウォン!」
「そうか」
大地は笑う。
旅館を囲うように、立派な塀も造られている。
正面には大きな門。
その門をくぐれば、宿泊客を迎える本館がある。
そして、少し離れた場所には――。
「こっちが俺とエレナの家」
大地が指差す。
その隣には、ミレッタの工房。
さらにその奥には、これから働く従業員たちが暮らすための居住棟もある。
「必要なものが、少しずつ揃ってきてるな」
大地は感慨深そうに呟いた。
「最初は何もなかったのにな」
ただの森だった。
土地を買って。
温泉を見つけて。
ミレッタたちに協力してもらって。
少しずつ建物を増やして。
そして今――。
ここには、一つの町のようなものが生まれつつある。
「……不思議だな」
大地は旅館を見上げた。
「俺、本当に宿を経営することになるんだな」
ユズキが大地の足元をぐるぐると回る。
「まだ完成したばかりだけどな」
大地は旅館の中へ視線を向ける。
中には、すでに様々な施設が整えられている。
まずは温泉。
男女それぞれの浴場。
内湯に露天風呂。
そして――。
「サウナもできた」
大地が少し嬉しそうに呟く。
温泉エリアの一角には、新しく作られたサウナ。
大地がミレッタに相談し、魔道具を使って熱を生み出し、温度を調整できるようにしたものだ。
「これも日本の温泉文化を広めるには欠かせないよな」
さらに。
「休憩所」
湯上がりにゆっくりできる場所。
「食事処」
温泉から上がった宿泊客が食事を楽しむ場所。
「それから……」
大地は少し笑う。
「卓球」
日本の温泉旅館には欠かせないもの。
異世界でも、これが受け入れられるのかは分からない。
だが――。
「絶対、面白いと思うんだよな」
そして、その近くには按摩の施術室もある。
「温泉に入って、飯を食べて、卓球して、按摩を受ける」
大地は腕を組む。
「……最高じゃないか」
ユズキが「わふ」と鳴いた。
「お前もそう思うか?」
「わふわふ!」
「だよな」
大地は満足そうに頷く。
さらに上へ視線を向ける。
三階建ての本館。
二階から上には、宿泊客が利用する部屋が並んでいる。
「客室もかなりできてる」
まだ細かな調整は残っている。
けれど。
もう宿泊客を迎えられる姿が、少しずつ見えてきていた。
そして旅館の周囲では――。
「……おお」
大地はさらに驚く。
職人たちが、旅館と同じ建築様式で新しい建物を造り始めていた。
店舗。
倉庫。
従業員用の施設。
将来的には、宿泊客が楽しめる店も増やしていく予定だ。
建物同士の間には道も整備されている。
以前は土がむき出しだった場所も、今では石畳へと変わっていた。
「すごい手際だな……」
大地は感心する。
「昨日まで何もなかった場所が、もうここまで変わってる」
職人たちは黙々と作業を続けている。
木材を運び。
石を並べ。
建物を組み上げる。
しかも、ただ建物を増やしているわけではない。
旅館の景観を壊さないように、全体の雰囲気を合わせている。
「ミレッタたち、よく考えてくれてるな」
大地は周囲を見渡した。
「俺が日本の温泉街について話したことを、ちゃんと形にしてくれてる」
自分一人では、絶対にここまでできなかった。
温泉も。
建物も。
庭も。
道も。
全部、誰かの力を借りて作ってきたものだ。
「……ありがとうな」
大地は誰に言うでもなく呟いた。
ユズキが大地の隣に座る。
「……最初は、戦う力が欲しかったんだけどな」
大地は空を見上げる。
女神に願ったのは、強い戦闘スキルだった。
それなのに。
与えられたのは――。
「まさか、銭湯の力でこんなものを作ることになるとはな」
思わず笑ってしまう。
「人生、何が起こるか分からないもんだ」
そして。
大地は旅館を見つめる。
ここは、ただの宿ではない。
温泉に入って。
美味しい料理を食べて。
ゆっくり休んで。
笑って。
人と人が繋がる場所。
「……みんな仲良く入湯、か」
大地は宿の看板へ目を向ける。
そこに掲げられた、自分が決めた言葉。
「この場所が、本当にそんな場所になったらいいな」
人間も。
エルフも。
ドワーフも。
そして――。
いつかは魔族だって。
種族なんて関係なく、同じ湯に浸かって笑える場所。
大地はそんな未来を思い描いた。
「……さて」
大地が立ち上がる。
「そろそろ戻るか、ユズキ」
「わふ!」
「今度は、あの三人が落ち着いてるといいんだけどな……」
大地は苦笑する。
しかし。
その願いが叶っているかどうかは――。
戻ってみなければ分からない。
大地とユズキは、完成したばかりの温泉旅館を背にして歩き始めた。
その背後では。
昼の陽射しを浴びた旅館が、静かに輝いていた。
新しい温泉宿の歴史は――。
まだ、始まったばかりだった。




