【第63話】過去を越えて
夜のクレーベルを出ると、街の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。
昼間は多くの人々で賑わっていた大通りも、今では店先に灯された明かりがぽつぽつと残るばかりで、二人の歩く街道には、夜特有の静けさが広がっている。
空を見上げれば、無数の星が瞬いていた。
淡い月明かりが街道を照らし、風に揺れる木々が地面へ落とす影は、まるで夜の中を静かに泳いでいるようだった。
その道を、大地とリゼは並んで歩いている。
大地は何も言わなかった。
ただ、リゼの手をしっかりと握っていた。
その手を離さないように、歩調を合わせながら、まっすぐ前だけを見つめている。
今日、リゼはあまりにも多くのものを失った。
毎日のように立っていた店も。
帰る場所だった家も。
そして、過去に囚われながらも、それを支えにして生きてきた自分自身の在り方さえも。
だからこそ大地は、今夜だけは彼女を一人にしたくなかった。
言葉をかけるよりも、何かを約束するよりも、ただ隣にいることのほうが必要なのではないか。
そんな気がしていた。
「……ダイチ」
隣から、かすかな声が聞こえた。
「ん?」
大地が横を見ると、リゼは自分たちの繋がった手を見つめていた。
「……手」
「手?」
「……ずっと、握ってる」
そう言って、リゼはわずかに頬を赤くする。
大地は一瞬だけ繋いだ手へ視線を落とした。
「嫌だったか?」
「……ううん」
リゼは小さく首を横に振った。
「嫌じゃない」
その答えを聞くと、大地は安心したように前を向く。
「なら、このままでいいだろ」
「……うん」
それだけの会話だった。
けれど、リゼの胸の奥には、じんわりと温かなものが広がっていった。
誰かと手を繋いで歩く。
ただそれだけのことが、今の自分には不思議なくらい心強かった。
しばらくすると、リゼは大地の横顔をそっと見つめた。
大地は相変わらず、前を向いている。
振り返ることもなく、何かを恐れる様子もなく、ただ自分たちが向かう先を見つめながら歩いていた。
その姿を見ているうちに、リゼの胸の奥に、ある思いが浮かんでくる。
――自分は、ずっと後ろを見ていた。
死んでしまった仲間たち。
あの日の出来事。
自分だけが生き残ったことへの罪悪感。
そして、仲間たちのために何かをしなければならないという思い。
料理を続けたのも、店を続けたのも、彼らの存在を忘れたくなかったからだった。
仲間たちが好きだった料理を作り、仲間たちからもらった包丁を使い続けることで、失われた時間を少しでも繋ぎ止めていられるような気がしていた。
けれど、それは同時に、自分自身を過去へ繋ぎ止める鎖にもなっていたのかもしれない。
「……」
リゼはもう一度、大地の横顔を見る。
大地にだって、過去はある。
聞いたことがある。
自分が故郷で、死ぬほど働いていたこと。
そして、もう一度人生をやり直す機会を得て、この世界で自分の人生を始めようとしていること。
それでも大地は、過去に立ち止まってはいない。
温泉宿を作り、人を集め、今ではその周囲に街を作ろうとしている。
まるで、まだ何もない未来へ向かって、自分の手で道を切り開いているようだった。
その姿を見ていると、リゼの胸に小さな決意が芽生える。
「……私も」
「ん?」
「……私も、前を向かないと」
大地が少しだけ目を見開いた。
けれど、何も聞かなかった。
ただ、握っていた手に少しだけ力を込める。
その温もりが、言葉の代わりに背中を押してくれているようだった。
リゼもまた、その手をそっと握り返す。
「……ありがとう」
小さな声は、夜の静けさに溶けていった。
◇
森へ続く街道へ入る頃には、クレーベルの街明かりもすっかり遠くなっていた。
聞こえるのは、二人の足音と木々の葉が風に揺れる音だけ。
月明かりが木々の隙間から差し込み、二人の影を細長く地面へ落としている。
その静かな道をしばらく歩いたあと、リゼが再び口を開いた。
「……ダイチ」
「ん?」
「ありがとう」
「……何が?」
「全部」
リゼは前を向いたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「火事から私を連れ出してくれたこと。包丁を取りに行ってくれたこと。そして……私の代わりに怒ってくれたこと」
「それくらい、当たり前だろ」
大地はそう答えた。
けれどリゼは首を横に振る。
「私には、当たり前じゃなかった」
その声には、これまで誰にも言えなかった思いが滲んでいた。
「誰かが、私なんかのためにあそこまでしてくれるなんて……思ってなかった」
「リゼ……」
「店もなくなったし、家もなくなった。今まで守ってきたものも、全部なくなったと思った」
そこで一度言葉を止め、リゼは繋がった手へ視線を落とす。
「でも……ダイチがいてくれた」
大地は何も言わなかった。
ただ、歩みを止めずに彼女の隣を歩き続ける。
やがてリゼは足を止めた。
「……ダイチ」
大地も足を止める。
月明かりの下で向き合うと、リゼの桃色の髪が夜風に揺れた。
その瞳には、もう先ほどまでの絶望だけではない。
悲しみも、寂しさも残っている。
それでも、その奥には確かな光が宿っていた。
「本当に……ありがとう」
「……どういたしまして」
大地が微笑む。
その笑顔を見た瞬間、リゼの胸が大きく鼓動した。
ずっと心の奥にしまっていた気持ちが、堰を切ったように込み上げてくる。
今までなら、それを押し込めていた。
エレナがいるから。
自分が踏み込んではいけない場所だから。
そうやって、自分の気持ちからも逃げていた。
けれど――。
もう、過去から逃げるのはやめようと思った。
それなら、この気持ちからも逃げたくなかった。
リゼは大地の前へ一歩近づく。
「……ダイチ」
「ん?」
「私……」
声が震える。
それでも、今度は俯かなかった。
リゼは大地をまっすぐ見つめ、ほんの少しだけ背伸びをする。
「………」
その瞬間。
柔らかな唇が、大地の頬へそっと触れた。
ほんの一瞬だった。
けれど大地にとっては、時間が止まったように感じられた。
「……っ」
リゼはすぐに離れ、顔を真っ赤にして俯く。
耳まで赤く染まっている。
「……リゼ?」
大地は頬に残った温もりを感じながら、完全に固まっていた。
「今の……」
「……」
リゼはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸った。
そして、逃げることなく大地を見つめる。
「私……ダイチのことが好き」
「……」
静かな夜の森に、その言葉だけがはっきりと響いた。
「エレナがいるから……言わないつもりだった」
リゼは一度、目を閉じる。
そして心の中で、そっと呟いた。
――エレナ、ごめん。
それでも今だけは、自分の気持ちを隠したくなかった。
「私は……ダイチのことが好き」
今度は、迷いのない声だった。
大地はしばらく何も言えなかった。
突然の告白に驚いていた。
けれど、目の前にいるリゼの表情を見れば、これが彼女にとってどれほど勇気のいる言葉だったのかは分かる。
やがて大地は、穏やかに笑った。
「……ありがとう」
「……え?」
「気持ちを伝えてくれて」
大地はリゼの目を見ながら続ける。
「嬉しいよ」
リゼの目が大きくなる。
「……嬉しい?」
「ああ。リゼが俺のことをそんなふうに思ってくれていたことは、素直に嬉しい」
その言葉を聞いたリゼの瞳に、再び涙が浮かんだ。
けれど、それは先ほどまでの悲しみから流れる涙ではない。
胸の奥に抱えていた想いを、ようやく誰かに届けられたことへの涙だった。
大地はそんなリゼを見つめながら、静かに言葉を続けた。
「ただ……」
「……いいの」
リゼは静かに頷いた。
「リゼ?」
「何も言わなくていい。私が一方的に好きなだけなのは、分かってるから…」
分かっている。
だからこそ、これ以上を望むつもりはなかった。
ただ、自分の気持ちを伝えられた。
それだけで、心に絡みついていた何かが、少しだけほどけたような気がした。
すると大地は、繋いだ手をもう一度しっかりと握る。
「でも、一つ約束する」
「……?」
「リゼが完全に立ち直るまで、俺が責任を持って守る」
「……ダイチ」
「店がなくなったからって、リゼの居場所までなくなったわけじゃない」
大地は、まっすぐ彼女を見つめた。
「俺の家に来ればいい。少なくとも、今のお前を一人になんかしない」
リゼはしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、また熱くなる。
「……ありがとう」
「それに、温泉宿の厨房だってある」
「……厨房?」
「ああ」
大地は少しだけ笑った。
「料理人がいなくなったら、俺が困るからな」
「……ふふ」
リゼの口から、自然な笑みがこぼれる。
「それ、理由になってない」
「そうか?」
「うん」
リゼは涙の跡を残したまま、それでも嬉しそうに笑った。
「でも……嬉しい」
二人は再び歩き始める。
大地の手とリゼの手は、まだ繋がったままだった。
今度は、リゼがその手を離さなかった。
夜の森を抜けた先には、二人が帰る場所がある。
そこには温泉宿があり、エレナやミレッタたちが待っている。
そして、その場所から先には――まだ誰も見たことのない未来が広がっている。
失ったものを忘れる必要はない。
仲間たちとの思い出を捨てる必要もない。
悲しみを消し去る必要だってない。
過去は、過去のままでいい。
それを胸に抱いたままでも、人は前へ進める。
リゼは隣を歩く大地を横目で見つめた。
大地は、相変わらずまっすぐ前を向いている。
その横顔を見ていると、不思議と自分も同じ方向を見てみたくなった。
「……私も、前を向こう」
誰に聞かせるでもなく、リゼは小さく呟く。
月明かりに照らされた二人の影が、夜の街道に長く伸びていく。
その影は寄り添いながら、過去ではなく――まだ見ぬ未来へ向かって、静かに歩き続けていた。




