【第61話】燃え落ちる店
セリーナとの話を終え、商人ギルドを出た頃には、すでに夕暮れ時になっていた。
空は赤く染まり、街並みの向こうへ沈みかけた太陽が、建物の屋根を橙色に照らしている。
「……思った以上に話が長くなったな」
大地は一人、街を歩きながら呟いた。
アーベル商会からの支援。
人材の確保。
物資の調達。
そして――新しい街づくり。
つい昨日まで、ぼんやりとしていた未来が、一気に現実味を帯び始めていた。
「これから忙しくなりそうだ」
そんなことを考えながら歩いていると――。
「……ん?」
大地は足を止めた。
少し先。
街の奥から、何やら騒がしい声が聞こえてくる。
「火事だ!」
「水を持ってこい!」
「近づくな! 危険だ!」
「まだ中に人がいるのか!?」
怒号が飛び交っている。
人々が慌ただしく走り回っていた。
「火事……?」
大地の表情が変わる。
そして。
風に乗って、焦げた臭いが漂ってきた。
「……なんだ?」
大地は急いで騒ぎの方向へ向かう。
角を曲がった瞬間――。
「……っ!」
視界に飛び込んできた光景に、大地は息を呑んだ。
激しく燃え上がる建物。
窓から炎が噴き出し、黒煙が空へ向かって立ち上っている。
その周囲では、街の消防団らしき人々が必死に消火活動を行っていた。
そして――。
その店の前に。
一人の女性が立ち尽くしていた。
「……リゼ?」
リゼだった。
いつもの無表情も。
静かな雰囲気も。
そこにはなかった。
ただ呆然と、燃え盛る店を見つめている。
「リゼ!」
大地が駆け寄る。
しかし。
「……」
リゼは反応しない。
「リゼ!」
もう一度呼ぶ。
ようやく、ゆっくりと顔がこちらを向いた。
「……ダイチ」
「何があった?」
リゼは答えなかった。
ただ、燃え上がる店へ視線を戻す。
その横顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。
「まず、ここから離れるぞ」
「……でも」
「危ない」
大地はリゼの肩へ手を添える。
「ここにいたら煙を吸う」
リゼは抵抗しなかった。
大地は炎から離れた場所までリゼを連れていく。
そこには、何人かの住民も避難していた。
「怪我は?」
「……ない」
「本当に?」
「……うん」
大地はリゼの全身を確認する。
目立った怪我はない。
それだけでも少しだけ安心した。
「何があった?」
しばらく沈黙したあと。
リゼが小さく口を開いた。
「……カイルたち」
「カイル?」
「前に来た……冒険者の」
大地の表情が険しくなる。
「あの連中が来たのか?」
リゼは頷いた。
「……店に来た」
「何をされた?」
「……私が何言われてもやり返さないから、それで怒って」
リゼは炎を見つめたまま続ける。
「そのあと……」
一度、言葉を止める。
「火を放った」
「……」
大地の拳が、強く握られた。
「……そうか」
以前、リゼを追い詰めた冒険者たち。
彼らはまだ、リゼを苦しめ続けている。
大地の胸の奥に、怒りが込み上げてくる。
しかし――。
今はそれよりも。
目の前にいるリゼのほうが大切だった。
「もういい」
大地は静かに言う。
「店は後で考えよう」
「……でも」
「リゼ」
大地は彼女の目を見る。
「今は無事だったことを喜ぼう」
「……」
リゼは何も言わない。
そのときだった。
店の奥から、何かが崩れる大きな音が響いた。
「ガシャァン!」
リゼの身体が、びくりと震える。
そして――。
「……包丁」
「え?」
「包丁……」
リゼが燃え盛る店を見る。
「取りに行かないと」
「待て」
「私の……仕事道具」
リゼが炎へ向かって歩き出す。
大地が腕を掴んだ。
「危ない!」
「でも……」
「駄目だ!」
「……離して」
リゼの声に、初めて強い感情が滲んだ。
「包丁だけは……」
「消防の人たちが消火してる。今は無理だ」
「でも……!」
リゼが大地の手を振りほどこうとする。
その直後。
消防団の男が駆け寄ってきた。
「おい! 中へ入るな!」
「……」
「まだ炎が強すぎる! 建物が崩れる可能性もある!」
リゼは燃え盛る店を見つめている。
「……あれだけは」
「駄目だ!」
消防団の男がリゼの前へ立つ。
「命を落としたら元も子もない!」
「……」
リゼの拳が震える。
そして――。
次の瞬間。
リゼは消防団の男の横をすり抜けた。
「おい!」
「リゼ!」
大地も咄嗟に追いかける。
「戻れ!」
しかし。
リゼは止まらない。
「包丁……」
その声だけを残して。
燃え盛る店の中へ入ろうとする。
「リゼ!」
大地は迷わなかった。
「俺が行く!」
「おい!あんた!?」
消防団の男が叫ぶ。
だが、大地は炎の向こうへ飛び込んだ。
◇
熱い。
一歩、店の中へ入っただけで、全身を焼くような熱気が押し寄せてくる。
煙で視界も悪い。
「……リゼ!」
返事はない。
大地は腕で口元を覆いながら、店内を見回す。
「どこだ……!」
燃え広がる炎。
崩れ落ちる木材。
見慣れていた店の姿が、見る影もなくなっている。
それでも――。
大地は進んだ。
リゼが大切にしているもの。
それを探す。
「……あった!」
炎の向こう。
厨房の一角。
そこに、僅かに残った作業台が見えた。
その近くに――。
包丁が置かれている。
大地は炎を避けながら近づく。
「これか……!」
包丁を掴む。
熱を帯びていたが、それでも大地は離さなかった。
そして――。
「リゼ!」
大地は包丁を持って、急いで外へ向かった。
外へ出た瞬間。
新鮮な空気が肺へ入り込む。
「はぁ……はぁ……!」
消防団の人々が駆け寄ってくる。
「おい!あんた!」
「無事か!?」
「俺は大丈夫だ!」
大地は息を整えながら、包丁を握り締める。
そして。
少し離れた場所に立っているリゼへ歩み寄った。
「リゼ」
「……」
大地は包丁を差し出す。
「ほら、これだろ?」
リゼの目が、大きく見開かれた。
「……」
震える手が、ゆっくりと伸びる。
包丁を受け取った瞬間。
リゼの身体が、僅かに震えた。
「……あ」
小さな声が漏れる。
そして――。
ぽろり。
頬を、一筋の涙が流れた。
「……え?」
大地が戸惑う。
リゼが泣いている。
これまで何度も苦しい目に遭ってきたはずなのに。
どれだけ傷つけられても、ほとんど感情を表に出さなかったリゼが。
今。
静かに涙を流していた。
リゼは包丁を胸元へ抱き寄せる。
まるで、それだけは絶対に失いたくないと言うように。
「……これ」
リゼが呟く。
「これだけは……なくしたくなかった」
「……」
大地は何も言えなかった。
「みんなから……もらった」
「みんな?」
リゼは包丁を見つめる。
「前の……パーティ」
「……」
「私が……料理を担当するようになった時に」
リゼの声が震える。
「みんなが、お金を出し合って……買ってくれた」
「……そうだったのか」
「私の……仕事道具」
リゼは包丁を強く抱きしめる。
「でも……それだけじゃない」
一筋。
また涙が流れる。
「みんなが生きてた頃の……最後の贈り物だから」
大地は、言葉を失った。
リゼが以前話していた。
ダンジョンで仲間を失ったこと。
自分だけが生き残ったこと。
そして――。
その後、仲間の家族たちから責められ続けたこと。
この包丁は。
そんな彼女が、過去と繋がっていられる数少ないものだったのだ。
「……大事なものだったんだな」
大地が静かに言う。
リゼは答えない。
ただ、包丁を胸に抱いたまま、涙を流している。
大地はどうしていいのか分からなかった。
慰める言葉も。
気の利いた言葉も。
何も思いつかない。
だから――。
そっと。
リゼの肩へ手を回した。
そして。
優しく抱きしめる。
「……」
リゼの身体が僅かに強張る。
しかし。
抵抗はなかった。
「……大丈夫だ」
大地は小さく呟く。
「もう、いい」
リゼの肩が震える。
「泣いていい」
その言葉を聞いた瞬間。
リゼの身体から力が抜けた。
「……うっ」
小さな嗚咽が漏れる。
大地は何も言わなかった。
ただ、リゼを抱きしめたまま、その場に立ち続ける。
燃え続ける店。
騒がしく動き回る消防団。
夕暮れの空。
そのすべてが、遠くに感じられた。
リゼが泣き止むまで。
大地は、決してその場を離れなかった。
やがて――。
リゼの涙が、少しずつ収まっていく。
それでも。
彼女の胸には、まだ大切な包丁が抱かれていた。
それは。
失われた仲間たちとの記憶を繋ぐ――。
最後の一本だった。




