【第57話】ギルド本部の調査団
それから、数日が経った。
温泉宿の建設は、いよいよ最終段階へと入っていた。
建物そのものは、ほぼ完成している。
木材をふんだんに使った外観。
広々とした玄関。
宿泊用の客室に食事処。
そして、宿の目玉となる男女別の大浴場。
露天風呂には大きな岩が配置され、周囲には木々が残されている。
湯船から見上げれば、森の向こうに広がる空を眺めることもできる。
まだ細かな調整や備品の設置は残っているものの、もう「建設現場」というより、立派な温泉宿と呼べる姿になっていた。
「……ここまで来たか」
建物の前に立ち、大地は感慨深げに呟いた。
「最初は、本当に何もなかったんだよな」
隣に立つエレナが、完成間近の宿を見上げる。
「ええ。温泉が湧いていただけでしたものね」
「それが今じゃ、旅館だ」
「ふふ」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。
「大地さんの夢が、少しずつ形になっていますね」
「俺だけの力じゃないけどな」
大地は建物を見回す。
ミレッタ。
職人たち。
そして、これまで関わってくれた多くの人たち。
一人では、絶対にここまで辿り着けなかった。
「……もう少しだな」
「はい」
その足元では――。
「わふっ」
白い小さな獣が、二人の周囲を元気に走り回っていた。
「ユズキ、あまり遠くへ行っては駄目ですよ」
エレナが呼びかける。
「わふ!」
ユズキは元気よく返事をすると、再び宿の周囲を駆け回った。
大地がその姿を眺めながら笑う。
「すっかりここが気に入ったみたいだな」
「そうですね」
「完成したら、こいつの居場所も作ってやらないとな」
「ふふ。きっと喜びます」
そんな穏やかな時間が流れていた――そのとき。
「――おーい! ダイチ!」
森の入口から、大声が響いた。
「ん?」
大地が振り返る。
木々の間から、一行がこちらへ歩いてくる。
先頭にいるのは、見慣れた大男。
「バルガス?」
クレーベル冒険者ギルドのギルドマスター、バルガスだった。
しかし、今日は一人ではない。
その後ろには男女二人の見知らぬ人物がいる。
「よう、ダイチ!」
「どうしたんだ?」
「今日はちょっとした客を連れてきた」
バルガスが後ろを振り返る。
「ギルド本部から派遣された調査員だ」
「初めまして」
女性の調査員が一礼する。
「冒険者ギルド本部、調査部所属のリディアです。今回、例の鉱山について現地調査を行うため派遣されました」
「同じく調査部所属のガレスです」
男性調査員は短く頭を下げる。
リディアが柔らかな笑顔なのに対し、ガレスは眼鏡を掛け、腰には細かな測定器具がいくつも吊るされている。
「ガレスは数字と記録にうるさい奴でな」
バルガスが笑う。
「現地で何か見つけると、すぐ測りたがる」
「正確な記録は調査の基本です」
ガレスは真顔で答えた。
「そしてリディアは?」
大地が尋ねる。
「私は……」
リディアは少し考えてから笑った。
「自分の目で見て、自分で確かめるのが好きなんです。机の上で報告書を読むだけでは分からないことって、多いですから」
「なるほど」
二人とも調査員ではあるが、性格はかなり違うらしい。
「それで、本格的に鉱山を調査するんだな?」
「ああ」
バルガスが頷く。
「魔鉱巨獣の件もあったからな。本部も放っておけなくなった」
ガレスが補足する。
「魔力濃度、魔鉱石の分布、魔物の発生状況。それらを可能な限り詳細に記録します」
「分かった」
大地が頷く。
すると――。
リディアが、完成間近の温泉宿へ視線を向けた。
「ところで……」
「ん?」
「あれが、噂の温泉宿ですか?」
「ああ」
「……温泉」
リディアの目が僅かに輝く。
「私、実物を見るのは初めてです」
「俺もだ」
ガレスが真顔で答える。
「温泉というもの自体、文献でしか知りません」
「文献で?」
「はい」
ガレスは眼鏡を押し上げる。
「地下から湧出する高温の水に特殊な鉱物成分が含まれ、それを利用した入浴施設――と記録されています」
「……ずいぶん堅いな」
大地が苦笑する。
「もっと簡単に考えていいぞ。温かい湯に浸かって、ゆっくり身体を休めるんだ」
「なるほど」
リディアが頷く。
「では、ぜひ体験してみたいです」
「俺も興味はある」
ガレスが即答した。
「本に書かれている内容と実際の体験にどの程度差があるのか、確認しておきたい」
「お前らしいな……」
大地は苦笑する。
「じゃあ、鉱山へ行く前に入っていくか?」
「いいのか?」
バルガスが食いついた。
「もちろん」
「よし!」
「バルガス、お前が一番嬉しそうだぞ」
「そりゃそうだろ!」
◇
「では、女性はこちらへどうぞ」
エレナがリディアを案内する。
「ありがとうございます」
その一方――。
「男性はこっちだ」
大地はバルガスとガレスを男湯へ案内していく。
「まず身体を洗う」
大地が説明する。
「そして湯船に入る」
「それだけですか?」
ガレスが尋ねる。
「基本はな」
「湯の温度は?」
「熱すぎない程度」
「成分濃度は?」
「……入ってから聞け」
「分かりました」
ガレスは真剣な顔で頷いた。
一方、バルガスはすでに湯船を覗き込んでいる。
「これが温泉か……」
「まだ入ってないだろ」
「見た感じからして普通の風呂とは違う」
「何が?」
「雰囲気だ」
「……そうか」
大地は深く考えないことにした。
三人は身体を洗い、湯船へ向かう。
「それじゃ、入るぞ」
大地が先に湯へ浸かる。
「……」
バルガスが恐る恐る足を入れる。
「……お?」
さらに身体を沈める。
「…………」
肩まで浸かったところで、バルガスが固まった。
「どうだ?」
「…………」
返事がない。
「バルガス?」
「……これは」
ようやく口を開いた。
「……いいな」
その顔から、力が抜けていく。
「身体が……勝手に緩む」
「だろ?」
「なるほど……これが温泉……」
ガレスも静かに湯へ入る。
そして、数秒後。
「……興味深い」
「お前はそこなのかよ」
「湯に入った直後から、末端の血流が変化しているように感じます」
ガレスは自分の手を眺める。
「普通の湯との違いを確認したい」
「だから温泉なんだって」
「非常に興味深い」
「……まあ、いいか」
一方のバルガスは――。
「ダイチ」
「ん?」
「俺、もうここから出たくない」
「まだ数分しか経ってないぞ」
「それでもだ」
◇
その頃、女湯。
「……わぁ」
リディアは湯船を見つめていた。
「本当に森の中にお風呂があるんですね」
「はい」
エレナが微笑む。
「これが露天風呂です」
「露天……?」
「屋外のお風呂ですね」
「なるほど」
リディアは嬉しそうに湯船へ入る。
「……あ」
肩まで浸かった瞬間。
「気持ちいい……」
思わず声が漏れた。
「ふふ」
エレナが笑う。
「どうですか?」
「思っていたより、ずっと気持ちいいです」
リディアは目を閉じる。
「これは……長く入っていたくなりますね」
「大地さんもよく言っています」
「これは確かに分かります」
リディアはすっかり気に入った様子だった。
しかし、その数分後。
「……あれ?」
突然、リディアが目を開ける。
「どうしました?」
「いえ……」
自分の腕を動かす。
「なんだか、身体が軽くなってませんか?」
「気付きましたか?」
エレナが微笑む。
「大地さんが温泉の効能を調整したんです」
「効能?」
「身体能力向上です」
「……なるほど」
リディアは自分の腕を曲げ伸ばしする。
「温泉に入るだけで身体能力が上がる……」
そして――。
「面白いですね」
その瞳が、研究者のような輝きを見せる。
「どういう仕組みなのか、詳しく調べてみたいです」
「大地さんに聞けば教えてくれると思いますよ」
「ぜひ!」
◇
やがて、全員が温泉から上がった。
「……すごいな」
バルガスが腕を回す。
「身体が軽い」
ガレスは早速、腰の測定器具を取り出した。
「入浴前と比較して、明らかに身体能力が――」
「ガレス」
「はい?」
「今は仕事を忘れろ」
大地が呆れた顔をする。
「これから鉱山調査だ」
「……失礼しました」
そう言いながらも、ガレスは測定器具をしまいながら何度も自分の腕を確認している。
一方、リディアはというと――。
「エレナさん」
「はい?」
「帰りも、もう一度入れますか?」
「ふふ」
エレナが笑う。
「もちろんです」
「やった!」
その反応に、大地は思わず苦笑する。
「温泉、気に入ったみたいだな」
「はい!」
リディアは満面の笑みで答えた。
バルガスも負けじと口を挟む。
「俺も帰りは絶対入るぞ!」
「お前ら、もう目的を忘れてないか?」
「忘れてない!」
「……本当か?」
「本当だ!」
そんなやり取りをしながら、一行は出発の準備を整えた。
その頃。
宿の前ではユズキが待っている。
「わふ」
大地がしゃがみ込む。
「ユズキ。悪いけど、お前はここで留守番な」
「……わふ?」
「鉱山は危険だからな」
エレナもユズキの頭を撫でる。
「私たちが戻ってくるまで、この宿をお願いしますね」
「わふ!」
ユズキは元気よく返事をした。
「よし」
大地が立ち上がる。
「行こう」
大地、エレナ、バルガス、そしてギルド本部の調査員二人。
五人は森の奥へと歩き始めた。
「ところでダイチ」
バルガスが歩きながら尋ねる。
「ん?」
「帰ってきたら、また温泉に入っていいんだよな?」
「……好きにしろ」
「よし!」
「だから仕事が終わってからだぞ」
「分かってる!」
その後ろでは、ガレスが鉱山調査用の器具を確認している。
リディアは時折振り返り、完成間近の温泉宿を名残惜しそうに眺めていた。
そして大地とエレナは――。
森のさらに奥。
かつて魔鉱巨獣と戦った、あの鉱山へと視線を向ける。
温泉宿の完成を目前に控えた今。
大地たちは、鉱山で何が起きているのかを確かめるため、再びその場所へ向かうのだった。




