【セリーナside】アーベル商会の選択
温泉宿の視察を終えたセリーナは、馬車の中で一人、窓の外を眺めていた。
車輪が街道を進むたび、建設途中の温泉宿が少しずつ遠ざかっていく。
だが――。
セリーナの意識は、まだあの場所から離れていなかった。
「……温泉宿、ですか」
小さく呟く。
脳裏に浮かぶのは、森の中に作られた浴場。
白い湯気。
静かな森。
そして、身体を包み込んだ心地よい湯。
商人として、これまで数え切れないほどの商品を見てきた。
珍しい宝石。
高級な織物。
香水。
魔道具。
貴族向けの嗜好品。
それらには必ず、価格がある。
原価があり、輸送費があり、販売価格がある。
どれほど珍しい品であっても、商人は最終的に数字へ落とし込まなければならない。
しかし――。
あの温泉だけは、少し違った。
「……単純な宿泊施設として考えるべきではありませんわね」
セリーナは膝の上に置いた手帳を開いた。
そこには、視察中に確認した内容が細かく書き込まれている。
宿泊棟。
食堂。
厨房。
従業員用の居住区。
温泉設備。
そして、シャンプーやトリートメント、ボディソープ。
一つ一つを思い返していく。
「温泉そのものが商品になる」
さらに――。
「食事も商品になる」
そして。
「宿泊するという体験そのものも商品になる」
セリーナはペンを走らせた。
温泉に入り。
身体を洗い。
食事を楽しみ。
静かな森の中で眠る。
これまでの宿泊施設とは、根本的に発想が違う。
「……面白い」
自然と口元が緩む。
だが、セリーナが本当に興味を持ったのは、それだけではなかった。
「問題は……規模ですわね」
現在の温泉宿は、まだ建設途中。
知名度もない。
街道からも離れている。
クレーベルからの移動にも時間がかかる。
普通の商人なら、ここで慎重になる。
需要がどれほどあるのか。
投資した資金を回収できるのか。
客が定着するのか。
それを確認してから動く。
しかし――。
セリーナは手帳に簡単な数字を書き始めた。
一泊あたりの宿泊客。
食事代。
温泉利用料。
物資の仕入れ。
輸送費。
従業員の人件費。
必要経費を一つずつ並べていく。
そして、いくつかの想定を書き加える。
「……」
計算を進めるほど、セリーナの表情が変わっていった。
「初期投資は大きい」
それは間違いない。
だが――。
「この温泉そのものに代替品がありませんわ」
普通の宿なら、他の宿と比較される。
料理なら、他の店と比較される。
しかし、この温泉は違う。
同じものを提供できる場所がない。
まして、大地のスキルによって効能まで調整できる。
冒険者には身体能力向上。
魔術師には魔力向上。
疲労した商人には疲労回復。
女性には美容効果。
客の目的に合わせて、価値を変えられる。
「……需要をこちらから作れる」
セリーナはそう呟いた。
それは商人にとって、非常に大きな意味を持つ。
さらに――。
「シャンプー……トリートメント……ボディソープ……」
セリーナは手帳に商品名を書き込んだ。
今日、実際に使ったもの。
どれも、この世界では一般的な商品ではない。
少なくとも、セリーナが知る限りでは。
「これらを、温泉宿だけで使用するのは……少々もったいないですわね」
セリーナの頭の中に、別の光景が浮かんだ。
貴族の令嬢たち。
皇都の婦人たち。
高級宿。
社交界。
そして――。
「もし、これらを商品として販売できるなら」
一気に可能性が広がる。
容器を高級なものにする。
香りを複数用意する。
貴族向けの特別仕様を作る。
美容用品として売り出す。
温泉そのものへ行けない者にも、その一部を届けられる。
「……これは、かなり大きいですわね」
セリーナは思わず笑った。
温泉宿への投資だけではない。
その周辺で生まれる商品まで含めれば、商機はさらに広がる。
しかも――。
まだ、誰も知らない。
競争相手がいない。
少なくとも現時点では。
「お父様に報告する必要がありますわね」
当然だった。
アーベル商会を動かすのであれば、最終的には父の判断も必要になる。
しかし――。
セリーナは窓の外を見た。
「……ただ」
報告して、判断を待つ。
それから人員を動かし、仕入れ先を探し、契約を整える。
それでは遅い。
温泉宿は、まだ建設途中だ。
今なら先行して動ける。
「完成してからでは、他の商会が目をつける可能性もありますもの」
セリーナは少し考えた。
そして――。
「……私の判断で、先に動きましょう」
決断は早かった。
父にはすぐに手紙を送る。
だが、返事を待つつもりはない。
必要な物資の調達。
輸送経路の確保。
仕入れ先との交渉。
そして、温泉宿で使用されていた商品の調査。
「まずは、宿の運営に必要な物を揃える」
ペンを走らせる。
「次に、温泉宿で使われていた商品の仕入れについて確認する」
そして最後に。
セリーナは一瞬、手を止めた。
「……ダイチ様との交渉」
あの青年の姿を思い浮かべる。
異国の建築。
温泉。
シャンプー。
トリートメント。
ボディソープ。
そして、温泉の効能を自在に変えるという特殊な力。
「一体、どこからあれほどの発想が出てくるのでしょう」
セリーナは不思議そうに呟いた。
ダイチ。
彼の話す「故郷」という場所。
セリーナには聞いたことのない文化だった。
けれど――。
それが非常に興味深い。
商人として。
そして、一人の人間として。
「……もっと知りたいですわね」
その時だった。
ふと、先ほどの光景が脳裏に蘇った。
温泉へ向かう前。
大地の隣に立っていたエレナ。
そして、ミレッタ。
三人の会話。
表情。
視線。
ほんの些細な仕草。
セリーナは、それを思い返した。
「……そういえば」
エレナは大地の話になると、ほんの少し表情が柔らかくなっていた。
ミレッタも同じだった。
普段の気軽な態度。
けれど、大地が何かを話した時だけ、妙に反応が早い。
そして――。
大地自身も、二人に対してどこか自然な距離感を持っていた。
「……なるほど」
セリーナは小さく笑った。
エレナがハイデンベルク皇国の皇女であることは知っている。
ミレッタがカデンツの族長の娘であることも知っている。
そんな二人が、あの青年と共にいる。
「ただの従業員……というわけではなさそうですわね」
断定はできない。
だが。
何か特別な関係がある。
少なくとも、そう感じさせるだけのものはあった。
セリーナはそれ以上深く考えることをやめた。
今はまだ、それを知る必要はない。
それよりも――。
「ダイチ様」
再び、その名を口にする。
商人として見れば、興味深い人物だった。
異国の文化を知り。
それをこの世界で形にしている。
しかも、本人にはそれを特別なことだと思っている様子がない。
「……まだ、どれほどのものをお持ちなのか分かりませんわね」
温泉だけでも十分に価値がある。
だが、もし彼の故郷に、まだ他にも同じような文化や技術があるのなら。
それは――。
計り知れない価値を生み出す可能性がある。
セリーナの商人としての勘が、静かに告げていた。
「この方は……面白いですわ」
馬車が街道を進んでいく。
やがて、クレーベルの街並みが見えてきた。
セリーナは手帳を閉じる。
「帰ったら、すぐに動きましょう」
まずは父への報告。
そして、商会への指示。
温泉宿に必要な物資を洗い出し、仕入れ先を確保する。
さらに――。
「シャンプーとトリートメントのサンプルを今度いただきましょう」
セリーナの口元に、再び笑みが浮かんだ。
温泉宿への協力。
それは単なる取引ではない。
これから生まれる新しい市場への、最初の一歩だった。
そしてセリーナ自身もまた――。
あの青年、ダイチがどこまで新しいものを生み出していくのか。
その行く先を、見届けたいと思い始めていた。




