【第53話】商会令嬢の視察
それから、数日が経った。
温泉宿の建設は、順調に進んでいた。
宿泊棟の骨組みはほぼ完成し、漆喰のようなものを使った壁や瓦葺きの屋根も、少しずつ形を整え始めている。
従業員用の居住スペースも基礎工事を終え、建物の輪郭が見えてきた。
そして温泉設備については、ミレッタが中心となって魔道具の設置と調整を進めている。
まだ完成には程遠い。
それでも、数週間前まで何もなかった森の一角が、今では確かな「場所」へと姿を変えつつあった。
そんなある日の昼過ぎ。
「……あれ?」
作業の手を止めた大地が、街道の先へ目を向ける。
森の木々の向こうから、一台の馬車がゆっくりと姿を現した。
派手な装飾こそ施されていない。
だが、車体の造りも、馬具の仕立ても、一目で上質なものだと分かる。
やがて馬車は建設現場の入口で停まり、御者が扉を開いた。
「こんにちは、ダイチ様」
馬車から降りてきた女性を見て、大地は笑顔になった。
「セリーナさん」
数日前、商人ギルドで出会った女性。
セリーナ・ロア・アーベル。
大陸最大の商会――アーベル商会の令嬢である。
「先日は突然お声をかけてしまい、失礼いたしました」
セリーナは、いつものように優雅な所作で一礼する。
「いや、こっちこそ来てもらえて助かるよ。今日は視察だったよな?」
「はい。ぜひ一度、実際に拝見したいと思っておりました」
そう答えながら、セリーナはゆっくりと周囲を見渡した。
その視線が、建設途中の宿へと向けられる。
「こちらが温泉宿でございますね」
「ああ」
「まあ……」
セリーナの瞳が、わずかに輝いた。
「見たことのない建築様式ですわね。とても興味深いです」
「俺の故郷の建築様式を参考にしてるんだ」
「なるほど」
セリーナは建物を眺めながら、小さく頷く。
「どこか異国の趣があると思いましたが……ダイチ様の故郷の文化なのですね」
「ああ。せっかく作るなら、俺が知ってる宿に近い形にしたくてな」
「素敵だと思いますわ」
セリーナが微笑む。
その視線が、さらに建物の細部へ向けられた。
だが――。
ふと、その表情が変わる。
「……あら?」
セリーナは、大地の隣に立つエレナへ視線を向けた。
じっと顔を見つめる。
そして、わずかに目を見開いた。
「……間違いございませんわね」
「……?」
大地が首を傾げる。
セリーナはエレナへ向かって、静かに頭を下げた。
「エレノア……殿下、でございますわね?」
「はい」
エレナは穏やかな笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、セリーナさん」
「お久しぶりでございます」
セリーナの声に、わずかな驚きが混じる。
「まさか、こちらでお会いするとは思っておりませんでした」
「私もです」
エレナが微笑む。
「どういったご用向きでこちらへ?」
「……色々ありまして」
エレナは一瞬だけ大地を見る。
「今はこちらで、ダイチさんのお手伝いをしているのです」
「……なるほど」
セリーナは、それ以上を尋ねなかった。
ほんの数秒。
それだけで何かを察したようだった。
大地には、その意味までは分からない。
だが、セリーナの表情には、驚きよりも納得の色が浮かんでいた。
「ここでは、ただのエルフのエレナとして接してください」
「かしこまりました」
セリーナは微笑む。
「こちらでお会いしたことについても、私から口外することはございません」
「ありがとうございます」
「当然のことでございますわ」
二人は穏やかに笑い合った。
大地は少し意外そうに二人を見る。
「やっぱり知り合いだったんだな」
「はい」
エレナが答える。
「以前から何度かお会いしています。アーベル商会とは、皇都でもお付き合いがありますから」
「なるほど」
セリーナも頷いた。
「エレナ様には、以前より大変お世話になっております」
「こちらこそです」
そんな二人の会話を聞いていたミレッタが、工具を片手にこちらへ歩いてきた。
「あれ?」
ミレッタがセリーナを見る。
「セリーナじゃん」
「あら」
セリーナも振り返る。
「ミレッタ様も、お久しぶりでございます」
「久しぶり」
ミレッタは気軽に手を上げた。
「まさか、こんなところで会うとはね」
「私も驚きましたわ」
セリーナはミレッタを眺め、それから建設途中の宿へ視線を移した。
「カデンツの族長のご息女であるミレッタ様が、温泉宿の建設に携わっていらっしゃるとは……」
「族長の娘って言うなって」
ミレッタが露骨に顔をしかめる。
「あと、『様』もやめろ」
「ふふっ。以前からそうおっしゃいますね」
「今はただの魔道具技師だよ」
「では、ミレッタさんとお呼びいたしましょうか」
「それでいい」
ミレッタは満足そうに頷いた。
「そのほうが気楽だからね」
「承知しました」
セリーナは上品に微笑んだ。
三人のやり取りを見ながら、大地は改めて思う。
エレナも。
ミレッタも。
そして、目の前のセリーナも。
それぞれが、とんでもない立場の人間なのだ。
けれど、本人たちはそれをことさら特別扱いしている様子はない。
「じゃあ、さっそく案内するよ」
大地が声をかける。
「お願いします」
セリーナの表情が切り替わった。
先ほどまでの親しげな笑みから、商人としての落ち着いた表情へ。
「本日は建物だけではなく、温泉設備や周辺環境も拝見させていただきます」
「ああ。気になることがあれば、何でも聞いてくれ」
「ありがとうございます」
こうして――。
セリーナによる温泉宿の視察が始まった。
◇
「まず、こちらが宿泊棟」
大地が建設途中の建物を指差す。
「客室は、この中に作る予定だ」
セリーナは建物を見上げた。
「想像していたより、かなり大きいですね」
「最初はもっと小さくするつもりだったんだけどな」
大地は苦笑する。
「考えてるうちに、必要なものがどんどん増えてきた」
「宿泊施設というものは、そうなりやすいですわ」
セリーナは建物だけでなく、その周辺にも目を配っている。
「こちらは?」
「従業員用の居住スペースだな」
「従業員の方々も、ここで生活できるように?」
「ああ。クレーベルから毎日通ってもらうのは大変だからな」
「良いお考えだと思います」
セリーナは頷いた。
「この立地ですと、働く方々の生活環境を整えておくことは、人員確保にも影響するでしょう」
「実は従業員の募集も始めてる」
「商人ギルドで伺いました」
「そこまで話が伝わってるのか?」
「商人ギルドは情報が集まる場所ですから」
セリーナは柔らかく笑う。
「それに、こちらで働く方が増えれば、それだけ必要となる物資も増えます」
「……なるほど」
大地が頷く。
「そこまで見てるのか」
「商人ですので」
セリーナは、ごく自然に答えた。
その後も、大地は宿泊棟、食堂、厨房、従業員用の施設などを順番に案内していく。
そして、厨房の前でセリーナが足を止めた。
「食材はこちらから搬入する予定でしょうか?」
「そうだな」
「馬車は厨房の近くまで入れますか?」
「……そこまでは考えてなかった」
大地が苦笑する。
「ミレッタ、どう思う?」
「まだ工事途中だから、道を変えるくらいならできるよ」
ミレッタが即答する。
「厨房の裏まで馬車を入れられるようにしたほうが便利だと思う」
「だよな」
「食材は毎日運ぶことになるかもしれないし、酒や日用品も必要になる。荷物を運ぶ距離は短いほうがいい」
「その通りですわ」
セリーナが頷いた。
「食材だけではありません。寝具、食器、清掃用品、調味料なども定期的に補充する必要があります」
「……宿って、結構いろんな物が必要なんだな」
「はい」
セリーナは微笑む。
「お客様が快適に過ごすためには、それだけ多くの物が必要になりますから」
「なるほど」
大地は少し考えた。
「じゃあ、搬入口は見直そう」
「任せて」
ミレッタが工具を肩に担ぐ。
「そこはあたしが調整するよ」
「頼む」
「了解」
セリーナはそんなミレッタを見ながら、穏やかに微笑んだ。
「設備だけでなく、建物の設計にも携わっているのですね」
「温泉宿だからね」
ミレッタは胸を張った。
「魔道具も設備も、あたしが見てる」
「それなら心強いですわ」
「でしょ?」
ミレッタが得意げに笑う。
「じゃあ、次は温泉を見せるよ」
大地がそう言うと、セリーナの表情がわずかに変わった。
「ぜひ、お願いします」
◇
温泉へ近づくにつれて、白い湯気が視界に入ってくる。
木々の間から立ち上る湯気は、森の緑と混ざり合い、どこか幻想的な景色を作り出していた。
セリーナは思わず足を止める。
「……これが」
「ああ」
大地が頷く。
「実際に入ってみたほうが、分かりやすいと思う」
「よろしいのでしょうか?」
「もちろん」
「では、お言葉に甘えますわ」
大地はエレナを見る。
「エレナ、頼めるか?」
「はい」
エレナが笑顔で頷く。
「セリーナさん、ご一緒しましょう」
「ありがとうございます」
二人は女湯へ向かっていった。
◇
女湯。
脱衣所で衣服を脱ぎ、浴場へ足を踏み入れたセリーナは――。
思わず目を見開いた。
そこには、大小いくつもの湯船が設けられていた。
木々に囲まれた浴場は自然と調和しながらも、随所に大地の故郷を思わせる造りが取り入れられている。
湯気の向こうに広がる静かな森。
水面に揺れる光。
耳に届くのは、湯が流れる音と木々のざわめきだけ。
「……これは素晴らしいですわ」
「自慢の温泉なんです」
エレナが嬉しそうに笑った。
「まずは身体を洗いましょう」
「はい」
二人は洗い場へ向かう。
そこで、セリーナの目に見慣れない容器が入った。
「……こちらは?」
「シャンプーです」
「シャンプー……?」
「髪を洗うためのものです」
エレナが使い方を説明する。
セリーナは半信半疑ながらも、言われた通りに手に取った。
泡立てる。
髪へ馴染ませる。
指を通す。
「……まあ」
思わず声が漏れた。
泡が髪を包み込み、頭皮までさっぱりと洗い上げていく。
「香りも素晴らしいですわ」
「香料も工夫しているそうです」
「これも、ダイチ様の?」
「はい」
エレナは笑った。
「大地さんの故郷にあったものを参考にしているんです」
「なるほど……」
セリーナは興味深そうに容器を見る。
「では、こちらは?」
「トリートメントです」
「こちらも髪に?」
「はい。シャンプーの後に使います」
セリーナは言われた通り、髪に馴染ませる。
洗い流してみると、先ほどまでとは明らかに感触が違った。
「……髪が、驚くほど滑らかになっていますわ」
「髪の傷みを補修する成分が入っているそうです」
「これは……女性には嬉しいでしょうね」
セリーナは自分の髪に指を通しながら、感心したように呟く。
さらに身体を洗うためのボディソープも試してみる。
泡立てたそれは、柔らかな泡となって肌を包み込んだ。
「……これほどまでに、入浴そのものを楽しませる工夫があるとは」
セリーナの表情が、少しずつ変わっていく。
温泉だけではない。
入浴する前から、すでに体験が始まっている。
そして、それこそが大地の考える温泉宿だった。
「では、湯船へ行きましょう」
「はい」
身体を洗い終えた二人は、ゆっくりと湯船へ身体を沈める。
「……っ」
セリーナの口から、小さな吐息が漏れた。
温かな湯が、足先から身体全体を包み込んでいく。
肩まで浸かった瞬間、張り詰めていた身体から力が抜けていくようだった。
森の静かな空気。
立ち上る湯気。
鳥の鳴き声。
遠くから聞こえる作業音。
街の喧騒から切り離されたような空間に、セリーナはしばらく言葉を失っていた。
「……これが、温泉なのですね」
「はい」
エレナが微笑む。
「以前からお聞きになっていたのでしたね」
「ええ」
セリーナは湯に身体を預けながら頷いた。
「疲労を和らげる効果があることや、美容にも良いという話は聞いておりました」
「実際に入ってみると、どうですか?」
「……想像以上ですわ」
セリーナは目を閉じた。
「身体の奥に溜まっていた疲れまで、ゆっくりと解けていくようです」
「それが温泉の効能です」
エレナが穏やかに説明する。
「そして、この温泉は大地さんのスキルによって、効能を調整できます」
「疲労回復だけではない、と?」
「はい」
エレナは頷く。
「身体能力を高める効能にすることもできますし、魔力を高める効能にすることもできます」
「……」
セリーナが黙り込む。
そして、湯面を見つめながら静かに呟いた。
「それは……非常に大きな価値ですね」
「そう思います」
エレナが微笑む。
「私も、この温泉が好きです」
「エレナ様がここで暮らしている理由も、少し分かった気がしますわ」
「ふふっ」
エレナは小さく笑った。
「私も、最初はここまで素晴らしいものだとは思っていませんでした」
「なるほど……」
セリーナは再び目を閉じる。
しばらくの間、何も言わなかった。
ただ、湯に身体を預けている。
その表情から、商談の場で見せていた緊張感が少しずつ消えていった。
やがて――。
ゆっくりと目を開く。
その瞳には、先ほどとは違う光が宿っていた。
商人としての計算。
そして、確信。
「……エレナ様」
「はい?」
「これは、人を呼べますね」
「そう思いますか?」
「ええ」
セリーナは迷いなく答えた。
「温泉そのものが珍しい。そして、実際に入れば、その価値を身体で理解できる」
「……」
「さらに効能まで調整できるのであれば、冒険者、商人、旅人、そして美容を求める女性客まで、それぞれに異なる魅力を提供できます」
「はい」
エレナが頷く。
「だから、大地さんは温泉宿を作ろうとしているのです」
「……なるほど」
セリーナは静かに微笑んだ。
「これは、一度体験したら忘れにくいでしょうね」
その声には、確かな手応えがあった。
◇
温泉から上がったセリーナとエレナが戻ってくると、大地はすぐに尋ねた。
「どうだった?」
「非常に素晴らしかったですわ」
セリーナは即答した。
「これなら、人が集まるでしょう」
「本当か?」
「はい」
セリーナは宿を見渡した。
「ただし――ここからが重要です」
「何が?」
「料金です」
「料金?」
「はい」
セリーナは商人としての表情を見せる。
「この宿を、どの価格帯で提供するのか。それによって集まる客層も変わります」
「俺はまだ、具体的には決めてないんだ」
「でしたら、周辺の宿泊施設の料金を調べる必要がありますね」
セリーナは指を折りながら続ける。
「通常の宿泊料金」
「食事付きの場合の料金」
「長期滞在の場合の料金」
「温泉のみを利用する場合の料金」
「それから、食事や酒、日用品などの価格も確認する必要がございます」
「そこまで考えるのか……」
「宿を経営するのであれば、必要なことですわ」
セリーナは微笑む。
「すべて繋がっておりますから」
「例えば?」
「食材の仕入れ価格が高ければ、当然、料理の価格にも影響します」
「うん」
「寝具や食器、清掃用品も同じです」
「なるほど」
「そして、この場所まで物資を運ぶ輸送費も考えなければなりません」
大地は腕を組んだ。
「そこまで考えると、結構複雑だな」
「だからこそ――」
セリーナは大地を見る。
「私がお手伝いできます」
「アーベル商会で?」
「はい」
セリーナは優雅に頷いた。
「アーベル商会で扱っている商品であれば、各地の仕入れ先や流通経路を確認できます」
「必要な物をまとめて仕入れることも?」
「可能です」
「それは助かる」
「そのためにも、宿で必要となる物を一覧にしていただけますか?」
「分かった」
大地が頷く。
「俺たちでまとめてみるよ」
「ありがとうございます」
セリーナは建設途中の宿へ視線を向けた。
「完成すれば、食材も、酒も、寝具も、食器も、日用品も必要になります」
「……」
「そして、人が集まれば、それだけ新しい需要も生まれるでしょう」
セリーナの瞳が静かに輝く。
「この宿は、周辺の商業にも影響を与える可能性があります」
「そこまで?」
「ええ」
セリーナは穏やかに笑った。
「人が集まる場所には、必ず商機が生まれますから」
大地はその言葉を聞いて、建設途中の宿を見渡した。
数日前までは、ただの建設現場だった。
今は違う。
宿泊する人がいる。
働く人がいる。
食事をする人がいる。
物資を運ぶ人がいる。
そして――そこへ訪れる人を待つ温泉がある。
「……なるほどな」
大地は小さく呟いた。
自分はただ、温泉宿を作ろうとしていた。
けれど。
その宿が完成した先には、想像していたよりもずっと大きなものが待っているのかもしれない。
「じゃあ、よろしく頼む」
大地がセリーナへ向き直る。
「承知いたしました」
セリーナは優雅に一礼した。
「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」
その微笑みは、最初に出会った時と変わらない。
けれど――。
その瞳の奥では、すでにいくつもの商流が組み上がり始めていた。
温泉。
宿。
食事。
人。
物資。
そして、クレーベルからこの場所へ向かう新しい人の流れ。
まだ建物は完成していない。
それでも。
温泉宿は少しずつ、一軒の宿という枠を越え始めていた。




