【第47話】真夜中の温泉
――その夜。
温泉完成の宴会は、すっかり終わっていた。
日中から働き続けていた職人たちは、完成した温泉で身体を癒やしたあと、酒までたらふく飲んだこともあり、次々と寝床へ戻っていった。
辺りはすっかり静まり返っている。
聞こえるのは、森を抜ける夜風の音と、遠くから聞こえる虫の声。
「……うぅ……今日は飲んだなぁ」
横になってから、もうしばらく経つ。
身体には心地よい疲労が残っている。
頭も酒のせいで少しぼんやりしていた。
それなのに、なぜか眠れない。
「……なんだろうな」
大地は天井を見上げながら、小さく息を吐いた。
今日完成したばかりの温泉。
昼間に入ったときの心地よさが、まだ身体に残っている。
「……夜の温泉、見てみるか」
ふと思い立つ。
完成したばかりなのだ。
しかも、昼間は職人たちと一緒だった。
夜の露天風呂がどんな景色なのかも、まだ見ていない。
「……せっかくだし、夜の露天風呂も見てみたいな」
大地はそう呟くと、ゆっくりと起き上がった。
酔いは残っている。
立ち上がると、ほんの少しだけ足元がふらついた。
「……っと」
壁に手をついて体勢を整える。
「大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟き、大地は一人、温泉へ向かった。
◇
その少し前。
女湯の脱衣所では――。
「……お、おい。本当に、これで大丈夫なのか?」
ミレッタが、手にした二枚の暖簾を見つめていた。
片方には――『男湯』。
もう片方には――『女湯』。
そして今、その二枚は本来とは逆の場所に掛けられている。
「……大丈夫です」
その横で、エレナが涼しい顔で答えた。
「ほ、本当に?」
「私を信じてください」
エレナは、なぜか自信ありげに微笑んでいる。
「……よ、よし」
ミレッタは頷いた。
しかし、その声には隠しきれない緊張が滲んでいた。
「……ふふ」
そんなミレッタを見て、エレナが小さく笑う。
「では、ダイチさんにきちんと気持ちを伝えてくださいね」
「ま、待ってくれ!」
ミレッタが慌ててエレナの腕を掴む。
「やっぱり無理かもしれねぇ……!」
「ミレッタ」
エレナは、優しく名前を呼んだ。
「大丈夫です」
「でも……」
「大地さんは、今夜かなりお酒を飲んでいました」
「……うん」
「そして、温泉をとても気に入っていました」
「……うん」
「きっと、もう一度入りに来ると思います」
「……」
「そのとき、あなた自身の言葉で伝えればいいんです」
ミレッタは黙り込んだ。
しばらくして、胸の奥に溜め込んでいた息をゆっくり吐き出す。
「……分かった」
「はい」
「……あたし、ダイチにちゃんと女として見てほしい」
それは、昼間に見せていた強気なミレッタとは違う声だった。
弱々しいわけではない。
ただ、好きな人を前にした一人の女性としての、素直な言葉だった。
エレナはそんなミレッタを静かに見つめる。
「きっと伝わりますよ」
「……ありがとな、エレナ」
「頑張ってください」
「……おう」
エレナは脱衣所を出ようとする。
そして、扉へ手をかけたところで一度だけ振り返った。
「ミレッタ」
「ん?」
「私も、あなたを応援しています」
「……!」
ミレッタは目を丸くする。
エレナは微笑んだ。
「大地さんのことを好きになった気持ちは、私には否定できませんから」
「……エレナ」
「それに――」
エレナは少しだけ悪戯っぽく笑う。
「大地さんが誰かに好かれるのは、今に始まったことではありませんから」
「……それ、励ましてるのか?」
「もちろんです」
「……なんか複雑だな」
二人は小さく笑った。
そしてエレナは、今度こそ脱衣所を出ていった。
残されたミレッタは、一人になる。
「…………」
静かになった脱衣所。
遠くから、森を抜ける風の音が聞こえる。
ミレッタは胸元へ手を当てた。
「……心臓、うるせぇ……」
自分でも分かるほど、鼓動が速い。
「……あたし、何やってんだろ」
思わず苦笑する。
けれど――。
頭の中に浮かぶのは、大地の顔だった。
初めて会ったとき。
自分の怪我を治してくれたとき。
自分の技術を認めてくれたとき。
そして、何の迷いもなく自分を仲間として受け入れてくれたとき。
気がつけば、いつも大地のことを考えていた。
「……ダイチ」
小さく名前を呼ぶ。
「来るかな……」
誰にも届かない声が、静かな脱衣所に消えていった。
◇
しばらくして。
「……あー……何度見てもいい温泉だな……」
大地が温泉施設の入口へやってきた。
酒のせいで頬が少し赤い。
「昼間は職人たちがいっぱいだったけど……今なら誰もいないだろ」
そう呟きながら、大地は暖簾を見る。
「……男湯、こっちか」
特に疑うこともなく、暖簾をくぐった。
そのまま脱衣所へ入り、服を脱ぐ。
「……ふぅ」
浴場へ続く扉を開けた。
ふわり、と温かな湯気が顔を包む。
「……誰もいないな」
静まり返った浴場。
大地はゆっくりと湯船へ向かった。
そして――。
「……はぁ……」
肩まで湯に浸かる。
温かな湯が全身を包み込んだ。
「やっぱり……いいな」
自然と声が漏れる。
夜の温泉は、昼間とはまるで違っていた。
森は静まり返り、頭上には月が浮かんでいる。
木々の隙間から覗く夜空。
湯気の向こうで揺れる木々。
湯が静かに流れ落ちる音。
昼間の喧騒が嘘のようだった。
「……ここ、作ってよかったな」
大地は目を閉じた。
職人たちの笑い声もない。
ミレッタの元気な声も聞こえない。
エレナの優しい声もない。
ただ、静かな夜だけがある。
「……少し飲みすぎたかな」
大地は苦笑する。
そのとき――。
「……あの」
背後から、かすかな声がした。
「…………ん?」
大地がゆっくり振り返る。
湯気の向こう。
そこに、人影が立っていた。
「……誰?」
その人物は、タオルで身体を隠しながら、こちらを見つめている。
「…………」
「…………」
互いに、言葉を失った。
やがて、大地が目を見開く。
「……ミ、ミレッタ?」
「……ダイチ」
ミレッタの顔が一気に赤くなる。
しばらく、二人とも動けなかった。
「……なんで、ここに?」
大地が尋ねる。
「そ、それは……」
ミレッタは視線を逸らした。
「……あたしも、温泉に入りに来たんだよ」
「……?」
大地は首を傾げる。
そして、入口へ目を向けた。
「でも、ここ男湯――」
言葉が止まる。
「……男湯」
それから、もう一度ミレッタを見る。
「…………」
酔った頭で、必死に状況を整理する。
「……ミレッタが間違えた?」
「……そ、そう!」
ミレッタが勢いよく頷いた。
「そうなんだ!」
「…………」
「…………」
二人の間に、妙な沈黙が落ちる。
けれど、大地はすぐに違和感を覚えた。
「……いや」
「……?」
「待って」
大地は額に手を当てる。
「これ……もしかして、俺が間違えてる?」
「え?」
「俺、女湯に入ったんじゃ……」
「ち、違う!」
ミレッタが慌てて叫ぶ。
「ダイチは間違ってねぇ!」
「……じゃあ?」
「……あたしが……」
ミレッタは言葉を詰まらせる。
そして――。
「……あたしが、ここに来たんだ」
「……」
大地は黙ってミレッタを見る。
その表情が、少しずつ真剣なものへ変わっていく。
「ミレッタ」
「……うん」
「何かあった?」
「……」
ミレッタは俯いた。
胸の奥が苦しくなる。
ここまで来たのに、いざ大地を目の前にすると、言葉が出てこない。
それでも――。
今夜だけは逃げたくなかった。
ミレッタはゆっくりと顔を上げる。
「……ダイチ」
「ん?」
「あたし……」
声が震える。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「……今日は、お前と一緒に温泉に入りたかったんだ」
大地は何も言わず、ミレッタを見つめている。
「ダイチに助けてもらってから……ずっと、お前のことが頭から離れない」
「……」
「仕事しててもダイチのことを考える。飯を食ってても、寝る前でも……気がつけば、お前のことばっかり考えてる」
ミレッタの瞳に、少しずつ涙が滲んでいく。
「こんなの、おかしいって思ってた」
一度、唇を噛む。
「エレナがいるのに……あたしまで好きになるなんて、駄目だって」
涙が一粒、頬を伝った。
「でも……無理だった」
ミレッタは涙を拭おうともせず、大地を見つめる。
「……好きなんだ」
声が震える。
「ダイチが……大好きなんだよ」
大地は静かに聞いていた。
そして、しばらくして口を開く。
「……ありがとう、ミレッタ」
その言葉に、ミレッタの肩がわずかに揺れる。
「エレナと俺がそういう関係ってことは知ってるんだよな?」
「……うん」
「それでも?」
「……うん」
ミレッタは小さく頷いた。
「おかしいって分かってる。でも……好きになった気持ちは、どうにもできなかった」
「……エレナには相談したのか?」
「……した」
「そっか」
「エレナは……あたしのこと、応援してくれて、今のこの状況も協力してくれたんだ」
ミレッタは苦笑する。
「本当に、あいつ何考えてるんだ」
大地も小さく笑った。
「……そうだな」
そして、再びミレッタを見る。
「でも、ミレッタ」
「……なんだ?」
「一つだけ聞かせてくれ」
「……うん」
「本当に、俺でいいのか?」
ミレッタは目を伏せた。
自分に自信があるわけではない。
エレナのように綺麗でもない。
大地が好むような女性になれるとも思えない。
それでも――。
この気持ちだけは、嘘じゃない。
「……お前じゃなきゃ、嫌だ」
その言葉には、一片の迷いもなかった。
「……う、うん…こんな体…ダイチは好きじゃないかもしれないけど」
「……どうしてだ?……綺麗だよ」
「…ほんとか?」
「当たり前だ。控えめだけどミレッタらしくてかわいいよ」
「……なら…もっとみてくれ」
恥ずかしそうにタオルを外して、大地の目の前に肢体を曝け出す。
「………っ!」
月明かりに照らさせる幼さも残る肢体は、神々しさも感じられる。大地はミレッタの肢体に目を離すことができない。
「……ミレッタ!」
「きゃっ!」
ミレッタの腕を引っ張って抱き寄せる。
「………」
「………」
辺りは掛け流しの湯の音が心地よく、汗ばんだ二つの裸体が重なり合っている。
触れ合いの最中、ミレッタの下腹部に何か硬い感触を覚えた。
「………ダ、ダイチ…興奮してる?」
「お前のせいだ」
ミレッタの幼さが残る体を壊さないように抱き寄せる腕に力が入る。
「……うれしい…あたしも女に見られてるんだ」
ミレッタは上目遣いで目に涙を浮かべながら、顔に朱が差す。
「泣いてももうやめないから」
「……はい…あたしを…ダイチのものにしてください」
温泉の水面映る月明かりにより生まれた二つの影がゆっくりと重なり合い、夜の帷と共に溶けていった。




