【第45話】エレナの心配事
一方、その頃。
大地はクレーベルの街を出て、拠点へ続く道を歩いていた。
市場で買い込んだ大量の食材は、すべて【アイテムボックス】へ収納している。
肉、魚、野菜、調味料。
職人たちの人数を考え、かなり多めに買った。
「これだけあれば、しばらくは大丈夫だろ」
歩きながら、大地は収納した食材のことを考える。
生鮮食品まで鮮度を保ったまま保存できる【アイテムボックス】は、宿を経営するうえでもかなり役に立ちそうだった。
やがて森へ入り、見慣れた道を進んでいく。
木々の隙間から、少しずつ目的地が見えてきた。
そして――。
「おお……!」
大地は思わず足を止めた。
昨日とは、明らかに違っている。
建物の骨組みはさらに組み上がり、屋根の一部まで姿を現していた。
温泉施設へ続く通路も形になり始めている。
敷地内では、職人たちが忙しそうに動き回っていた。
木材を運ぶ者。
柱を組み上げる者。
指示を飛ばす者。
あちこちから作業の音と掛け声が響いている。
「……すげぇ」
大地は完成へ近づいていく建物を見上げた。
昨日まで、まだ工事現場という印象が強かった場所が、確実に『宿』の姿へ変わり始めている。
急ピッチで進められていることが、一目で分かった。
「おーい! ダイチ!」
遠くから声が飛んでくる。
振り向くと、ミレッタがこちらへ向かって歩いてきた。
「おかえり!」
「ただいま、ミレッタ」
大地は笑いながら手を上げる。
「すごいな。昨日からかなり進んでるじゃん!」
「当たり前だろ!」
ミレッタは胸を張った。
「宿を建てると決めた以上、あたしら職人がいつまでもちんたらしてられるか!」
「いや、誰もそんなこと言ってないだろ」
「言ってなくても、あたしが嫌なんだ!」
「そういう問題か?」
「そういう問題だ!」
近くにいた職人たちが、苦笑を浮かべる。
「お嬢、朝からずっとこの調子なんですよ」
「休憩してくださいって言っても聞いてくれなくて……」
「余計なことを言うな!」
ミレッタが振り返る。
「宿を楽しみにしとる大地を待たせるわけにはいかねぇだろ!」
「俺は別に急かしてないぞ?」
「大地は黙ってな!」
「なんで俺まで怒られるんだよ!」
周囲から笑いが起こる。
「ところでダイチ…その怪我どうしたんだ?」
「あ、ああ…街でちょっとトラブルがあってな。まぁ大したことない」
「そうか。ならいいんだけどな」
ミレッタは少し心配そうな顔でこちらを一瞥するも、問題ないとわかって作業に戻る。
それにしても――。
大地はもう一度、建設中の宿を見上げた。
「……本当に、楽しみだな」
まだ完成には時間がかかる。
それでも、確実に形になっている。
自分がこの世界で初めて作ろうとしている場所。
疲れた人が休める場所。
温泉に入り、食事をして、笑える場所。
その未来が、少しずつ現実味を帯びてきていた。
――そのとき。
「……ダイチさん!」
聞き慣れた声が響いた。
振り返る。
エレナがこちらへ駆けてくる。
けれど、その表情には満面の笑みではなく――明らかな心配が浮かんでいた。
「……え?」
大地が首を傾げる。
エレナは大地の前まで来ると、まずその顔を見つめた。
そして――。
「……大地さん」
「ん?」
「その頬……どうしたんですか?」
「ああ、これ?」
大地は頬に触れる。
「ちょっと街で――」
「ちょっと?」
エレナの声が一段低くなった。
「……はい」
「どうして顔が腫れているんですか?」
「いや、まあ……ちょっとしたトラブルというか」
「どんなトラブルですか?」
「えーっと……」
大地が視線を逸らす。
エレナの眉が、ぴくりと動いた。
「大地さん?」
「……はい」
「説明してください」
「……はい」
大地は観念した。
だが、その前に――。
エレナがそっと大地の頬へ手を伸ばした。
「その前に……痛みますか?」
「いや、大丈夫」
「本当に?」
「ああ」
エレナは腫れた頬を心配そうに撫でる。
「腫れていますよ」
「でも、このくらい――」
「このくらい、ではありません」
「……はい」
大地が小さくなる。
それを見ていたミレッタが、腕を組みながら口元を緩めた。
「ははは!……ダイチ、エレナに怒られてやんの!」
「ミレッタ、助けて」
「ばーか!」
「ひどい!」
「どうせろくでもないことに首突っ込んだんだろ?自業自得だ!」
「いや、俺が好きで殴られたわけじゃないって!」
「なら、次は殴られる前に避けろ」
「それは正論だけど……」
エレナは二人のやり取りを横目に見ながら、静かに詠唱を始めた。
「癒しの光よ――」
柔らかな光がエレナの手から溢れ、大地の頬を包み込んだ。
じんわりとした温かさが広がっていく。
腫れていた箇所が少しずつ引き、痛みも消えていく。
やがて光が収まった。
「……どうですか?」
「うん。もう痛くない」
「よかった……」
エレナは安堵したように息を吐いた。
しかし――。
次の瞬間には、再び大地へ視線を向ける。
「それで?」
「……はい」
「何があったんですか?」
「……やっぱり話さないと駄目?」
「はい」
即答だった。
大地は観念して、今日の出来事を最初から説明し始めた。
朝の市場でリゼと会ったこと。
魚を買うために店を紹介してもらったこと。
その後、リゼが例の冒険者たちから『人殺し』と呼ばれて乱暴されそうになったこと。
そして――。
大地が間に入り、殴られたこと。
リゼの家へ行き、手当てを受けたこと。
さらに、彼女から過去の話を聞いたことまで。
エレナは途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
やがて大地が話し終える。
「……そうだったんですね」
エレナは視線を落とした。
「リゼさん……」
その声には、哀しみが滲んでいた。
「そんな過去があったんですね……」
「ああ」
「仲間の方たちを失って……それでも、自分だけが生き残ったことをずっと……」
「自分を責めてたみたいだ」
「……そうですか」
エレナは胸元へ手を当てる。
店で見かけるリゼの姿を思い出していた。
いつも静かで、人との距離を一定以上縮めようとしない。
料理をしているときだけ、ほんの少し表情が柔らかくなる。
あれが、ただの性格なのだと思っていた。
けれど――。
「……ずっと、自分自身を許せなかったのでしょうね」
「たぶんな」
「それでも料理だけは、手放さなかった……」
「ああ」
「仲間の方たちが褒めてくれた、大切なものだから」
エレナは静かに頷いた。
そして、ほんの少しだけ寂しそうに微笑む。
「それなら……大地さんに心を動かされてしまうのも、分かる気がします」
「……え?」
大地が目を瞬く。
「何?」
「いえ」
エレナは首を横に振った。
「なんでもありません」
「……?」
大地は不思議そうに首を傾げる。
エレナはそんな大地を見つめながら、胸の内で静かに息を吐いた。
リゼの気持ちは、なんとなく分かってしまう。
自分を守ってくれた。
自分の大切なものを認めてくれた。
そして、何の見返りも求めずに手を差し伸べてくれた。
そんな人を好きになるなという方が難しい。
ましてリゼは、長い間、自分の心を閉ざしていた。
そこへ大地が現れたのなら――。
心が動いてしまうのも、無理はない。
「……ですが」
エレナは大地を見る。
「大地さん」
「はい」
「無茶をするのは、やめてください」
「……はい」
「今日もそうです」
「……はい」
「どうして避けなかったんですか?」
大地は少し考えた。
「俺が殴られた方が、リゼがこれ以上恨まれなくて済むと思ったから」
「……」
エレナは黙った。
そして、少しだけ眉を寄せる。
「それを……無茶と言っているんです」
「……」
「自分が傷つけば済むと思わないでください」
「……ごめん」
「謝ればいいという話でもありません」
「……はい」
エレナの声が少し震えた。
「もし、もっと酷い怪我をしていたら?」
「……」
「もし、私が治せないほどの怪我だったら?」
大地は黙り込む。
「……心配したんですよ」
「……うん」
「本当に……怖かったんですから」
その言葉に、大地の表情から笑みが消えた。
「ごめん、エレナ」
「……もう」
エレナは小さく息を吐く。
怒っている。
けれど、それ以上に――大地を失うことが怖かった。
「次からは、ちゃんと自分の身も守ってください」
「分かった」
「約束ですよ?」
「ああ。約束する」
エレナはようやく、少しだけ表情を緩めた。
そして――。
「でも」
「ん?」
「リゼさんのことは……責められませんね」
「エレナ?」
「きっと、あの方は大地さんに救われたんだと思います」
大地は黙った。
「だから……」
エレナは少しだけ目を伏せる。
「大地さんを好きになってしまうのも、無理はないのでしょうね」
「……そんなことはないでしょう」
大地が固まる。
エレナはそんな大地を見つめる。
「大地さんは、本当に……」
「俺?」
「はい」
「何?」
「……罪な人ですね」
「え?」
「なんでもありません」
「いや、絶対なんでもなくないだろ」
エレナは答えなかった。
ただ、建設中の宿へ視線を向ける。
そこでは、ミレッタが職人たちへ大声で指示を飛ばしている。
その先には――。
街にいるリゼ。
そして、自分の隣にいる大地。
「……ミレッタさんも」
「うん」
「リゼさんも……」
エレナは小さく息を吐いた。
「大地さんのことを、どんどん好きになっていくのでしょうね」
「……なんでミレッタ?」
「ミレッタさんの視線を見てたら分かります。
同じ恋する乙女ですから」
エレナは即答した。
「内心、ものすごく複雑です」
「……ですよね」
「ですが……」
エレナは大地の手をそっと握った。
「私は、大地さんを信じています」
「エレナ……」
「ですから、そこだけは心配しないでください」
柔らかな笑顔。
けれど、その瞳には確かな意志が宿っていた。
「私は、何があっても大地さんの隣にいますから」
「……うん」
大地も、握られた手を優しく握り返す。
「愛してるよエレナ」
「私も愛しています」
その瞬間。
エレナの胸に、ほんの少しだけ複雑な感情が過った。
ミレッタ。
リゼ。
これから先も、大地を想う女性は増えていくのかもしれない。
そう考えると、正直なところ――気が重い。
それでも。
「……私も、負けませんから」
「ん?」
「なんでもありません」
「またそれかよ」
エレナは小さく笑った。
そして、大地の頬を指先で軽く突く。
「それと、大地さん」
「まだある?」
「あります」
「……はい」
「次からは、殴られる前に避けてください」
「努力します」
「努力ではなく、実行してください」
「はい……」
少し離れた場所で、その様子を見ていたミレッタが呆れたように呟く。
「……まったく。いつまでやってんだよ。あいつらは」
近くの職人が苦笑する。
「仲がいいですね」
「……ま、そうだよな」
ミレッタは二人を眺める。
その表情には、ほんの僅かに複雑な色が浮かんでいた。
「……あたしじゃ敵わねぇもんな」
「お嬢?」
「なんでもない!」
ミレッタは慌てて作業へ戻っていく。
「ほら、手を止めるな! 日が暮れるまでに、あそこまで仕上げるぞ!」
「はい!」
再び、建設現場に職人たちの声が響き始める。
大地はその様子を見ながら、完成へ近づいていく宿を眺めた。
まだ始まったばかりだ。
これから、この場所には多くの人が集まってくる。
笑う人。
泣く人。
傷ついた人。
そして――。
誰かを好きになる人も。
そんな未来が待っていることを、大地はまだ知らない。
ただ一つ。
この温泉宿が完成すれば、きっと今までとは違う日々が始まる。
その予感だけが、確かに胸の中にあった。




