【リゼside】揺れる想い
昼を過ぎた頃。
リゼは一人、店の厨房に立っていた。
窓から差し込む陽光が、木製の床を細く照らしている。
店内には、いつもの静けさがあった。
開店まではまだ時間がある。
客の姿もない。
聞こえてくるのは、包丁がまな板を叩く音と、鍋の中で湯が静かに揺れる音だけだった。
トントン、トントン。
一定のリズムで包丁を動かしながら、リゼは黙々と野菜を切っていく。
いつもと変わらない。
何年も繰り返してきた、当たり前の日常。
けれど――。
今日は、どうしても集中できなかった。
「……」
包丁を持つ手が止まる。
視線の先には、今朝買ってきた魚がある。
新鮮な魚。
いつもなら、どの料理に使うかを考えながら手際よく下処理を始めるところだ。
なのに。
どうしても、あの男の顔が浮かんでしまう。
「……ダイチ」
小さく名前を呟いた。
それだけで、胸の奥が妙に熱くなる。
リゼは慌てるように視線を落とした。
「……何を考えているの」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
けれど、頭から離れない。
市場で魚を選んでいたときのこと。
「リゼって、本当に料理好きなんだな」
そう言って笑った顔。
そして――。
自分を庇うように前へ出た背中。
何度殴られても、決して退かなかった姿。
『俺が殴られるだけならな』
あの言葉が、何度も耳の奥で蘇る。
「……」
リゼは包丁を置いた。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
自分を守るために傷ついた男。
それなのに、本人は大したことではないように笑っていた。
『困ってる人がいたら、助けるだろ』
あまりにも自然な言葉だった。
まるで、自分が特別だから助けたわけではない。
ただ、目の前に困っている人間がいた。
だから助けただけ。
そんな風に聞こえた。
「……変な人」
ぽつりと呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
大地に対してなのか。
それとも――。
こんなにも簡単に心を動かされてしまった、自分自身に対してなのか。
リゼは胸元に手を当てる。
心臓が、いつもより少し速く鼓動していた。
「……どうして」
目を閉じる。
すると、また思い出す。
大地が自分の料理を食べたいと言ってくれたこと。
『リゼ、本当に料理が好きなんだなって』
あの言葉が、頭から離れない。
これまで料理を褒めてくれた人間は、何人もいた。
けれど――。
あの言葉は、何かが違った。
料理だけを褒められたわけではない。
自分が好きだったもの。
仲間たちと過ごした時間。
そして、仲間たちを失った後も手放すことができなかったもの。
それを、大地は否定しなかった。
『だったら、その料理をもっと食べたいって思う人がいてもいいだろ』
その言葉を思い出すたびに、胸が熱くなる。
「……そんなこと言われたら」
リゼは俯いた。
「……期待してしまうじゃない」
その瞬間。
自分の口から出た言葉に、リゼ自身が固まった。
「……期待?」
静かな厨房に、自分の声だけが響く。
何を期待しているのか。
考えるまでもなかった。
また店に来てくれること。
自分の料理を食べてくれること。
笑ってくれること。
また話をしてくれること。
そして――。
「……一人は寂しい」
その言葉が、自然にこぼれた。
リゼは目を見開いた。
「……」
自分で言った言葉なのに、胸が大きく跳ねる。
頬が熱くなる。
「……私……」
その瞬間だった。
一つの答えが、胸の奥に浮かんだ。
けれど、リゼはすぐにそれを否定しようとした。
「違う」
小さく首を振る。
「違う……」
大地に助けられた。
昔の仲間たちを思い出した。
料理を肯定してもらった。
だから、少し気持ちが揺れただけ。
きっと、それだけだ。
そう思おうとした。
けれど――。
大地の笑顔を思い浮かべる。
「……」
胸が、また苦しくなる。
嬉しい。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
また自分の料理を食べてほしい。
その笑顔を、自分だけが見ていたい。
「……」
そこで、リゼは気づいた。
それはもう――。
ただの感謝ではなかった。
「……好き……なの?」
自分自身に問いかける。
返事はない。
けれど、胸の奥が答えていた。
ずっと閉ざしていた場所。
仲間たちを失ってから、誰かに向けることを避けてきた感情。
それが、今になって溢れ出してくる。
「……私……ダイチのこと……」
そこまで口にして、リゼは唇を噛んだ。
その先の言葉を、言ってしまうのが怖かった。
けれど――。
もう分かってしまった。
「……好きなんだ」
小さな声だった。
誰にも届かない。
けれど、自分自身にははっきりと聞こえた。
その瞬間、胸の奥が苦しくなる。
嬉しいはずなのに。
温かいはずなのに。
どうしてこんなにも、苦しいのだろう。
「……」
理由なら、分かっていた。
リゼは静かに息を吐く。
そして、昨日の夜のことを思い出す。
店を閉めるために街を歩いていたとき。
偶然、二人の姿を見かけた。
大地と――エレナ。
二人は並んで歩いていた。
会話をしながら、楽しそうに笑っていた。
エレナが大地を見つめる目。
大地がエレナへ向ける優しい表情。
それだけで分かった。
二人の間にあるものが、ただの仲間意識ではないことくらい。
そして――。
二人が恋人同士だということも。
「……そうだった」
リゼは静かに目を伏せる。
「ダイチには……エレナがいる」
胸に、小さな痛みが走った。
それでも、目を逸らさなかった。
エレナは優しい。
真っ直ぐで、芯が強くて。
そして何より――。
大地が大切にしている女性だ。
「……私が入る隙間なんて、ない」
自分に言い聞かせるように呟く。
リゼは再び包丁を手に取った。
野菜を切る。
トントン。
一定のリズム。
いつもの作業。
けれど、さっきまでとは違う。
目の奥に、僅かな涙が滲んでいた。
「……ダイチ」
また名前を呟く。
「好き」
今度は、はっきりと口にした。
誰にも聞かれない厨房だからこそ、言えた。
「……でも」
包丁を握る手に力が入る。
「私は……身を引く」
それが、一番いい。
そう思った。
大地には、大地の幸せがある。
エレナには、エレナの幸せがある。
そこへ自分が割って入る必要なんてない。
それに――。
自分には、そんな資格がない。
仲間たちを死なせた。
自分だけが生き残った。
人殺しと呼ばれても、否定できなかった。
そんな自分が、誰かの隣に立って幸せになろうなど――。
「……贅沢だよね」
自嘲するように笑う。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「……でも」
リゼは胸元に手を当てた。
そこに残る痛みを、静かに受け止める。
「好きになるくらいなら……許して」
誰に許しを求めているのか、自分でも分からない。
仲間たちなのか。
エレナなのか。
それとも――自分自身なのか。
ただ一つだけ、決めた。
大地には言わない。
この気持ちは、自分の胸の中だけにしまっておく。
「……大丈夫」
そう呟く。
「私は、いつも通りでいればいい」
店に来たら、料理を出す。
話しかけられたら、答える。
笑ってくれたら、自分も笑う。
それだけでいい。
それ以上を望んではいけない。
リゼは目元を指で拭う。
そして、再び包丁を握った。
トントン、トントン。
厨房に、包丁の音が響く。
けれど――。
いつもの音とは、少しだけ違って聞こえた。
まるで、胸の奥に芽生えた想いを、一つずつ刻み込むように。
「……また、食べに来て」
昨日、大地に言った言葉を思い出す。
その瞬間だけ、リゼの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「……うん」
誰もいない厨房で、静かに呟く。
「また……食べに来て」
それだけは、願ってもいい気がした。
恋人になれなくても。
隣に立てなくても。
自分の料理を食べて、少しだけ笑ってくれるなら――。
それでいい。
そう思おうとした。
けれど。
胸の奥に生まれた想いは、そんな簡単に消えてくれるものではなかった。
「……好き」
もう一度だけ呟く。
今度は、涙が一粒だけ頬を伝った。
リゼはそれを拭い、誰にも見られないように小さく笑う。
そして――。
いつものように、料理を作り始めた。
誰かのために。
かつては、死んでしまった仲間たちのために。
そして今は――。
自分の料理を「美味しい」と言ってくれる、あの人のために。




