【第44話】人殺しと呼ばれた女
翌朝。
空がようやく白み始めた頃、大地は一人でクレーベルの街へ向かっていた。
「……眠い」
大きな欠伸を漏らしながら、肩に買い物袋を掛ける。
昨日まで続いていた建設作業の疲労は、まだ身体の奥に残っていた。腕を動かせば僅かに重く、脚にも疲れが残っている。
それでも、朝早くから街へ向かう理由があった。
食材の買い出しだ。
温泉宿を作る以上、建物だけを立派にしても意味がない。
客に出す料理。
職人たちの食事。
そして、これから宿を運営していくために必要となる食材。
建物の基礎を固めるのと同じように、食事を支える環境を整えることも重要だった。
本当ならエレナも同行する予定だったのだが――。
「今日は、私は残ります」
朝食の席で、エレナは申し訳なさそうに微笑んでいた。
「昨日の作業で、まだ地盤の調整が必要な場所がありますので。ミレッタさん一人に任せるわけにもいきませんから」
「ああ、それなら仕方ないな」
「大地さんは、お一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。市場を歩いて買い物するだけだし」
「……それなら、よかったです」
エレナは少しだけ安心したように微笑む。
そして、思い出したように付け加えた。
「ですが……くれぐれも無理はしないでくださいね」
「分かってるって」
「本当ですか?」
「本当、本当」
「……少し心配です」
そう言って微笑んだエレナの顔を思い出し、大地も自然と口元を緩めた。
「よし。ちゃちゃっと買って戻るか」
そう呟き、街へ向かって歩き出す。
◇
朝の市場は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
まだ太陽が完全に昇りきっていないというのに、すでに多くの店が軒を連ね、商人たちが忙しそうに動き回っている。
魚を並べる店。
大きな包丁を使って肉を解体する店。
籠いっぱいの野菜を積み上げる店。
さらにその隣では、香辛料や調味料を扱う商人たちが声を張り上げていた。
「今朝獲れたばかりだぞ!」
「野菜ならこっちだ! 新鮮なのが揃ってる!」
「香辛料なら負けねぇぞ!」
威勢のいい声が飛び交い、焼いた肉や魚の匂い、香辛料の刺激的な香りが入り混じっている。
「やっぱり朝市って活気あるなぁ」
大地は周囲を見渡しながら歩いていた。
宿を建てることばかり考えていたせいか、こうして改めて街の市場を歩くと、宿を経営するという実感が少しずつ湧いてくる。
どんな料理を出そう。
どんな食材を使おう。
日本にいた頃に食べていた料理を、この世界の食材で再現できないだろうか。
そんなことを考えながら歩いていた、そのときだった。
人混みの向こうに、見覚えのある桃色の髪が見えた。
「……あれ?」
桃色の髪をした女性が、一軒の魚屋の前で魚を眺めている。
表情はいつものように落ち着いていて、周囲の喧騒から一歩離れた場所にいるようにも見えた。
「リゼさん?」
女性が振り返る。
大地と目が合うと、ほんの僅かに目を見開き、それから小さく会釈した。
「……おはよう」
「おはよう」
相変わらず静かな声だった。
「こんな朝早くから買い出しか?」
「店で使う食材を仕入れに来たところ」
「俺もだよ」
大地は肩に掛けていた買い物袋を持ち上げる。
「宿で使う食材を探してるんだけど、魚ってどこで買えばいいのか分からなくてさ」
リゼは少し考えるように市場の奥へ視線を向けた。
「それなら、私がいつも買っている店を紹介する」
「本当か?」
「品質も悪くないから」
「助かる!」
リゼは小さく頷くと、そのまま歩き始めた。
「こっち」
「おう!」
大地も慌てて後を追う。
◇
しばらく歩くと、魚を専門に扱う店へ辿り着いた。
店先には、今朝水揚げされたばかりなのだろう。まだ艶の残る魚が、種類ごとに並べられている。
大きな魚。
小さな魚。
見たことのない魚。
中には日本で見慣れた魚によく似たものもあれば、明らかに異世界特有と思われる奇妙な形の魚まであった。
「おお……」
大地は思わず目を輝かせた。
「これ、かなり大きいな」
「それより、こっち」
リゼが隣の魚を指差す。
「こっちの方がいい」
「なんで?」
「目を見て」
「目?」
「ええ」
リゼは魚を一匹手に取り、じっと確認する。
「目が濁っているものは避ける。それから鱗の艶。腹の張り。身の弾力も見る」
そう言いながら、別の魚にも手を伸ばす。
その動きには迷いがなかった。
魚の状態を確かめる指先は慣れていて、普段の無口でどこか冷たい印象とは違う、職人のような真剣さが滲んでいる。
「これは今日使うならいい」
「じゃあ、こっちは?」
「それはやめた方がいい」
「分かるのか?」
「触れば分かる」
「すげぇ……」
大地は素直に感心した。
「リゼさんって、本当に料理好きなんだな」
「……ええ」
その瞬間だけ、リゼの表情が僅かに柔らかくなった。
「昔から好きだった」
「じゃあ、これを何匹か」
「それなら、この大きさがいい」
「了解」
大地はリゼの言う通りに魚を選んでいく。
気づけば、完全にリゼに買い物を任せていた。
「……なんか楽しいな」
「そう?」
「ああ。朝の市場でこうやって買い物するの、結構テンション上がる」
リゼは少しだけ大地を見る。
そして――ほんの僅かに、口元を緩めた。
「……そう」
その変化は、ほんの一瞬だった。
けれど大地は、見逃さなかった。
◇
買い物を終え、市場の大通りへ戻った二人。
大地は両手いっぱいの食材を抱えていた。
「結構買ったな」
「買いすぎじゃない?」
「宿を建設中で職人がたくさん来てるんだ。このくらい必要だろ」
「……そう」
リゼが小さく頷く。
そのときだった。
「――おい」
背後から、低い声が飛んできた。
大地が振り返る。
そこには、数人の冒険者が立っていた。
彼らの視線は、大地ではない。
その隣にいるリゼへ向けられていた。
「……人殺し」
その言葉を聞いた瞬間、リゼの表情が僅かに強張った。
だが、それもほんの一瞬だった。
すぐに、いつもの無表情へ戻る。
「……」
何も言わない。
「よく平気な顔で街を歩けるな」
「仲間を全員死なせて、自分だけ生き残ったくせに」
「料理屋なんかやって、随分と呑気なもんだ」
大地は眉を寄せた。
「……リゼさん?」
「大丈夫」
小さな声だった。
「いつものことだから」
「いつものことって……」
大地が言いかけた、その瞬間。
男の一人がリゼの肩を乱暴に掴んだ。
「いつものことだとよ」
リゼの身体が僅かに揺れる。
それでも、抵抗しなかった。
男が拳を振り上げる。
「おい」
大地が一歩前へ出た。
「そのくらいに――」
振り下ろされた拳が、大地の頬を捉えた。
「――っ!」
鈍い衝撃。
顔が横へ弾かれる。
手にしていた買い物袋が地面へ落ち、野菜がいくつか転がった。
「………!」
リゼの目が見開かれる。
大地はゆっくりと顔を戻した。
「……痛ぇな」
男が鼻で笑う。
「なんだ? やり返してみろよ」
大地は拳を握った。
――簡単だった。
殴り返せばいい。
温泉の効果がなくても、自分ならこの男を一撃で吹き飛ばせる。
まして今は、普段の鍛錬と温泉の恩恵で、身体能力そのものが以前とは比較にならない。
だが――。
大地は拳をゆっくり下ろした。
(……駄目だ)
大地は隣にいるリゼを見る。
(ここで俺がやり返したら、こいつらは俺じゃなくてリゼを恨む)
一瞬で判断した。
「……殴り返さないのか?」
「俺はいい」
「は?」
「俺が殴られるだけならな」
男の顔が歪んだ。
「気に入らねぇな」
次の拳が飛んでくる。
ドッ!
「……っ!」
頬を打たれる。
さらに肩。
腹。
何度も拳が叩き込まれる。
「ダイチ!」
リゼが声を上げた。
大地は振り返らない。
(温泉が工事中で入れなかったから、今日はちょっと痛ぇな……)
それでも、立っている。
「大丈夫だから」
「でも……!」
「大丈夫」
また拳が飛んでくる。
大地は避けなかった。
避ければ、男たちの怒りがリゼへ向かうかもしれない。
だから、ただ受ける。
それだけだった。
――その光景を見て。
リゼの脳裏に、忘れようとしても忘れられなかった光景が蘇った。
◇
――逃げろ。
暗いダンジョン。
鼻を刺す血の匂い。
遠くから迫ってくる、無数の魔物の咆哮。
「急げ! 早く!」
「嫌! みんなも一緒に!」
「俺たちはいい!」
「でも――!」
「お前だけでも生きろ!」
傷ついた身体を引きずりながら、リゼは何度も振り返った。
背後では、仲間たちが魔物の群れを食い止めている。
一人が倒れた。
それでも、別の仲間が前へ出る。
また一人が倒れる。
それでも、剣を握る手は止まらない。
「行け!」
「振り返るな!」
「生きろ!」
「絶対に生き残れ!」
――あの日も。
仲間たちは、自分を逃がすために戦っていた。
自分が生き残るために。
自分だけを逃がすために。
そして今――。
目の前では、大地が殴られている。
「……やめて」
リゼの口から、かすかな声が漏れた。
だが、大地は動かない。
「俺は大丈夫だから」
また拳が叩き込まれる。
「……やめて」
今度は、はっきりと声が震えた。
「私のせいで……」
大地が振り返る。
「違う」
「……え?」
「リゼさんのせいじゃない」
その言葉に、リゼの瞳が揺れた。
――あの日。
仲間たちも、同じことを言った。
『お前のせいじゃない』
『逃げろ』
『生きろ』
そして今。
大地もまた、自分を守るために殴られている。
「……どうして」
胸が締め付けられる。
(どうして……また……)
(どうして私を守るの……?)
あの日と同じだった。
自分を逃がすために命を懸けた仲間たち。
そして今、自分の前に立ち、何度殴られても退かない大地。
けれど――一つだけ違う。
あの日の仲間たちは、自分を逃がすために命を懸けた。
そして今、大地は――。
「……俺が殴られて終わるなら、その方がいいだろ」
そう言って、自分を守っている。
「……っ」
リゼの胸の奥から、言葉にならない感情が込み上げてくる。
「もうやめて!」
気づけば、リゼは大地の前へ飛び出していた。
男の拳が止まる。
「……」
リゼは震えながら、それでも大地の前に立った。
まるで――。
かつて自分を守って死んでいった仲間たちのように。
「……もう、十分でしょう」
男たちは舌打ちした。
「チッ……」
「行くぞ」
「覚えてろよ」
吐き捨てるように言い残し、男たちは人混みの向こうへ消えていった。
◇
しばらくして。
「……行ったな」
大地は頬をさすった。
「ダイチ……」
「大丈夫だって」
「……本当に?」
「ああ」
大地は笑った。
「このくらい、どうってことない」
リゼは何も言わず、大地を見つめていた。
その姿が、何度も過去の仲間たちと重なって見える。
自分を庇う背中。
自分の代わりに傷つく姿。
そして――何も見返りを求めない言葉。
「……家に来て」
「え?」
「手当てする」
「いや、別に――」
「来て」
いつもより強い声だった。
「……分かった」
◇
リゼの家は、店の裏手にあった。
大地を椅子に座らせると、リゼは棚から薬と清潔な布を取り出した。
「動かないで」
「はい」
「……」
頬に薬が塗られる。
傷に薬が触れるたび、僅かに染みた。
「痛い?」
「いや」
「……本当に?」
「大丈夫」
リゼは薬を塗り終え、布を片付ける。
「……これで大丈夫」
「ありがとう」
大地は頭を下げた。
「助かった」
「……こちらこそ」
「え?」
リゼは視線を落とした。
「助けてくれて、ありがとう」
「まあ……」
大地は少し考える。
「俺が殴られた方が、リゼさんにとっては面倒が少なそうだったから」
「……」
「俺がやり返したら、あいつらがリゼさんにもっと酷いことをするかもしれないだろ」
リゼは黙って大地を見る。
「だから、あれでいい」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、そこまで……」
リゼの声が僅かに震えていた。
大地は少しだけ考えた。
そして、肩を竦める。
「困ってる人がいたら、助けるだろ」
あまりにも自然な答えだった。
まるで、それ以外の選択肢など最初から存在しないかのように。
「……」
リゼは何も言えなかった。
しばらくの沈黙が流れる。
やがて、リゼが静かに口を開いた。
「……私が、どうしてあんなふうに呼ばれているのか」
「……」
「話しておきたい」
◇
「数年前まで、私はAランク冒険者だった」
大地は目を見開いた。
「Aランク?」
「ええ」
リゼは淡々と話し始めた。
仲間たちとパーティを組んでいたこと。
いくつものダンジョンを攻略してきたこと。
危険な依頼も数え切れないほどこなし、それなりの実績を積んできたこと。
そして――。
「あるダンジョンで、私の不用意な行動が罠を作動させた」
「……」
「前後左右から、魔物の大群が現れた」
リゼの指先が僅かに震える。
「私は負傷した。足を痛めて、動けなくなった」
大地は黙って聞いている。
「それでも仲間たちは、私を逃がそうとした」
「……」
「私は嫌だと言った。みんなで逃げようって。でも……誰も聞いてくれなかった」
リゼは拳を握った。
「一人が倒れた」
「また一人」
「それでも、みんなは私を逃がそうとした」
その声は静かだった。
静かすぎるほどに。
「そして――私以外、全員死んだ」
部屋に静寂が落ちる。
「私は、一人だけ生き残った」
大地は何も言わない。
リゼは自分の手を見つめた。
「だから、仲間の家族からすれば……私がみんなを殺したように見えるのかもしれない」
「今日の奴らは?」
「仲間たちの兄弟たち」
「……そういうことか」
リゼは小さく頷いた。
「私は、何を言われても反論できなかった」
「……」
「だって……」
リゼは自分の手を見つめる。
「私だけが、生きているから」
その言葉は、責めるようでもなく、恨むようでもなかった。
ただ、自分自身に向けた判決のようだった。
大地は何も返さなかった。
『そんなことない』
『リゼのせいじゃない』
簡単な言葉で否定してしまうことが、今は正しいとは思えなかった。
リゼが何年もの間、自分自身を責め続けてきたことが分かるからこそ、軽い慰めなど届かない。
やがてリゼは、静かに続けた。
「料理屋を始めたのも、仲間たちが関係している」
「料理?」
「昔から、料理をするのが好きだった」
その瞬間だけ、リゼの表情が柔らかくなる。
「仲間たちが、よく褒めてくれた」
「……」
「ダンジョンから帰ると、みんなで私の料理を食べた」
その光景を思い出しているのだろう。
リゼの目が、ほんの少し遠くを見る。
「美味しいって」
その言葉だけは、今でも大切に残っているのだろう。
「何度も、そう言ってくれた」
「だから、店を?」
「ええ」
「……贖罪のため?」
「そう」
リゼは頷いた。
「私だけが生き残ったことへの、贖罪」
「……」
「料理を作って、誰かに食べてもらう。それを続けていれば……いつか、みんなに許してもらえる気がした」
大地は黙って聞いていた。
そして――。
ふと、先ほど市場で魚を選んでいたリゼの姿を思い出す。
魚を見る目。
食材を選ぶ手。
料理について話すときだけ、僅かに柔らかくなる表情。
あれは、贖罪だけで料理をしている人間の顔ではなかった。
「……リゼさん」
「……リゼでいい」
「じゃあ、リゼ」
「……うん」
「俺、今度また店に行くよ」
リゼが僅かに目を見開く。
「……え?」
「ちゃんと料理を食べたい」
「どうして?」
「市場で見てて思ったんだ」
大地は笑った。
「リゼ、本当に料理が好きなんだなって」
「……」
「だったら、その料理をもっと食べたいって思う人がいてもいいだろ」
リゼは答えなかった。
ただ、その瞳にはほんの少しだけ涙が浮かんでいた。
大地は、それに気づかないふりをした。
「今日はありがとう」
「……ううん」
「また食べに行くから」
「……うん」
小さな返事だった。
けれど、その声には――ほんの僅かに、以前とは違う響きがあった。
かつて仲間たちから聞いた言葉。
――美味しい。
――また作ってくれ。
――次も楽しみにしている。
そして今。
「……また、食べに来て」
リゼが少しだけ笑って、呟いた。
「……なんだ。笑えるじゃん」
「………」
リゼは信じられないものを見るように、自分の頬へ手を当てる。
自分が笑っていることに、本人が一番驚いていた。
「リゼは、笑った方がかわいいよ」
大地は何気なくそう言って笑った。
「…………っ!」
リゼの顔が、一瞬で赤くなる。
「な、何を……」
「ん?」
「……なんでもない」
リゼは慌てて顔を背けた。
その耳まで赤くなっていることに、大地は気づかない。
けれど――。
リゼの胸の奥で、長い間止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き始めていた。
仲間たちを失ってから、自分のために生きることを忘れていた時間。
罪を背負うことだけを目的にしていた時間。
その中に初めて――。
『また食べに来る』
そんな未来の約束が生まれた。
そして大地自身も、まだ知らない。
この日の出来事が――。
やがて、温泉宿の食卓に大きな変化をもたらすことを。




