【第34話】金竜王の羽の無口な店主
商人ギルドを出る頃には、すでに空は茜色を失い、濃紺の夜へと静かに移り変わり始めていた。
クレーベルの街を包んでいた夕暮れの光は薄れ、代わるように通りのあちこちで魔道具の明かりが灯っていく。石畳には淡い光が連なり、昼間とは違う、どこか落ち着いた夜の街並みが広がっていた。
大地は歩きながら、ふと空を見上げる。
「……結構遅くなったな」
「そうですね」
隣を歩くエレナも、同じように夜空を見上げた。
「商人ギルドでは、思った以上に色々と話を聞けましたから」
「ああ。資金のことも土地のことも、少しずつだけど見えてきた。なんとかなりそうで、ちょっと安心したよ」
大地は小さく息を吐いた。
これまで、温泉宿を作るという夢は、どこか遠い未来の話だった。
温泉を見つけた。
そこで暮らせる場所を作った。
エレナと一緒に風呂へ入り、料理を食べ、魔物を倒し、少しずつ生活を整えてきた。
だが、今日の商人ギルドでの話は、それまでとは違っていた。
土地を確保するための手続き。
建物を建てるための資金。
必要となる人材。
商売として宿を運営するための準備。
一つひとつ現実的な話を聞くほど、自分がやろうとしていることが、ただの夢物語ではないのだと実感させられる。
魔鉱巨獣を倒し、大量の魔鉱石を手に入れた。
その価値については、まだ正式な査定結果を待っているところだ。冒険者ギルドから結果が出るのは三日後。
それでも――。
以前とは、明らかに状況が変わっている。
温泉宿を作る。
その言葉が、一足飛びに現実味を帯び始めていた。
「まあ、まだまだこれからだけどな」
「はい」
二人は顔を見合わせる。
その瞬間だけ、これから始まる生活を想像しているような、穏やかな時間が流れた。
「……今日はもう、拠点に帰るか」
大地がそう言ったところで、エレナが隣から声をかける。
「その前に」
「ん?」
「夕食はどうされますか?」
「…………」
大地が足を止めた。
言われてみれば、朝からまともな食事を取っていない。
商人ギルドで話をしているうちに時間を忘れていたのだ。
「そういえば、まだ何も食べてないな」
「はい」
「じゃあ――」
大地は少し考えたあと、すぐに答えを出した。
「金竜王の羽に行こうか」
「はい」
エレナの表情が、ぱっと明るくなる。
「私も、そうおっしゃると思っていました」
「やっぱり?」
「はい」
「じゃあ決まりだな」
二人は自然に並び直し、夜の街へと歩き出した。
◇
しばらくして。
二人が訪れたのは、クレーベルに来てから何度も世話になっている食堂――【金竜王の羽】だった。
木製の扉を開ける。
「カラン……」
聞き慣れた小さな鈴の音が鳴り、店内の温かな空気が二人を包んだ。
「……いらっしゃい」
カウンターの向こうから、いつもと変わらない短い声が飛んでくる。
肩ほどまで伸びた桃色の髪。
淡々とした動作で料理を作り続ける、金竜王の羽の店主――リゼだ。
そして相変わらず、表情らしい表情はほとんど浮かんでいない。
大地は何気なく厨房へ目を向け――。
「…………」
思わず目を奪われた。
(……相変わらずリゼさん、すごい体してるよなぁ)
その視線が、どうしても胸元へ吸い寄せられる。
「……じゅるり」
「…………」
隣から、冷たい視線が突き刺さった。
「……ダイチさん?」
「はい?」
「どこを見て涎を垂らしているんですか?」
「いや、これは、その……料理の香りがね?」
大地は慌てて視線を逸らす。
「うん。美味しそうな香りだなぁって」
「…………」
エレナがじとりと大地を見る。
「目線がリゼさんの胸から離れていませんでしたよ?」
「いやいや、そんなことは――」
「ありました」
「……はい」
即答だった。
「もう……」
エレナは頬を膨らませるようにして、そっぽを向く。
その様子を見て、大地は苦笑した。
最近は、こういうやり取りも増えてきた。
以前ならエレナはもう少し遠慮して、こんなふうに拗ねた態度を見せることはなかっただろう。
その変化が、大地には少し嬉しかった。
二人は店内を見渡す。
「……相変わらずだな」
大地が苦笑する。
「そうですね」
エレナも頷いた。
店内には数人の客がいるだけだった。
夜の食事時だというのに、空席の方が目立っている。
店内に流れる空気も、どこか静かだった。
「こんばんは、リゼさん」
「…………」
リゼは小さく会釈する。
「二人?」
「はい」
「いつもの席でいい?」
「お願いします」
二人が席につくと、リゼはそれ以上何も言わず、注文を確認して厨房へ戻っていった。
しばらくして運ばれてきたのは、今日の夕食だった。
色とりどりの野菜を使ったサラダに、皮目を香ばしく焼き上げた白身魚のポワレ。
表面はこんがりと焼かれているのに、身はふっくらとしている。
皿から立ち上る香ばしい匂いが、空腹だった大地の胃を刺激した。
「美味しそうですね」
「だな」
二人は顔を見合わせる。
「「いただきます」」
大地とエレナは手を合わせ、食事を始めた。
一口食べた瞬間、大地の顔が緩む。
「……うまい」
「はい。相変わらずリゼさんのお料理は美味しいですね」
「だよな」
「私も色々なお店で食事をしてきましたが、リゼさんの料理は本当に一流だと思います」
「料理だけなら、もっと繁盛しててもおかしくないんだけどな」
大地は店内を見回す。
料理の味に問題があるわけではない。
むしろ逆だ。
これほど美味しい料理を出せる店なのに、客足は少ない。
「……不思議ですよね」
エレナも同じことを考えていたのか、店内を見回した。
「そうだな」
二人は自然と会話を続けながら、食事を楽しんでいく。
以前から、こうして二人で食事をすることはあった。
だが――。
何かが違う。
大地自身は、その変化を明確には意識していなかった。
ただ、以前よりもエレナとの距離が近い。
視線が合えば自然と笑い、料理を取り分ければ「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んでくれる。
会話の端々には、互いを気遣う言葉が増えていた。
「エレナ、これ食べる?」
大地が魚を少し取り分ける。
「はい。ありがとうございます」
「熱いから気をつけて」
「ふふっ……はい」
エレナは嬉しそうに笑った。
その光景を、カウンターの奥から静かに見つめる者がいた。
リゼである。
食器を拭いていた手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「…………」
表情は変わらない。
けれど、その視線だけが二人を追っている。
以前から二人は仲が良かった。
それは知っている。
だが――。
今は、明らかに違う。
互いを見る目。
自然に縮まった距離。
何より、エレナの表情。
普段の彼女は礼儀正しく、穏やかでありながら、どこか他人との間に一線を引いている。
それが今は、大地の前では警戒を解き、まるで別人のように自然な笑顔を浮かべていた。
リゼはしばらく二人を見ていたが、やがてパンのおかわりを手に取ると、二人のテーブルへ向かった。
「…………」
パンを置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
大地が礼を言う。
リゼはそのまま戻ろうとした。
しかし――。
「…………」
足が止まる。
「どうかしましたか?」
大地とエレナが顔を上げる。
リゼは二人を交互に見た。
そして、淡々と口を開く。
「付き合ってる?」
「…………」
大地の箸が止まった。
エレナの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「えっ……」
リゼは無表情のまま二人を見る。
「……間違った?」
「いや、その……」
大地は困ったようにエレナを見る。
エレナは真っ赤になったまま、俯いている。
数秒の沈黙。
やがて大地が、小さく笑った。
「まあ……そういうことになった」
「……そう」
リゼは特に驚く様子もない。
そしてエレナへ視線を向けた。
「エレナ」
「は、はい……」
「おめでとう」
「……っ」
エレナの顔が、さらに赤くなる。
「ありがとうございます……」
小さな声で答える。
リゼはそれだけ言うと、今度は大地へ視線を移した。
「…………」
「な、なんですか?」
「泣かせたら許さない」
「…………」
短い言葉だった。
それなのに、妙に重い。
大地は一瞬だけ黙り、それから真っ直ぐにリゼを見る。
「分かってます」
「…………そう」
リゼはそれ以上何も言わず、踵を返してカウンターへ戻っていった。
その背中を見送りながら、大地は苦笑する。
「……なんか、リゼさんらしいな」
「はい……」
エレナはまだ少し恥ずかしそうに俯いている。
「でも……嬉しいです」
「何が?」
「リゼさんに、おめでとうと言っていただけたことです」
「そっか」
大地は笑った。
「じゃあ、良かったな」
「はい」
エレナも微笑む。
それから二人は、再び食事へ戻った。
けれど――。
同じ店で、同じ料理を食べているはずなのに。
以前とは、ほんの少しだけ違って感じられた。
互いの距離が近くなった。
ただ、それだけのことなのに。
穏やかで、温かな時間だった。
――その時間を壊したのは、店の扉が乱暴に開かれた音だった。
「邪魔するぜぇ!」
「…………」
店内にいた客たちが、一斉に入口へ視線を向ける。
入ってきたのは、三人の冒険者だった。
酒が入っているのか、顔は赤く、足取りもどこかふらついている。
装備も手入れされているとは言い難く、腰には剣を下げているものの、冒険者としての緊張感や節度は感じられなかった。
先頭の男が、店内を見回す。
「なんだここ?」
「ずいぶんボロい店だな」
「客も全然いねぇじゃねぇか」
仲間の男たちが笑う。
リゼはカウンターの向こうから三人を見た。
「……食事?」
「は?」
「食事なら注文を聞く」
淡々とした声だった。
男は鼻で笑う。
「ずいぶん愛想が悪い店だな」
「…………」
リゼは何も答えない。
男は店内を見回しながら、さらに口元を歪めた。
「ここか?」
「何が?」
「人殺しのやってる店は」
――空気が変わった。
大地の箸が止まる。
エレナも顔を上げた。
リゼは――何も言わない。
「…………」
男はその反応を見て、面白がるように笑った。
「なんだ、図星か?」
「聞いた話じゃ、ここの女――」
「やめた方がいいですよ」
エレナが静かに口を挟んだ。
男が振り返る。
「……あ?」
「食事をするつもりがないのでしたら、帰られた方がよろしいかと」
「なんだ、お前」
男がエレナを睨む。
「関係ねぇ奴は黙ってろ」
「…………」
エレナはそれ以上何も言わなかった。
ただ、その目からは先ほどまでの柔らかな笑みが消えていた。
リゼも反論しない。
それをいいことに、男は調子に乗ったように店内を歩き回る。
「しかし、こんな店がよく残ってるな」
「料理も大したことなさそうだ」
「こんな場所で客が来ると思ってんのか?」
ガンッ!
男が近くの椅子を蹴り飛ばした。
椅子が倒れ、床を滑る。
「…………!」
店内にいた客が怯えたように身を縮めた。
リゼはそれを見ても、何も言わない。
ただ、倒れた椅子を静かに見つめている。
「おい、聞いてんのか?」
男がカウンターへ近づいてくる。
「人殺しなんだろ?」
「…………」
「なんとか言ったらどうなんだ?」
男がカウンターに置かれていた食器を掴んだ。
そして――。
ガシャンッ!
床へ叩きつけた。
白い陶器が砕け、破片が周囲へ飛び散る。
エレナが息を呑む。
大地は静かに箸を置いた。
「…………」
男は笑っている。
「どうした? 怖くて何も言えねぇのか?」
リゼは相変わらず無表情だった。
「……食器を壊すなら、弁償して」
「は?」
「それだけ」
男が呆気に取られる。
そして次の瞬間、大声で笑い始めた。
「ははははっ!」
「こいつ、マジかよ!」
「店壊されてんのに、それしか言わねぇぞ!」
リゼは何も言わなかった。
ただ、静かに立っている。
その姿を見て――。
大地は席を立った。
「もういいだろ」
「…………あ?」
男が振り返る。
大地はゆっくりと男の前まで歩いていく。
「もういいだろ。マイスウィートハニーとの食事の時間が台無しじゃないか」
「なんだ、お前?」
「客だよ」
「客が偉そうに口出してんじゃねぇよ」
男が大地の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
その腕を――。
大地は掴んだ。
「……痛っ!」
男の顔が歪む。
大地は、ほとんど力を入れていなかった。
ただ、逃げられないように腕を掴んだだけ。
そのつもりだった。
ところが――。
男の腕が、まるで石に挟まれたかのように動かない。
「な……なんだ……?」
男が必死に腕を引く。
それでも、大地の手は微動だにしない。
(……あれ?)
大地自身も少し驚いていた。
(出発前に温泉に入っておいて正解だったか? 今回は八時間に設定してみたけど……問題なさそうだな)
温泉の効果。
身体能力向上。
その力を、大地は改めて実感していた。
しかも――。
本人には、ほとんど力を込めている感覚がない。
「なんだお前たちは……リゼさんのファンか?」
大地は呆れたように男を見る。
「好きすぎて悪戯しちゃう系の男子なのか? ならファンクラブ会員ナンバー一桁の俺を通してからにしな」
「わけわからねぇこと言いやがって……!」
男がもう片方の腕を振り上げる。
しかし――。
大地は、その腕も掴んだ。
「……っ!」
今度こそ、男の表情から余裕が消えた。
両腕を掴まれている。
なのに、大地は息一つ乱していない。
「これ以上やるなら、俺も客じゃいられなくなる」
「…………」
男の顔から笑みが消えた。
「なんだ……こいつ……」
大地は無表情のまま、男を見る。
「店を壊すのも、人に絡むのも、ここではやめてくれ」
「離せ!」
「帰るなら離す」
「ふざけんな!」
男が身体を捻る。
だが――。
動かない。
まるで大地の腕そのものが、鉄の枷に変わったようだった。
「……くそっ!」
仲間の二人が前へ出ようとする。
その瞬間。
エレナが静かに立ち上がった。
「やめておいた方がよろしいですよ」
「…………」
エレナの声は穏やかだった。
しかし、その目には笑みがない。
「ダイチさんを怒らせない方がいいと思います」
「…………」
二人の冒険者が互いの顔を見る。
そして――。
「……チッ」
舌打ちをした。
大地は男の腕を離す。
「ほら」
男は腕をさすりながら、大地を睨みつけた。
「覚えてろよ」
「そういう捨て台詞はいらないから」
「…………」
男たちは乱暴に扉を開け、そのまま店の外へ出ていった。
「バタンッ!」
扉が閉まる。
店内に、再び静寂が戻った。
誰もすぐには口を開かなかった。
大地は床に散らばった食器の破片を見る。
「……リゼさん」
「……何?」
「大丈夫ですか?」
リゼは大地を見る。
しばらく何も言わなかった。
そして、いつもの無表情のまま答える。
「定期的に来る……いつものことだから」
「…………」
その言葉に、大地の眉がわずかに寄った。
「いつものことって……」
「気にしなくていい」
「でも――」
「本当に大丈夫だから」
淡々とした声。
けれど、その言葉の奥には、何かを押し殺しているような響きがあった。
大地はそれ以上追及しなかった。
代わりに、倒れていた椅子を起こす。
「困ってるなら、言ってください」
「…………」
リゼは答えない。
ただ、大地が起こした椅子を受け取った。
「ありがとう」
「いえ」
リゼの表情は変わらない。
声も、いつも通り淡々としている。
けれど――。
ほんの一瞬。
その瞳の奥で、何かが揺れた。
大地は気づかなかった。
エレナも気づかなかった。
ただ一人、リゼだけが知っていた。
胸の奥にしまい込み、誰にも触れさせないようにしてきた過去を。
――人殺し。
その言葉を聞いた瞬間から、頭の奥に蘇っていた記憶。
むせ返るような血の匂い。
耳を覆いたくなるほどの悲鳴。
震える手。
そして――。
自分が、この店を始めることになった理由。
「…………」
リゼは誰にも見られないよう、そっと拳を握り締めた。
もう何年も前のことだ。
忘れたつもりだった。
けれど――。
忘れられるはずがない。
この店を守る理由も。
彼女が、今もこの場所に立ち続ける理由も。
すべては、あの日から始まった。
◇
「そろそろ帰ろうか」
食事を終えた大地が立ち上がる。
「はい」
エレナも席を立った。
「ごちそうさまでした、リゼさん」
「…………」
大地も頭を下げる。
「ありがとうございました」
「気をつけて」
「はい」
二人は店を出ていく。
扉が閉じる。
「カラン……」
小さな鈴の音が響き、やがて静寂が戻ってきた。
誰もいなくなった店内で、リゼは一人、床に落ちた最後の陶器の破片を拾い上げる。
掌の中で、白い欠片が月明かりを受けて淡く光った。
「…………」
リゼはそれを見つめる。
そして――。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……ごめんなさい」
視線を、二人が去っていった扉へ向ける。
その横顔には、ほんの僅かな寂しさが浮かんでいた。
けれど、涙はもう流れない。
泣けるほどの感情さえ、とうの昔に枯れ果てていた。
かつて、自分もまた――。
守りたかったものを守れなかった。
その記憶から逃げるように、この店を始めた。
誰にも語ることなく。
誰にも知られることなく。
ただ、この場所で生きてきた。
「…………」
リゼは目を閉じる。
胸の奥に沈めていた記憶が、再び静かに疼き始める。
自分は決して許されない。
――許されてはいけない人間だから。
月明かりだけが差し込む店内で、リゼは一人、静かに震える手を握り締めていた。




